わんだーわんだーどりぃみんぐ ⅱ


「そりゃそうだよ、おにいちゃん。愛がまったく感じられないもの」

ガタゴトと鳴る列車内。生首の妹が、鞄の隙間からそんなことを言った。

先程まで、つい己の恋愛の悩みについてポロッと溢してしまっていたのだ。とんだ失態だった。こんなやつに話したって、どうにかなるわけがないのに。あまりにも退屈な乗車時間が、普段なら絶対に取らない愚策を選ばせたのだろうか。

「愛って?アリス。おまえの浮気性みたいなものか?」

カモフラージュのために携帯電話を耳に当てながら言う。マナー違反も良いところだが、無人列車なのだからいいだろう。携帯電話のカモフラージュは、見回りに来る(かもしれない)車掌用だ。

「浮気性?なにその、最低の言葉。そんな言葉でアリスの愛を表さないで。博愛と言って」

少し不機嫌そうな言葉で告げ、そして続けて、

「アリスは皆を愛してるの。だから皆も愛してくれるの。ラビの薄っぺらな、口先だけの愛とは違うのよ。それにしても、見てくれだけは良いのに1ヶ月も容姿だけでは騙されないなんて。ラビが付き合ってた女の子たち、案外みんな頭いいのね」

「窓から放り投げるぞ」

まったく。誰のために平日の、しかもこんな早朝から田舎行き列車に乗ってやってると思ってるんだ。兄の心妹知らずにも程がある。兄と言っても、1分だけの兄だけれど。

生首だけの妹は、しかしどこから出しているんだろう、ころころ鈴のような笑い声を上げる。

「海。ひさしぶりね」

ひとしきり笑った後のその声は、なんだか夢見るようだった。ふいに心臓が騒めく。

「そういえば、なんで海に行きたかったんだ?」

「ん?」

「だって、そんな体だし。だいたいそんな季節でもない。なんでなんだ?」

生首のアリスが泳げないのは言わずもがなだが、夏もまだ少し先だ。今の時期に水遊びをすれば、間違いなく風邪をひくだろう。アリスが美しい海を見る高尚な趣味を持っているとも思えない。コイツが一番好きなのは不純異性交遊で、その次に好きなのが不純同性交遊だ。

「海が好きだからよ。当然でしょう」

全然納得できない理由を告げて、それきりアリスは黙り込んだ。





「アリスのどこが好きなんだ?」とシャムに聞いたことがある。確か、高校3年の冬のときだ。そのときまで、アリスと3年も付き合えるような猛者はいなかった。だからアリスをデートの迎えに来たそいつに、ラビは興味半分で訪ねたのだった。どれほどの愛情でなら、あのアリスと3年も付き合えるのだろう、と。(ちなみにシャムはその日、待ち合わせ場所に一時間を過ぎても現れないアリスを迎えに家を訪れていた。アリスは当然のように寝坊していた。つくづく勝手なやつだ)

「どこが、と聞かれると・・・。存在?」

「ごめんオレが悪かった。なんで好きなんだ?」

きょと、と首を傾げて限りなく重い返答を返してきたシャムに、質問を言い直す。舐めていた。アリスハーレム1の古参を。ていうか重っ。愛が重い。そうでなければあのアリスとは3年も付き合えないということかもしれないが、ラビはちょっとこの会話を後悔し始めてきた。シャムはその整った顔にやわらかな笑みを浮かべる。少し伸びた前髪が、群青の瞳に影を落とした。

「そうですね。・・・私の思考の指向性は、彼女の特異な精神性を最も魅力的に感じる、というのが一番の理由でしょうか」

「なるほど」

どうしよう。言っている意味がまったく分からない。流石学者の卵だ。

アリスの精神が特異であるという点だけには全力で同意するけれども。

「私は彼女の存在を、どうしようもなく美しいと認識してしまいます。それがどうしてだか、ラビ、あなたには分かりますか?」

「さ、さあ」

辟易するラビに、シャムはどこか楽しそうに告げる。ふたつの瞳は透き通っているのに、薄い爪の形をした月のような怖さがあった。

「シェイクスピアを人が好む理由と同じですよ。____どうしようもなく報われない想いに焦がれている女性は美しい。私が知る人々の中で、アリスは最も不条理に生きている」

「・・・・・」

「あなたも美しいですよ、ラビ」

____あなたはあなたの不条理を、どれくらい理解しているんでしょうね。


ラビはあのときのシャムの瞳ほど、恐怖を抱かせるものを知らない。





「シャムがねー」

ふいにアリスが今思い出していた人物の名前を唐突に出してきたことで、びくっとなる。タイミングが良すぎる。

「シャ、シャムがなんだ急に」

声に現れた動揺にアリスは訝しげにし、まあいいかと秒で遠慮を投げ捨て言葉を続けた。

「いやなんか、数年くらい前から急にラビ、シャムを避けだしたよねって。この間そーいう話をしたら、嫌われてしまったんでしょうねってシャムが悲しんでたよ」

おのれなんて余計な話を。お前たちはオレのことなんか喋らずふたりで好きにいちゃいちゃしていろ。

「なんでか知らないけど、たまには会ってあげたら?シャム、友達少ないっぽいし。どうせくだらない理由でしょ」

「いやだ」

だって怖い。

「だからなんで?」

「なんでって・・・」

ラビは下方から注がれるアリスの真っ直ぐな視線に戸惑う。

コイツは、アリスは、シャムが恐ろしくはないのだろうか。少し会話をしただけで、こちらの心を丸裸にし、心情すべてを見透かすようなあの眼差しが。

「ラビ。シャムは、とてもフェアだから」

たとえ知っても、傷つけはしないわ。

それこそラビの心情を見透かしたかのように、そう話すアリスにまごつく。

そうかもしれない。きっとそうかもしれない。あの綺麗な瞳は、否定することはしないのだろう。だからアリスはシャムと今も付き合っている。けれど。

「・・・それでも、いやだ」

嫌だ。知られることそのものが。きっと最悪な気分になる。何かの罪悪を暴き立てられた気分に。

「そう」

アリスはそれだけ言って、もうそれ以上は口にしなかった。



それから数分後、無人列車がようやく目的の駅に到着した。





無人列車から無人駅に降り立って、妹の生首が入った鞄を抱えて歩く。

行き先は、駅からも見えた青が波打つあの場所だ。があー。遠くから鳥の声が聞こえた。なんの鳥かは分からない。辺りは静けさに満ちていて、流石田舎という感じだった。暖かい日差しの中歩く。空は真広く澄み渡っていて、目に痛々しかった。アリスは、先程からずっと沈黙を守っている。珍しいこともあるものだ。いつもは、頼んだって黙らないくせに。

しばらくそうして歩いていると、ほんの十数分で目的地に辿り着いた。海と砂浜。青と白。驚くほど何もない、人間の音がしない場所。青藍の水面と真白の沙(いさご)が視界いっぱいに広がっている様は、現実味がまるでない、御伽噺のような景色だった。

よっ、と抱えていた鞄からアリスを出す。生首を抱える人間なんて見つかったら一発で110番だが、この海には誰もいない。人に見られる心配が無いので、堂々とアリスを外に出す。海が見えるように。

「おにいちゃん」

アリスが久方ぶりに口を開く。どこか、舌足らずな口調だった。曖昧模糊とした声音で、

「海は好き?」

「嫌いだ」

口内に潮風が吹き込む。磯の匂いが不快だった。ああだけど。本当に海が嫌いな理由は、そんなことではなくて。

「・・・おまえも、きらいだと思ってた」

ずっとそう思っていたのに。

「きらいじゃないわ」

今度はアリスが間髪を入れず囁いた。何かの宣告のようだと思った。

「すきよ」


空を見上げる。日光が目に差した。白い眩しさが瞳孔を灼いて、眉を潜める。

「ラビ」

またアリスの声が聞こえた。今度は、凛々しく。何かを決意したような。

「____思い出した?」

ぐらり。視界が、揺らぐ。





ファーストキスの相手が兄弟だと臆面もなく言える奴は、きっとなんの疚しさも抱えてはいないんだろう。ラビは言えない。きっと、アリスも。

ふたりのファーストキスは同じ場所で、同じ時間で、お互いを相手に行われた。小学校高学年の頃だった。家族で遊びに行った海水浴で、馬鹿みたいにはしゃぎまわって、遊び疲れて砂浜に寝転んだ。二人して何がおかしいのか、そのままくすくす笑っていた。

汗か海水かはわからないが、なんらかの水滴が肌を伝って落ちるあの感触を今でも不思議と覚えている。蒸し暑い夏の海の日だった。

きっかけなんてもう覚えていない。でもラビはアリスが好きだった。学校のどんな女の子よりも。たぶん、アリスもラビのことが好きだったんだろう。あの日、ふたりでこっそり行ったファーストキスは、家族愛ではなく情愛の現れだった。ラビもアリスも、唇へのキスがどんな意味を持つのかを理解していた。分かっていてやったのだ。忘れたくても脳裏に刻み込まれて消えない、夏色の記憶。

体を寄せ合って、くすくす笑い合いながら、誰にも見られないように唇を合わせた。味も感じられないような、数秒の感触。それからまたふたりで手を繋いで、遊びに行った。

あのころはそれがおかしいとは思わなかった。世界がふたりで閉じていた。ラビとアリス。それだけで充分だった。他の全ては余分で、だからこうあるのが当然のように感じていた。

でも完結した世界でいつまでも生きていけるほど、ラビもアリスも鈍くはなかった。

いつからか、これは異常なのだと気づき始めた。いや、本当はとっくに感づいていたことを、ようやく認めたのかもしれない。中学校に上がる頃には、もうラビはアリスとは極力触れ合わないようにしていた。関係は最小限に。ライトな不良のようなグループとつるみ、家にいる時間を極力少なくした。アリスといたら、またなにか間違えてしまいそうで。小学生までなら子供の戯れで済んでも、これからはそうはいかない。近親相姦、という言葉を知ったのはいつだっただろう。少なくとも、ラビはもう知っていた。それが世間にも、法にも許されないのだということを。アリスも何か思うことが合ったのだろう。無理にラビの構ったりせず、だからふたりはだんだん疎遠になっていった。

その頃からだ。アリスがハーレムを作り出したのだ。アリスを好きになってくれる人は皆好き。そんな戯言を吹聴して、誰構わず好意を受け入れるようになったのは。嫌がらせであったかもしれないし、八つ当たりであったようにも思う。ただヤケになっていたのかもしれない。たくさんの男と付き合って、ままならない感情を発散しているようにも見えた。ラビも似たようなものだ。来る者拒まず、去る者追わず。告白してきた子と付き合って、この前別れた彼女にしたように同じ口調で甘い言葉を囁いた。どんなに回転率が早くても二股だけはしなかったのは、自分にもまともな恋愛ができると信じたかったからだ。薄っぺらい言葉。薄っぺらい感情。真実なんてどこにもない想いが、いつか本当になればいいと思っていた。まっとうに誰かを愛せるようになりたかった。アリス以外の誰かを。

けれどそんなラビの薄情さは、すぐに筒抜けになった。ラビが隠すのが下手なのか、それとも女性は皆聡いのだろうか。そうしてすぐに別れることになる。でもどんな別れの言葉も、罵りも、頬にくらったてのひらの一撃さえ、ラビの心に漣(さざなみ)ひとつたてることはなかった。惜しいとも、悲しいとも、思えなかった。怒りの感情さえないのだから笑うに笑えない。あの夏の日を忘れたくてたくさんの女の子とたくさんのキスをしてきたのに、それでも触れた唇の感触で思い出すのは、金髪で青い目の、一緒にこの世界に生まれた女の子だった。救えない。でもきっとキスをされたときに他の女の顔を思い浮かべられていた彼女たちのほうが、ラビよりずっと可哀想だった。

「____アリス」

急に意識が明瞭になった。自分はいったい、”どこ”で、”なに”をしている?

御伽噺のようだと思った海を見る。こんなに綺麗で寂しい海なんて、オレは知らない。行き方なんて、もっと知らない。アリスを出した鞄からは、かすかな重みを感じた。英和辞典を入れたような負荷だった。

「これは、夢か?」

「そうよ」

わたしたち、悪魔の本に願いを叶えてもらったの。





悪魔の本、なんていかにもな怪しげな洋書を持ち込んだのはアリスだった。黒緑の装丁に錆びた金字の外国語、色褪せた羊皮紙などは、なかなかどうして雰囲気があった。

なんでも、シャムにもらったらしい。

「なんでも願いが叶うんだって」

めずらしくうきうきとした様子で話すアリスに、ラビは呆れた。シャムもなんだって、そんなインチキオカルト本。

「ねえ、ラビは何を叶えてもらいたい?」

「明日の学食がカツカレーでありますように」

「もう!真面目に考えて!」

「考えてる」

だいたいこんなのは、たいそうな願い事は大体かなわないようになっているんだ。もしもこの本が本当でも、ラビは似たようなことを願うだろう。意味不明なものに願うなら、叶わなくてもまあいいかと思える程度の願いでいい。

「アリスは?」

別に興味なんてなかった。話の流れで聞いただけだった。

「私?」

そして次の瞬間、

「そうね、」

耐え難いほどの後悔をした。

「好きな人に、キスをしてもらいたいわ」

恋する乙女子のような、夢見る処女のような瞳で、そう言うのだ。甘やかな声だった。綿菓子よりも可愛くて、夜の三日月よりも怖い笑みだった。アリスは悪魔の本に向かって言った。叫ぶように、祈るように。夢見心地のような声で、ただ切実に。

「わたし、サロメのヨカナーンになりたい」

そうすれば、もしかしたら。

くちづけてくれるんじゃないかと思うの。



アリスの微笑みを最後に、ラビの記憶は途切れている。



「ばかじゃないのか」

開口一番にそう言った。馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここまで馬鹿だとは思っていなかった。ばかなアリスは心底楽しそうに笑う。

「ああ。思い出したのね。もう少しだけ白痴なラビを楽しんでいたかった気もするのだけれど、やっぱり思い出してくれて良かったわ。そろそろ飽きてきたところだったから」

「本当に馬鹿じゃないのか」

声は自然と低くなる。しらじらと。こういうのをいけ図々しいしいというのか。

本当に馬鹿だ。世界でコイツより愚かな人間はいないに違いない。鴉だって猫だって、アリスよりはきっと賢い。だって、そうだろう?あんなことを悪魔に願う人間がコイツの他に誰がいる。コイツは、アリスは______

「だって。せっかくヨカナーンになったのに、私のサロメはすっかり忘れてしまって混乱するばかりなんだもの。ちっともキスしてくれない。退屈だったのよ、本当に」

「サロメはおまえだ」

ただオレにキスをされるためだけに、喋る生首になったのだ。

サロメ。オスカー・ワイルドの戯曲の題名であり、その戯曲の主役である狂った王女の名前だ。王に捕らえられた預言者ヨカナーンに恋した彼女は、頑なな彼の唇にキスをするために父である王にヨカナーンの首を所望する。生首となったヨカナーンに、サロメは恋するようにくちづけるのだ。____わたし、おまえにキスをしたわ。と。

愛しいものを殺さなければ、唇さえ奪えなかった哀れな王女。

「・・・やっぱり、サロメはおまえだろ」

しかも原作よりたちが悪い。ヨカナーンにキスをされたくて、自ら生首になったサロメだ。

「そうね。そうかもしれないわ」

「それで、私のヨカナーン。あなたはキスをしてくれないの?」

これは夢よ、とアリスは言った。


もしも、と思う。もしも自分がヨカナーンのように清廉で潔白で、双子の妹に劣情を抱かないまっとうな男であったなら、生首になったのは自分だっただろうか。どうあっても自分に恋をしない双子の兄を自分のものにするために、アリスは悪魔に首を所望するサロメになったのだろうか。そう考えて、それも悪くないなと思った。思ってしまった。だから逃げ場なんてきっと最初からどこにもなかった。

夏でもないのに熱に浮かされている。頭の中が、ぐらぐらしている。正気じゃない。そんなのはとっくに知っている。

これは夢だ、と言い聞かせる。これは夢だ。これは夢だ。これは夢だ。これは夢だ。

夢で妹の生首が喋ってるんだから、動揺してキスをするのは仕方がないことだ。そうだろう?

ちっとも信じていない言い訳を盾にして、ラビは二度目の過ちを犯した。


十数年ぶりに触れたアリスの唇は、なんだか甘い匂いがした。




翌日。

目が覚めて洗面台で顔を洗っていると、アリスが嬉しそうに話しかけてきた。生首じゃない、きちんと頭と胴体が繋がった姿で。

「おはようラビ」

「おはよう」

「アリス、昨日はなんだかとっても素敵な夢を見たの」

「そうか。オレはものすごく悍ましい夢を見た」

笑うアリスから目を背けて、うんざりしたようにラビはそう言う。

アリスはそんなラビを見て、くすくす笑っている。

素直じゃないのねとでも思っているに違いない。勘弁してほしい。アリスがあれを素敵な夢と称したように、ラビだってあれを悪夢と呼ばなきゃならない意地がある。

溜息を吐きながら、それでもいつもどおりの日常が戻ってきたことにささやかな安堵を覚える。心の淵に潜む、惜しむような後悔は気づかないふりをして。


「・・・やっぱり、全部あったほうがいいな。生首だけじゃなくて」

「ん?なんて言ったの?」

「なんでも」


とりあえず、未だリビングに鎮座しているあの忌々しい本を、とっととシャムに突き返そうと思った。





「Wonder,wonder,dreaming.」

路々を歩きながら、適当な鼻歌に任せて歌う。

ワンダー(不思議な)、ワンダー(不思議な)、ドリーミング(夢を見る)。

逝く夏のように夢を見る。そうであれとラビは願う。


夢でなければ、ただの幸福な地獄だ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この恋は法律で禁止されています 閏月かむり @uruuduki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る