第2話

 すると正面の教室から、正宗の声が廊下まで響いてきた。


「なぁゆず、本当に新入生来てくれたんだぜ。今一緒にここまで来たんだから、信じてくれって」

「えぇっ、本当にー? あの文字だらけのチラシで勧誘なんて、絶対無理だって思ったのにな」


 不満そうに答える女性の声も後に続く。

 教室内に生徒が複数いることを想定していたものの、女性がいるとは。田舎育ちで女友達にも無縁だったゆえ、若干気後れしてしまう。

 すると仁がためらっている気配を察したのか、勢いよく扉が開き、中から明るい髪色の女性が現れた。


「こんにちは! そんな暗いところ突っ立ってないで、中入ってよ」


 ちょいちょい、と手招きする女性にドギマギしつつ仁は教室に足を踏み入れた。彼女はそんな彼を至近距離で、物珍しそうにじっと見つめている。


 猫のように丸くて大きな瞳に、柔らかな曲線を描く眉。

 スッと通った鼻立ちはギリシャ彫刻を思わせ、日本人離れした美しさを主張している。不思議そうに、でもどこか楽しそうにゆがんだ唇も愛らしい。

 これらのパーツが小さな顔にバランスよく並んでいる女性を、仁は初めて見た。

 正宗と話していた会話から察するに、上級生であることは確実だろう。だが彼女は底抜けに美しく、年齢すら感じさせない。まさにヴィーナスのようだ。


 今までの人生で見てきた女性は何だったんだと、思考が停止し足も止まる。そのまま教室の入り口から動かない仁を不審そうに、彼女は下から見つめて口を開いた。


「本当に正宗のチラシ見てきたの? 羽交い絞めされて連行されたとかじゃないよねぇ?」


 羽交い絞めはされていないものの、勘違いによってほぼ強制的に連れてこられたのは間違いない。

 しかしそれを口に出したらどうなるだろうか。この場から立ち去ったら、この女性との縁はなかったことになるに違いない。田舎から出てきた一浪の冴えない男では、今後キャンパスですれ違っても声をかけることすらかなわないだろう。


「いやいや、そんな暴力に頼るようなことはしないって。ちゃんとうちのサークルに入りたいって言ってたぞ」


 教卓に腰かけていた正宗が、二人に近づき会話に加わる。そして勧誘のチラシをブンブンと振り回し、首を傾げた。


「こんな感じに紙を振り回しながら『入りたいです~』って言ってたよな?」


 な、と腰を低くして彼は仁に迫る。さっきまで見ていた女性の顔とは裏腹に、髭も眉毛も何もかもが濃くてギャップに眩暈がした。


 だが仁はクラクラとする頭で必死に考える。

 わざわざ郷里を捨て都会へ出たのには様々な理由があったが、その中で一番ウェイトを占めているものはなんだ? 『可愛い彼女と素敵なキャンパスライフを送る』だったような気がする。

 ということはつまり、この瞬間は千載一遇のチャンスなのだ。もちろんこの先輩と付き合うことを妄想するのは、あまりにおこがましい。

 おこがましいが、夢想するのはタダだし近くにいるだけで絶対に幸せだ。


 数秒間、脳内で必死に計算した結果、仁は笑顔を作って言葉をひねり出した。


「入るとは断言してないですが……気になってて、話を聞いてみようと思ってます」


 気になっているのは目の前の女性だが、という重要な箇所は省く。だが嘘は全く吐いていない。

 それを聞いた瞬間、二人の顔がわかりやすいほど、ぱぁっと輝いた。

 そのまま小躍りしそうな様子で、教室の真ん中へと駆けていく。そちらに視線をやると、新入生が来たとき用のお菓子が机の上に山積みにされていた。


「疑ってごめんなさい! ささ、こっち来て座って、好きなものなんでもお食べ」

「若者の純粋な笑顔、染み入るなぁ。邪険にされることはたくさんあったが、諦めずに勧誘して本当によかった……」


 シャカシャカとお菓子を使い捨て皿に開け、ジュースを注ぐ二人の息はぴったりだった。ようやく来た新入生が邪な思いでここにいることを露ほども知らず、和やかにお茶会の準備をしている。

 その様子に胸が痛くなりつつも、仁は勧められるまま椅子に座った。

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