クライム・クライミー・ラプソディ ⅲ
付き合っていたのは、たった3ヶ月だ。クリスマス後に付き合い始めたから、恋人イベントなんてバレンタインデーしか体験していない。私も彼も誕生日は夏だったから、恋人になって初の誕生日デートは半年先になるだろうと思っていた。デートだって、ほんの5回を超えるくらい。一線は結局超えなかった。彗太先輩がそんなふうに誘ってきたことはなかったし、私だってそんなのは、まだ、早いと思っていたから。付き合えた事自体が嬉しくて、不満に思ったこともなかった。LINEはこまめにやり取りしていたし、先輩はいつも優しかった。彼女として会うたびにどんどん好きになっていって、だから付き合えている、という状況そのものが限りなく幸福だった。まさに人生の絶頂だった。
その、絶頂から転がり落ちたいま、思う。そもそも先輩は、私のことが好きだったんだろうか。快楽殺人という単語をスマホで調べて、出てきた一例。性的嗜好。その四文字が心に重く伸し掛かる。もしも彼がそうだというのなら、私は。もし本当に私が好きだったなら、私は彼に殺されているはずなんじゃないか。とうとう彼の家に一度も呼ばれなかった理由は?いやそんなの当たり前だ。だってまだ付き合って3ヶ月だ。・・・当たり前の恋愛なんてまつりには分からないことだけれど、そうおかしい振る舞いでも無いはずだ。実際、そのことを疑問に思ったことなんてなかっただろう。でも、それなら、どうして。
____彼は私の、どこが好きだったというのだろう。
アクリル板の向こう側を思い出す。穏やかな笑み。落ち着いた口調。少しも変わらない、優しげな眼差し。
(私は、)
冤罪なんだって、言ってほしかったのに。
俺がやったんじゃないって。誰かに嵌められたんだって。そう言ってくれれば、そう言ってくれさえすれば、きっと信じたのに。それがどれだけ見え透いた嘘でも、どんなに見苦しくても、信じて、貴方のために行動したのに。どんなに高い弁護士だって雇ってみせる。人を雇って偽りのアリバイ証言をさせてもいい。彗太先輩は無実だからって、そう信じさせてくれさえすれば、それだけで良かったのに。なんだってしてみせたのに。
なのにどうして。
(どうして、笑ってるの)
やめて。やめて。笑わないで。全部諦めたみたいに終わりにしないで。なにか言ってよ。弁明でもいい。告解でもいい。なんでもいいから私を求めて。私達、付き合ってたんでしょう。
でも悲鳴のようなその言葉たちは、結局口腔の外には出て行かなかった。代わりに空気を震わせたのは、ただひとつだけ。
「どうして、殺したの」
そういう、陳腐な問いだった。
「君を殺すつもりはなかったよ」
こんなに惨めな気持ちになるくらいなら、貴方に殺されていた方がマシだった。
そう言っていれば、彼はどんな顔をしたのだろうか。
*
『本日、婦女連続殺人事件の裁判が行われます。御堂被告は逮捕から今日に至るまで黙秘を続けており___』
トーストを焼いていると、そんなニュースがテレビから流れてくる。
裁判で有罪判決が下されたら(きっと十中八九そうなるだろう)、もう面会もできなくなるな、と思った。この国では死刑囚との面会は親族にしか許されていない。
あの面会日から、すでに数週間が過ぎていた。会社もようやくもとの日常を取り戻し始め、前のように通勤するようになっていった。それでも世間が完全に忘れ去るには些かインパクトが強すぎた事件なため、今も新しい情報が入るとニュース番組はこぞって報道した。さすがに数週間もすればニュースキャスターが無機質に語る御堂彗太の名前にも慣れてきて、もう取り乱すことはなくなった。テレビのリモコンに触れることさえ嫌がっていた数週間前の私が、嘘みたいだ。人間は何にでも慣れるのだな、と思うと同時に、なんだ、私の恋ってその程度だったのかとも思う。8年想ってきて。数週間で絶える程度だったのか、と。
ふと思いついて、スマホの検索画面を開く。婦女連続殺人事件、被害者、写真。入れたワードに嫌悪感を抱きながらエンターキーを押した。最低なことをしている自覚はあった。彼女たちは哀れな被害者なのに、ただの好奇心でその肖像まで貶めようとしている。でもその最低な好奇心に応え得る最低の情報漏洩は、インターネットのなかにはどれだけでも転がっているものだった。
写真の一覧を見たときの第一印象は、綺麗だな、だった。皆、綺麗な人たちだった。歳は20代くらい。30代の人ももしかしたらいたかもしれない。でもどの人も綺麗で、若々しくて、これから先の人生も輝いているような人たちだった。
画面をスクロールしていって、ふと指が止まる。どこで取られたのだろう。先程の一覧に乗っていた女性の一人が、人でいっぱいの花見会場でビール缶を掲げている写真が目に写った。大口を開けて笑っていた。頬は紅潮していて、酔っているのだと分かった。周りにいるのは友達だろうか、家族だろうか。よく見えなくて分からないけれど、とても楽しそうだった。失ってしまわなければ分からないような、幸福な日常の色をしていた。
「・・・う、」
この笑顔を、彼が殺したのだと思った。奪ったのだと思った。2ヶ月前のバレンタインデーを思い出す。私が贈った高級チョコの詰め合わせの一粒をつまんで、此方の口に含ませた彼のことを。唇に触れた、しなやかでひんやりとした指先。あのてのひらで、彼女の屍肉を掴んだのだろうか。ぐずり、と何かの肉が溶け落ちるような音を幻覚する。
途端、喉から何かがせりあがってきた。吐き気がどんどん増していく。嘘でしょ。彼が逮捕されてから、まだまともに泣いてさえいないのに。涙よりも嗚咽よりも先に、嘔吐する羽目になるなんて。
急いで風呂場に駆け込む。喉がむずむずして気持ちが悪い。背筋を駆け上る不快感に抗うことなく、胃の中のものを灰色のタイルの上にぶちまけた。饐えた匂い。何も食べてないから、黄色い液体はほぼほぼ胃液だった。
スーツに着替える前で良かったとか、でも焼いたトーストどうしようとか、通勤時間に間に合うかなとか、そんな細々したことを余所で考えながらも、私の感情は私の心を痛烈に責め立てていた。
(なに、これ?いまさら、何に傷ついているの?)
彼が12人の、なんの罪もない女性たちを殺したことなんて分かりきっていたことじゃないか。私はその上で、彼が冤罪だと言い張るならそれに騙されてもいいとさえ思っていたのに。彼女たちの苦痛も哀れさも考えないようにしないでいたのに。今更、どうして。
(・・・ちがう。これは、違う)
同情じゃない。怒りでも、悲しみでも、倫理観でも、ましてや遅れて芽生えた正義感でもない。
(ああ、本当に、____さいていだ、わたし)
____私のこれは、この吐き気は、恐怖と失望だった。何に対して?・・・私の、恋に対して。
彼のすべてを愛している。私の人生は、彼さえあればいい。そう信じていた。そう思っていた。欠片も迷いはなく。
でも本当に、そうだろうか?8年。初めて会ったときからずっと、想い続けてきた。ストーカー紛いのこともした。進路先にだって付き纏い続けた。私は彗太先輩の、好きな食べ物も嫌いな食べ物も午前11時前には無性にキャラメルラテが飲みたくなるところも書店に行ったら絶対に喫茶店に寄るところもコーヒーカップの持ち方に少しだけ癖があることも知っている。
(____でも、人を殺していたことは知らなかった)
いちばん大事なことを知らなかった。いやそもそも、私が知っている彗太先輩は本当に彼自身なのだろうか。私が知っているなにもかもが、彼が演じる、うわつらの御堂彗太ではなかったか。
落とした消しゴムを当たり前のように届けてくれる優しさも、裏に快楽殺人の業が潜んでいるのならなんの意味もない。彼が飲んだカフェオレパックのストローはジッパーに閉じ込めてずっと眺める程愛しく思えたのに、彼が殺人に使った道具はきっと気持ち悪いとしか思えないのだ。殺人鬼だと知っていたらけして好きになったりはしなかった、と思って、そうかその程度の恋だったのかともう一人の私が責める。___結局、うわべだけ愛していたんでしょう?ずっと見ていたなんて嘘ばっかり。あなたは何も見ていない。なにも見えてはいなかった。ただ都合のいい恋愛を楽しんでいただけ。憧れの人に報われない片思いをし続けるなんて素敵だものね?自分が一途になったみたいで。
「う、うぅっ」
てのひらの肉を噛む、嗚咽が漏れないように。瞼の奥がひりひりしている。眼窩の向こう側が、信じられないくらい熱かった。叩きつけるようにシャワーヘッドを回し、いくつもの水滴が雨粒のように落ちてきた。透明な冷水が胃液を洗い流していく。寒い。冷たい。でもこの冷たさがちょうどよかった。全部凍ってしまえ、と思う。血液も唾液も体液も。そうすれば全部誤魔化せる。これは涙じゃない。そんなに綺麗なものじゃない。
「私は、」
恋をしていた。人殺しの最低な男に。
たくさんたくさん心を鉈で切りつけられて、それでも思い出すのは彗太先輩の笑顔だった。まつり、と呼ぶ声が聞こえる。甘やかな響き。何千回だってそう呼ばれたかった。愛しいものを見る目でみつめられたかった。
身勝手だったのかもしれない。エゴだったのかもしれない。独りよがりで、うわつらだけしか見ていなくて、一方的で、本当は全然愛なんかじゃないものをそう言い張っていただけなのかもしれない。きっとそうだったんだろう。
それでも好きだった。
好きだったんだ。
*
会社の帰り道、ホームセンターに寄って麻縄を買った。
彼の死刑が執行されたら。
私はこれで首を吊る。
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