第5話

「ただいまー」


 と言っても誰もいなーい、と仁は心の中でこっそり付け足す。


 かぎっ子だったが故に、家に帰る時に必ず『ただいま』と口に出す習慣が未だに抜けない。

 年季が入ったアパートでの男一人暮らしに、防犯意識は不要と思うものの、この言葉を唱えることで安心できるのも事実なのだ。


 ガチャリとドアを押すと、目の前に申し訳程度のキッチンと、そのすぐ奥に六畳一間の殺風景な空間が広がる。実家の自分の部屋と同じくらいか、下手をすればそれよりも狭い仁のスモールワールドだ。


 入学式の直前に引っ越してきてから一週間ほど経ったが、まだ荷物は増えていない。日当たりのいい窓際近くに置いたベッドに、部屋の中心に置いた机と正面に設置されたソファ。

 タンスや本棚もないけれど、この三つの家具さえあればなんとか生活していける。


 仁は靴を脱いでそろえると、冷蔵庫を開けて麦茶をがぶがぶと飲んだ。

 随分とボロいアパートだが、家電一式は部屋に備え付けられているタイプだった。金に余裕のない彼にとっては、非常にありがたい。もし冷蔵庫やクーラーを一から揃えようとしたら、バイトを何日もする必要があっただろう。


 冷蔵庫を閉じると、仁はベッドへズルズルと移動した。

 小さなヘッドボードに飾られている電子カレンダーにチラリと目をやると、六日の午後五時を指している。新歓食事会まで、およそ一時間。


 塾講バイトの面接に行った後、いったん家に帰ってから大学に行けば間に合うと思っていたが、結構ギリギリになりそうだ。ここから大学までは歩いて三十分近くかかるし、地下鉄で向かおうとすると遠回りになってしまう。


 それでも面接に着ていった堅苦しいスーツは脱いで、楽な格好で出かけたい。

 ベッドの下の収納スペースへ屈んで手を伸ばし、彼は服の選別を始めた。


 高校の時に着ていたパーカーはよれているし、なんだかデザインが幼く見える。かといってこちらの白シャツは気合が入りすぎているように見える。ジーンズはどれも色あせているし、一体どうしたものか。


 頭をひねってみても、目の前にある服が増えるわけでもない。

 時間も限られているので、結局無難な黒のチノパンに、よれているパーカーを引っ張り出した。どうせスカジャンを羽織れば下に着ている服は見えない。

 バイトは恐らく受かっているし、給料が入ったら駅前の大型チェーン店で、マネキンが着ている服を買ってみよう。


 田舎にいた時は自分が何を着るかなんて無頓着だったのに、と考えながら手早く袖に腕を通す。

 ここ数日で都心の若者の洒脱な空気にすっかりあてられ、仁のお洒落意欲もグンと成長したのだった。

 それにみすぼらしい格好をしていたら、貧困学生というのを周囲にアピールしているようで恥ずかしいことこの上ない。


 てきぱきと着替え、洗面所に移動をして軽く髪もとかして整える。

 さすがに周りのように明るく染める勇気も金もないため、彼の髪は生まれながらの真っ黒だ。


 だが昨今、黒髪ブームが巷で巻き起こっているらしい。なんでも数十年ぶりに、重めの黒髪マッシュ俳優がブレイクしたのがきっかけだそうだ。

 テレビがないので詳しくはないのだが、黒髪に追い風が吹いているのは嬉しい。


「……こんな気合入れても、柚子佳さん好きな人いるしなぁ」


 再び大きく息を吐き、出会ってわずか二十分足らずで心を砕かれた先輩の顔を思い浮べる。

 連絡先を交換した後も、今日の歓迎会に関する事務的な連絡しか来なかった。


 その一方で正宗からは毎日のようにメッセージが届いた。

 てっきりサークルに関する暑苦しいことかと思い、最初は未読のままにしていたのだが、意外にも学校生活で役に立つことを教えてくれた。


 学校の教科書は買うよりも先輩の物を借りてコピーした方がいいとか、健康診断は正規ルートで行くと混雑するので血圧測定から行くといいとか。


 見た目に反して細やかな気遣いができる人だと驚くと同時に、こういうギャップに柚子佳はやられたのかと肩を落とした。


 それでもとにかく今日は行くと決めたので、参加は絶対だ。鼓舞するために鏡の中の自分に向かって大きく頷き、颯爽と玄関に向かった。


 もしかしたら彼女以外にも可愛い女性がいるかもしれないし、と鼻の下を伸ばしつつ施錠した時だった。

 彼の尻ポケットから、軽快なメロディが流れ出してきた。


「ん、電話?」


 ごそごそと右手で鍵をスカジャンにしまい、左手で携帯を取り出す。

 ディスプレイに表示された名前を見て、仁は鼻白んだ。

 相手は滝呑幸子たきのみさちこ、彼の母親だった。

 

 体を硬直させたのもつかの間、ロックを解除して通話に応答した。そのまま大学の方面へつながる大通りへと歩き出す。


「もしもし母さん、どうしたの?」


 仁が努めて明るい声を出すと、電話の向こうから甲高い耳に触る声が返ってきた。


「どうしたもこうしたも、あんたが全然連絡よこさないから電話したのよ。

 そっち行って一週間なんの音沙汰もないなんて、私のこと忘れでもしたの?」


 キャンキャンと吠える声音から、仁は彼女の心の調子を推し量る。

 これはかなり赤信号が灯っているな、と思いながら必死に頭を回転させる。


「忘れるなんて、そんなまさか。連絡をしたかったんだけど、授業の準備とかで忙しかったんだ」

「本当に? 成人して都会に出て、こんな面倒臭い母親いらないとか思ってるんじゃないの?」


 訝しそうに、それでも息子に自分の言葉が否定される期待を滲ませる返事が返ってくる。重大な被害妄想を繰り広げるのは相変わらずだと言いたいところをこらえ、仁は口元に笑みを浮かべて朗らかな声を出す。


「ここまで育ててくれた母さんに感謝することはあっても、いらないなんて思いもしないよ。

 ただ、自立しないとなーとは思ってるよ。だから今日は塾講師の面接行ってたんだ」

「あら、塾講師のアルバイトをするのね。大学の講義だけじゃなくて、ちゃんと立派な仕事もするなんて偉いわ」


 機嫌があっという間にクルリと変わるのも、いつも通り。

 貼り付けた笑みがひくつくのを感じるが、その表情も電話なら気取られる心配はない。

 急ぎ足で道を進みながら電話を切るタイミングを見計らうが、母親の話は途切れなかった。


「私はね、あなたのことが心配でたまらないのよ。大事な一人息子を都会に送って、私は一人きりで田舎暮らしでしょ。

 近所の人は『息子さん凄いですねー。お父さんも天国で喜んでますよ』って言ってくれるけど、やっぱり地元にいてほしい気持ちがねぇ……」


 言葉とは裏腹に、語尾に音符マークがついているようなテンションだ。近所から羨まれる息子がいるという事実が、たまらなく嬉しいのだろう。


「正直老後ってまだ考えられないけど、また一緒に暮らせたらいいなって夢見ちゃう。その時はあんたにも素敵なお嫁さんがいたらいいなって、母さん思うのよ。

 ねぇ、ちょっとちゃんと私の話聞いてる?」


 正面からチワワを連れてきた男性が歩いてくる。小さい犬程よく吠える、という言葉がぼんやりと頭に浮かんできた。


「あはは、ちゃんと聞いてるよ。まだそんな先のこと、考えられないけど」

「まぁそれもそうね。はぁ、でもやっぱり母さんとにかく寂しいみたい……今度そっちに遊びに行こうかしら。そういえば、東京限定のスイーツがね」


 犬を連れた男性を横目に、駆け足で進み続ける。チワワは仁に向かってワンと軽く吠えるが、飛び掛かるような真似はしてこなかった。

 小さい犬は虚勢を張るが、その姿は懸命で可愛らしく同情すら誘うんだよなと、仁はいつも思う。


 ふと腕時計に目をやると、待ち合わせまで残り二十分といったところだった。

 母と電話をしながらだと歩く速度が狂うようで、正門には余裕をもってたどり着けそうだ。


 ぼちぼち潮時かと、姦しく話し続ける母親にそっと告げる。


「ごめん母さん。この後大学の人と会う予定があって、そろそろ電話切っても大丈夫かな」

「へぇ、早速大学で友達ができたのね!」


 友達というよりもヘンテコな集団と言った方が正しいが、ヒステリーを起こされる予感がするので適当な相槌を打つ。

 とにかく彼女は保守的な人間なので、エキセントリックな人達とは悉く馬が合わないのだった。


 耳からスマホを離して通話終了ボタンを押すと、『通話時間十分』という表示が現れる。

 たかが十分の会話でドッと疲れを溜めさせる母親は、ある意味天才なのではと、脳内でスタンディングオベーションをする。


 決して悪い人ではないし、実際に様々な工面をして育ててくれた人だから感謝はしている。

 だが、一言で『良い母親』と言い表すのも難しい。

 けれどそんな彼女に冷たくできるほど、仁も大人ではなかった。


 スマホを尻ポケットに入れた瞬間、もしかしたら自分はマザコンなのでは、という疑念が頭に過る。

 その考えを打ち消すように再び足をせわしなく動かした。


 世の中の男の大半はマザコン説があるが、自分は決してその中に入っていない。だって自分はこうやって自立しようとしているから。


 早くに父を亡くし、ずっと母と二人三脚で生きてきた。

 でもそれも、高校生の時までの話だ。

 今の仁は、こうして東京で一人で生きているのだから。

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