第8話
「お待たせしました。ご注文の品ですー」
男性店員が、溢れんばかりに中身を注いだグラスと食器を持ってきた。
これだけの量を配膳するのは大変だろうが、慣れた手つきで一滴も零さず机に飲み物を並べる。
机の奥から手前まで、どの料理なのかを流れるように説明すると、腰を屈めて去って行った。
あっという間の出来事だが、一切の無駄を削ぎ落としたプロの極意を感じる。
「ちょうど自己紹介も済んだところだし、皆自分の飲み物持って。乾杯しましょ」
仁も目の前に置かれた、オレンジ色の液体に手を伸ばす。
軽く匂いを嗅ぐと、実家でよく飲んでいたオレンジジュースと同じ匂いがした。
確かにあまりアルコールは入っていないようだ。
各々がグラスを手に取り、軽く頭上に掲げる。仁も見様見真似でグラスを持ち上げると、正面の正宗と目があった。
「今日はお忙しいところ、お集まりいただきありがとう。一年生が一人来てくれたという事実に、乾杯!」
彼の高らかな宣言に続いて、他のメンバーも乾杯と唱和する。
幼稚園の卒業式みたいだと思いつつ、仁も乾杯と言ってグラスを突き出した。
五人のグラスが机の真ん中でぶつかって、カチンという小気味いい音が鳴る。
と、その瞬間だった。
「そんな正宗から始まる何ゲーム?」
柚子佳が暗号めいた言葉を唱えた。
向日葵のような笑顔を咲かせているが、瞳はギラギラと闘志を燃やしている。彼女の言葉が何かの合図になったのか、弛緩していた空気が一瞬にしてピリリと張り詰めた。
正宗は眉をピクリと動かし、腕を組むと柚子佳に応えるように声を張り上げた。
「山手線ゲーム!」
彼の瞳もまた、めらめらと光り輝いている。
一体何が始まるのか見当もつかない仁は、異様な雰囲気に声も出せない。
「お題をよーい!」
正宗の声に負けず劣らず、他の三人が山彦のように声を張り上げる。会話のような、押し問答のような意味のわからない文字の羅列だ。
「無難に山手線の駅名で、回し順は反時計回りにいこう」
ぐるぐると、空中に円を描くように手を動かす正宗。
一人ついていけない仁に、古賀が口を近づけ耳打ちをしてくれた。
「山手線の駅名、わかります? 今からみんなが手を叩いてリズムを作るので、僕の後に続いて、どこでもいいので一駅言ってください。
ただ、既に場に出た名前はダメです」
「えっ、どういうことですか?」
早口で言われたところで、はいそうですかとすぐに理解できる内容ではない。
けれど、古賀はそれ以上説明できないというように前を向いてしまう。その彼の眼鏡もまた、輝いていた。
そういえば、新歓のビラに『山手線ゲーム』なるものについて書いてあった気がする。
仁の脳裏にもらったチラシが浮かぶが、文字がぎっしり書かれた内容までは思い出せない。今更ながら、チラシであの文量はどうなのかと首を傾げたくなる。
あたふたとする仁を他所に、四人が一斉に手をパンパンと二回打ち鳴らした。何かを降臨させる儀式にしか見えず、恐ろしさも感じる。
正宗が手拍子に続けてハキハキと宣言した。
「池袋」
彼の発言の後、また四人が二回同じリズムで手を合わせる。
「原宿」
柚子佳が歌うように続ける。そしてまた全員が手を叩く。
「目黒」
風磨もしっかりと発音している。パンパンと、繰り返される手拍子。
「五反田」
隣の古賀が口を開きながら、仁の肩をそっと叩いた。
次は仁の出番だという風に。
よくスラスラと続くものだと呆気に取られていたが、やはり自分も勘定に入れられていたと気がつき、冷や汗が出る。
東京で暮らしてまだ一ヶ月。
当然山手線の駅名など、有名なものしかわからない。
そんな仁の内心は無視され、無情にもタイムリミットの拍手が降り注いだ。なんとか知恵を振り絞って、咄嗟にターミナル駅を口にする。
「え、あーと、新宿?」
正解か不正解かわからないまま、正宗を見ると彼は「おっ」と嬉しそうに手を叩いた。
そしてまた口を開く。
「恵比寿」
どうやら新宿は山手線が通っているらしい。一周して終わるかと思いきや、まだま
だゲームは続くようだ。
「目白」
「高田馬場」
柚子佳と風磨が事もなげに駅名を述べる。
このままではまた仁に順番が回ってきてしまう。そうなると、次また正解を言える可能性は非常に低い。
祈る気持ちで古賀を見つめるが、彼はチラリと横目で仁を見るとサラリと次の駅名を口にした。
「高輪台」
知らない駅名だが、高輪という地名には聞き覚えがある。
東京だったのかもわからないが、とにかく次は仁の番だ。
頭をフル回転させて、なんとかニュースでよく見る地名や駅名を脳の奥から引っ張り出す。流れるリズムに乗って無意識のうちに手を叩くも、頭は真っ白だった。
ところが仁と古賀を除いた三人が手を止めて古賀を指差し、大きな声で叫んだのだ。
「高輪台、高輪台、高輪台!」
チャチャチャ、とサンバのように三回単語を繰り返すや否や、彼らは古賀と彼の頼んだ飲み物を交互に指差す。
理解の範疇を超える仕草に、やはり新手の降霊術を行うサークルなのかという怯えが再び湧き起こった。
いかに絶世の美女がいようとも、いくら無料でご飯にありつけようとも、あまりにも迂闊な行動だったと後悔の念が渦巻く。
注目の的となっている古賀は、眼鏡をクイッと押し上げると、目の前のジョッキを力強く掴み取った。
そしてそのまま口元にグラスを添えると、驚くほど速いスピードで酒を飲み始めた。
「えっ、古賀先輩⁉」
人間が液体を飲む速度を一とするなら、古賀の飲む速度は百。
チーターが駆け抜ける時、音が全く出ないというが、彼の飲みっぷりもまさしく獣のよう。
美しくしなやかに、そしてひたすら静かに、喉へ酒を送り込む。
生まれた時、彼は母乳もこうやって飲んでいたのだろうか。
知りもしない彼の幼少期に思いを馳せている間に、彼は五百ミリリットルはあるであろう酒を全て飲み干した。
心配のあまり古賀へ両手を伸ばしかけた仁の頭に、新歓チラシの一文が舞い降りた。
確か『飲みゲー』で負けると、一杯の飲料を飲まないといけないルールではなかったか。ということは、古賀は高輪台と口にして、このゲームに負けたということだ。
仁が顔を青くして古賀のことを見つめていたから、彼は後輩を庇って山手線ではない駅名を口にしたのだろうか。
「古賀先輩、すいません。今のって、もしかしてわざと」
「いえ。ただ高輪台と高輪ゲートウェイを間違えただけですよ」
ゆっくりと口角を上げ、それに、と続ける。
「ビールは提供された時が一番美味しいですからね。今飲み干したかったので、丁度よかったです」
心底満足そうに、華奢な指でスッと空のジョッキを撫でる。慈愛のこもった目は、マグダラのマリアを彷彿とさせた。
その二人の様子を見ていた正宗が、パンと再び大きく手を一度だけ叩いた。
「というわけで、今のが入学式の時に配っていたビラに記載した山手線ゲームだぜ。実際にやってみないとって思って、いきなり巻き込んですまんな」
「いや本当にいきなりですね、怖かったですよ!」
右も左もわからないまま、突如始まった飲みゲーに参加させられたのだ。当然この状況に対して異議を唱える権利はある。
わななく仁に柚子佳が手刀を切って謝ってくるが、可愛ければ何をしてもいいってもんじゃないぞと歯を食いしばる。
それにしても、可愛い。
「怖がらせてごめんね。でもあの文字だらけのチラシじゃ、何もわからないかなーって思ったからさ。よかれと思ってやったんだけど」
善意でやってくれたならオールオッケーと言いそうなところをこらえ、仁は言葉を探す。
疑問だらけで何を最初に聞けばいいかも分からないが、とにかく気になることは全て聞こうと口を開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます