第1話
「なんだこのチラシ」
仁は思わず、そうこぼした。
彼の片手に収まるサイズの小さな紙には、これでもかというほどの文字が刻まれている。鞄に突っ込まれている他のサークルのチラシの文量とは、比べ物にならない。
それにも関わらず、会費や活動日などの詳細が全く書かれていないのだから、少し気味が悪い。
都心の大学に行ったら、狭い故郷では考えられないような魅力的な出来事が溢れていると仁は夢想していた。
だが実際は想像もしていなかった人波にもまれ、こんな訳の分からないチラシまで握らされている。
しかも渡してきた相手は押し合いへし合いする生徒に紛れ、どこにいるのかもわからない。
桜と、人と、若干のスペースと、そこを埋めるように乱れ舞う勧誘のチラシ。
大学の入学式が、こんな閉店バーゲンセール状態だなんて彼の母親が知ったら卒倒するだろう。だから浪人せずに地元の大学に行けばよかったのに、とヒステリックに喚く姿が目に浮かぶ。
そうやってぼんやりしていたら、またまたサッと右横から腕が伸びてきた。
慌てて避けようとしたのも間に合わず、ガッシリと勧誘チラシを握らされる。
「ねぇそこの男の子! フットサルに興味ない? 良ければ総合教育センターまで来てね」
「あ、すいません。俺あまり運動得意じゃなくて……」
腕を伸ばしてきた女子生徒の溌剌とした声に、仁はおどおどと返事をした。
だがその声は虚しくも彼女には届かなかったらしい。人影に紛れて声の主は一瞬で消え、全く興味がないフットボールの勧誘文句だけが手元に残った。
一体何度同じことをすれば、式典会場前の広場を抜けて、正門に辿り着けるのか。
先輩方の熱意に対する呆れと感心をないまぜにしたまま、仁はゆっくりと足を進める。その間にも、彼の脇やら開いた鞄やらに勝手にドカドカと紙が飛び込んでくる。
ここまで徹底的にするということは、配布のノルマがあるのだろう。そう思ったら無下に断るのも可哀そうで、ますます仁の荷物は増えていく。
ひぃひぃと喘ぎながら前を向く彼の視界に、チラリと何かが映った。
反射的に顔を捻ると、たった今空いたばかりのベンチが光り輝いている。
仁は素早く進行方向を変え、生徒をかき分けていった。幸いなことに、彼がいる位置からベンチまでは比較的混雑しておらず、彼は細い体を椅子に滑り込ませることができた。
ようやくひと段落つけると、ホッと息を吐く。
入学式の最中は眠いのを我慢して、終わったと思ったら嵐の中に放り込まれた。
入学してからたった半日しか経っていないのに、彼は既に疲労困憊だった。ここで少しゆっくりして、この騒ぎが落ち着くのを待ったら、今日はもう家に帰ろう。
有難いことに桜の木が太陽を遮ってくれて、気持ちのいい温度だ。ここならいつまでも居座れそうだし、ちょっとだけ眠るのもありかもしれない。そうして仁が瞼を閉じかけた、その時だった。
「君って新入生かな?」
「っわぁ! えっ、はいそうです!」
突然降りかかってきた威勢のいい声に、強制的に目を覚ましてしまった。
不意を突かれたせいでかなり元気な返事になったことを、相手は楽しそうにがははと笑った。
「フレッシュさを感じさせる返事ありがとう! 隣失礼してもいいかな?」
有無を言わせない雰囲気に、仁はコクコクと首を振る。
逆光で鮮明には見えないものの、相手はかなりガタイのいい男性だ。正直なところ隣を占領されるのは狭くて嫌だが、断るのもちょっと怖い。
それじゃあどっこらせ、と腰を下ろした相手を改めて窺う。
やはり身長がかなりあるようで、座っても威圧感がある。
仁よりも頭一つ背が高く、横幅も頭一つは大きい。着ている白いTシャツから覗く腕は、太くたくましい。ラグビーやアメフトでもやっているのだろうか。
そこまで相手を見てふと考える。どう観察しても上級生の男が、わざわざ一人でポツンと座っている仁に話しかけた意味を。
もしかしてこれもサークルの勧誘なのでは? と、身構えたタイミングで男が口を開いた。
「いやー、こんなに人が多いとくたびれちゃうよなぁ。ところで君が大量に持ってるビラなんだけど、俺も似たようなの配っててさ」
嫌な予感程当たるものだ。
くたびれていると分かっているのなら、そっとしておいてほしいのに。
ため息を吐きたい気持ちを抑えながら、仁は断りの文句を必死に考えた。
「あー、すいません。もうここにしようかなと思っていて……」
愛想笑いを浮かべながら、咄嗟に近くにあった紙をひらひらと振る。この場を穏便に納めるのは、適当なサークルに入ることが一番だと思ったのだ。
手元に目を向けると、先程の文字がびっしりと書かれた奇妙な勧誘チラシだった。
きっとこの男は体育会系だろうから、全く関係のなさそうなこのチラシをたまたま選べてよかった。
そう安堵したのもつかの間、サッと男の眼が鋭くなる。その変わりようにゾクリとしていると、男は勢いよく仁の手をグワシと掴み取った。
予想だにしない突然の出来事に、仁は目を白黒させて上ずった声を出してしまう。
「ひぇ、あの俺何か変なことしました⁉」
「本当にそのサークルに入ると言っているのか?」
顔をぐっと近づけてくる男から逃れたい一心で、仁はブンブンと頷いた。
憧れの東京キャンパスライフで、何が楽しくてこんな益荒男に手を握られないといけないのだ。
せめて中性的な顔立ちならまだしも、男の中の男としか形容できない顔を間近で見てもうれしくない。
そんな仁の心境とは裏腹に、鋭かった男の顔がだんだんと緩んできた。というよりもむしろ、今では満面の笑みを浮かべている。
「そうかそうか、とっても嬉しいぞ! それじゃあまずは、ジョージホールの四階教室に行こう! 説明はそこでするから、案内するぞ」
「え、説明って何のことですか?」
困惑する仁に向かって、男は口を開けて大きく笑う。
上機嫌のあまり彼の質問は耳に届いていないらしく、そのままスッと立ち上がった。そして手を差し伸べると、真っ白な歯を見せてこう言った。
「俺はイサハイマサムネ! よく聞かれるんだが、飲酒に盃と書いて飯酒盃、名前は正しいに宗教の宗って書くぞ。よろしくな」
自己紹介されたのだと思った瞬間、仁の脳内に電流が走った。
ついさっきまで振っていたチラシの文末に、随分珍しい苗字が載っていた気がする。なんと読むのか分からず、頭の片隅に引っかかっていたのだ。
まずい、この飯酒盃という人物は確実に誤解をしている。
訂正しようと口を開きかけた仁を遮るように、正宗は半ば強引に彼の腕を取った。
そのままベンチから仁をグイっと引き離すと、人をかき分けてずんずんと進んでいく。その足取りに迷いはなく、恐らく先程言っていたジョージホールを目指しているのだろう。
もしこのまま目的地まで連行されたら、このヘンテコな『飲みゲー文化保存サークル』に入部させられてしまう。
それだけはなんとしてでも避けたいのだが、正宗の力は強く、仁の華奢な体はズルズルと引きずられていく。声をかけようにも、周囲の騒ぎで自分の声がかき消されてしまった。
誰か知り合いでもいないかと周りを見渡すが、どこもかしこも知らない顔ばかり。
浪人して上京した仁にとっては、絶望的な状況だった。
そこでふと、引っ越す直前に聞いた母の声を思い出す。
——東京は怖い人が沢山いて、それは大学構内も例外じゃないのよ。怪しい宗教団体や政治団体が沢山紛れていて、百年前の学生運動を再度起こそうとしている生徒だっているかもしれないわ——
そんなに心配しなくても大丈夫だって、と返した自分の声が頭の中でこだまする。
ちゃんと母の忠告を聞いていれば、こんなドナドナのような状況にならなかったかもしれないのに。
恨めしい気持ちで正宗の後頭部を見つめていると、突然ぐるりと彼の首が回転した。大きな黒目とバッチリ視線が合い、少し落ち着かない気分になる。
「そういえば、君の名前を聞いていなかったな。今更だけどなんて言うんだ?」
「た、
名乗る義理もないのに、正宗のペースにのまれてつい答えてしまった。勘違いだと一言伝えれば解放されただろうに、しくじったと内心で舌打ちをする。
そんな彼の苦々しい表情に全く気が付かないのか、正宗は「ほほぅ」と興味深そうに首を傾げた。
「滝のように呑むって素晴らしい苗字だな。それに名前も仁か。酒のジンはよく飲むのか?」
「いや、仁義の仁で酒は関係ないですよ。それに成人式と卒業式に飲んだくらいで、普段は全く飲まないです」
正確に言えばちょっと舐めたくらいだけど、と小声で付け足す。
周りの友人にも酒好きが全然いなかったため、正直ジンがどんな種類の酒かもわからない。
十年ほど前、政府が十八歳の喫煙や飲酒を解禁した。税金目的だろうという国民からの批難の声があがったが、実際の若者はタバコも吸わなければ酒も飲まない者ばかり。
仁も例外ではなく、特に納税に貢献しているとは思えない。
彼の返事に正宗はニコニコと笑って頷くと、また前を向いて歩き始めた。
「酒が飲める歳になっても、今の若者は酒を飲まないってしょっちゅう言われるしなぁ。十八歳は味覚も若くて、酒を苦く感じるのが要因ってされるけど、実際どうなんだろうな」
「確かに大人になると味覚は変わると言いますけど……」
言いかけて、仁はハッとする。気が付けば先程までいたベンチからだいぶ離れた場所まで来てしまった。新入生を歓迎する人も減り、どうやら図書館や教授棟のあるエリアへ辿り着いたようだ。
そして右手に見える四角くて低い建物は、オリエンテーションで配布された地図の真ん中にあった、ジョージホールではないか。
ここまで来たらはぐれる心配もないと思ったのか、正宗はパッと仁の手をほどいた。そのまま彼は白塗りのジョージホールの中へ入っていく。
きょろきょろとあたりを見回すと、ジョージホール反対側の左手に、大学付属の診療所が建っている。
ここに入ればきっと、正宗は仁の姿を見失うだろう。少し経ってから人がごった返している式典会場へ移動すれば、二度と彼と遭遇することはないはずだ。
そんな邪な考えが広がったが、無言でいなくなるのはさすがに酷すぎる。それにまだ出会って数分だが、正宗は悪さをするような人には見えない。少し強引でガタイが良くて、パーソナルスペースも狭い気はするが。
ちょっとだけ話を聞いてから丁重に断ろうと、仁も正宗の後を追って建物に入った。
入口のすぐ右手に階段があり、頭上から正宗のものらしき足音が聞こえる。
彼はそれに追いつこうと階段を駆け、四階へ躍り出た。
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