クライム・クライミー・ラプソディ ⅱ
気づけばソファの上で眠っていた。軽い頭痛と共に身を起こす。あの面会の後、家に帰ってから何もする気が起きず、着の身着のままソファに座り込んでぼーっとしていたのだ。いつの間にか眠っていたらしい。気絶だったのかもしれない。ぶーぶーっと、かすかなノイズ音がテーブルの上から聞こえる。そこに放り投げたスマホを手に取ると、冷たい感触が地肌に伝わってきた。画面を開けば、LINEの通知が何十件も送られてきていた。もう何日も前からずっとそうだが、昨日よりも件数は10件ほど増えている。送り主の殆どは、菜乃と表示されているアカウントから来ていた。菜乃ちゃん。私の親友。中学からずっと友達で、大学で離れ離れになってもこまめに連絡を取り合っていた。休日はちょくちょく遊びもして。社会人になったばかりのころは流石に会う頻度は落ちてしまったけれども、それでも連絡だけは変わらず取り続けていた。恋愛相談もよくしていた。私の、重すぎる愛情にドン引きしながらも真面目に付き合ってくれる友達は、それこそ高校生の頃から彼女だけだった。3ヶ月前、付き合えたことだって、いの一番に伝えたのだ。おめでとう、という動物が愉快に踊っているスタンプが送られてきて。次いで、「いやーどうなるかと思った。あんたが『先輩の会社にも着いていく・・・!」って言った日にはいよいよ私の手で110番しなきゃいけないかもと思ったけど、いやよかったな。通報するの我慢して良かった。おめでとう!脱☆ストーカー!」という微妙にイラッとくるメッセージが飛んできたことをよく覚えている。私はその言葉に、誰がストーカーじゃ、って返信を送ったんだっけ。確かに先輩が内定貰ったとこと同じ会社行ったけれど、でもそれはこの会社が魅力的だったからで・・・!なんて内心でまごまご言い訳をしながら、スマホのキーボードを叩いたんだった。懐かしい、と思った。同時にその懐かしさが痛かった。あのときてのひらに触れていた硬質な板は確かにぬくもりを帯びていたのに、今は氷のように冷たい。何が違うんだろうと思った。もし気の持ちようなんてあやふやな理由なら、人間が恒温動物なんて知識は嘘なのだと思った。だってこんなにも寒い。ずっと、もうずっと。
きっと、私と彗太先輩との関係を誰よりも知っていたから、こんなにも心配しているんだろう。
心配をかけると思いながらも、私はトーク画面を開くことなくスマホの電源を切った。いま菜乃と何かを話せば、傷口から透明な何かの液体が溢れるような気がしたから。涙かもしれないし、限りなく透過した血液かもしれない。とにかく、触れたくないなにかを、溢してしまうと思った。
思えば、私は楽しい恋愛をしていたな、と振り返って思う。苦しいことも、辛いことも人並みにはあった恋だったけれど。菜乃に彗太先輩の話をするとき、まつりはいつも笑っていたし、たとえ伝わらない片思いでも、私は充分幸せな時間を過ごしていたのだ。誰かを一途に思い続けるというのは、ココアよりも、マシュマロよりも、キャンディよりも、キャラメルよりも甘くて素敵なことだった。
それに。どんな苦痛も、いまこの身を覆う冷気よりはマシだった。恋の苦みは、結局のところ甘さを引き立てるためのスパイスに過ぎないと知った。本当の苦痛は、もっと惨めに、もっと救いなくこの心を追い詰めるのだ。相談なんて、出来ない。口を開いただけで、溺れてしまいそうだった。
ひとりきりでいると不安で気が狂いそうになるのに、誰かの優しい声なんて死んでも聞きたくない。・・・それが、誰の、どんな言葉でも。
テーブルの上の、置き時計を見る。午前10時半過ぎを指していた。テレビはつけない。もうこの先ずっと、ワイドショーやニュースなんて見れないのではないだろうかと思う。朝、通勤前に何気なく見ていた報道ステーションに御堂彗太の文字を見つけた時の恐怖と衝撃は、いまも肌に染み付いている。今までニュースで報道されてきた犯罪加害者の恋人たちも、こんな気持ちだったのだろうか。
平日の午前。思いっきり仕事時間だが、会社自体が休みなので欠勤にはならない。
彗太先輩は会社でも結構重要な仕事を任されていたから、あんなことがあって以来会社はてんやわんやだ。おかげで、しばらくの間殆どの社員たちは休みを取らされている。ただの殺人ならまだしも、ことは連続殺人事件だったから、上の人たちは事態を回収するのにとても苦労していることだろう。ただでさえうちは、メディア露出に力を入れてるのに。
(・・・なんとかなって会社が元通りになっても、私、ちゃんと通勤できるのかな)
明瞭としない思考で考える。あの人がもう来ない会社に?彗太先輩がいないと分かりきっている会社に毎朝毎朝混雑した電車に耐えて通勤するのか。彼がいるから、私はただそれだけの理由であの会社で働いているのに?誕生日とクリスマスのプレゼント用に貯めていたお金も、全部ぱあだ。男物の小物のブランド雑誌買って眺めるの、結構楽しかったのにな。今度のデートで付けようと思って新しく買ったリップどうしよう。高かったのに。もうつけたくない。捨ててしまいたい。見せたい人は今は拘置所だ。彼が見ないなら、どんなおしゃれにも意味はない。
(というか、なんとかって。なんとかなるのかな。本当に?)
この事件について、会社に非はない。ただ、民間人からのイメージダウンは下げられないだろう。この先どうなるのか、きっと社長にだって分かってないだろう。最悪、倒産するかもしれない。一応は大企業という括りには入っているけれど、世界的に求められている訳では無い会社だから。
「・・・どうでもいい」
でも、会社のことなんてまつりにとっては取るに足りない事柄だった。どうだっていい。どうなったって知らない。小さな声は虚無的な響きを纏っていた。
私の頭の中にあるのは先輩のことだけだ。もうずっとそうだった。私の人生は、彗太先輩さえあればいい。私は彼のすべてを愛していた。
(本当に?)
でも、じゃあどうして、私はこんなに傷ついているの。何に絶望しているの?
*
恋に終わりはないのだと思っていた。たとえフラれたのだとしても、その人を想い続ける限り、終わらないのだって。だからきっとこの恋は、死の間際まで変わらないのだと信じ続けていた。かといって、想いを成就させることを完全に諦めていたわけではない。実った方が嬉しい。当然だ。だってこんなに好きなんだから。でも想いが届くことを願うと同時に、自分では彼と釣り合わないことも薄々は気づいていた。自分のしている行為が、かなり犯罪すれすれだということも。大学中、亀の歩みがごとく遅いスピードで徐々に距離を詰め、それこそ知人程度にはなったけれど。でもそれ以上はない。会社内では旧知の人は少ないから親しい後輩の位置を獲得出来ているけれど、でもそんなの、他の人よりも話しかけやすい、そんな程度のものだろう。いや、優しい先輩のことだから、引っ込み思案な後輩をわざわざ気にかけて話しかけにきてくれているのかもしれない。いずれにしろ、自分は特別なんだって傲れはしなかった。勘違いで傷つきたくはない。自分が気持ち悪い女の子だという自覚はある。どう考えても好かれる筈はなかった。
だから、本当に。告白なんて、するつもりはなかったのだ。
あの日と、同じシチュエーションでさえなければ。
会社の仕事にも慣れてきた3年目、納期にどうしても間に合いそうになくて残業しているとぽん、と肩を叩かれた。振り返ると、目にしたのは何年も盗み見し続けた想い人の顔で。彼は首を傾げて、これ、君の落とし物かな?とメモ帳を差し出した。ああ、と思う。そっか、ポケットに入れっぱなしで。ハンカチを取り出すときにでも、誤って落ちてしまったのだろう。どうりで見当たらないと思った。忙しかったから、わざわざ探そうとはしなかったけれど。
そんな様々な思考が頭の中を巡る。でも全て、どこか他人事のような感覚がした。本当に考えているのは、そんなことではないような。
「好きです」
「え」
思考が言語を経由するまでもなく、ふいにそんな言葉が自分の喉から飛び出した。零れてしまった。コップに入ったミルクのように。とっくに飽和していた感情が、ついに超過してしまったようだった。だって、あまりにあの日の再現のようだったから。
好き。好き。好き。ずっと想っていた感情が、生き物みたいに暴れだす。
でもそこで、ハッと我に返った。目が覚めたように。ううん、本当は覚めてなんかない。今でも瞼の裏は熱くて、なんだが胸はふわふわしている。けれど、自分がとんでもないことをしてしまったという衝撃だけが鮮明に脳に伝わってきた。
(どうしよう、どうしようどうしようどうしよう)
どうすればいいの。
これ以上何を言えば良いかも分からなくて、凍りついたように固まり続ける。誤魔化せる時間なんてとっくの昔に過ぎている。喉はからからで、少しも動かせない。ほんの数秒前の自分を殴り飛ばしたかった。なんてことを言ってくれたんだ。
「ええっと」
彗太先輩は少し戸惑ったような声で、
「じゃあ、付き合う?」
「えっ」
爆弾を投げつけてきた。
(な、何を言われたのわたし、いま!)
今しがたとんでもなくまつりにとって都合が良すぎる言葉が聞こえなかったか。いいやそんなわけない。きっと幻聴だ。さもなくば夢だ。ああそうだきっと夢なんだ。それなら、私の告白からなかったことになる。
「ずっと前から、ひそかにいいなあと思ってて。君が俺を好きだっていうなら、ぜひ交際したいと思うんだけど。・・・ダメかな?」
だというのに、現実逃避じみた思考で目を回しているまつりに、彗太はぞくぞくと火炎瓶を放り込んでくる。なんだこれは。幸せ大盤振る舞い?私、今夜で人生の運全部使い切ったんじゃないんだろうか。ダメかなってなに。何がダメだというの。どこもダメではないですが何か。むしろ私がダメな方ですが?!ああでもまって、混乱してる場合じゃない。返事を、返事をしなきゃ。折角の千載一遇のチャンス、ここでものにしなきゃどうするの。たとえ先輩が錯乱しているのだとしても、利用しない手はない。恋は戦だ。侵略すること火のごとし!
「ふ、」
「ふ?」
「ふつつかものですがどうかよろしくおねがいしましゃっ!!」
「・・・」
「・・・」
噛んだ。早くなにかを言わなければと焦って、盛大に噛んだ。ていうか不束者ですが、ってなんだ。結婚の挨拶か?控えめに言って死にたいと思った。
「ふ、あはは!」
「!」
突然の笑い声にびく、と肩が震える。思わず目を丸くすれば、口を開けて笑っている彼の姿が視界に飛び込んでくる。今まで一度だって見たことのない、その表情。すぐさま脳内フィルムに焼き付ける。絶対に劣化しないように。いつでも思い出せるように。
「ふふ、うん。・・・これからよろしくね、まつりさん」
その笑顔の破壊力と、夢のような幸福で頭がショートでもしてしまったのだろう。
それからどうやって家に帰ったかを、少しも覚えていない。
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