藍色の月 第三十七章(最終章) 哀しみの千鳥ヶ淵

 武道館から表へ出た辺りで……敏郎さんは、僕の様子がおかしい事に気付いたらしい。しかし、訊いて来たのは……


「なぁ……昨日、ヤッタのか?」

「⁉⁉⁉」


 いきなりなんなんだこの人? めぐみさんの存在すら知らない敏郎さんが、なぜ前夜の事を知っているんだ?


「いやぁ、昨日の夜、電話したらお母さんが出てさ。『彼女のトコへ行ったきり、こんな時間まで帰らない。どこにいるか知らないか?』って訊かれてさぁ」


 あ……それで知ってたのか。ということは「彼女」とはチケットを取ってくれた、都子だと思っているんだな。


「昨夜は……あの子のトコじゃなくて……」


 考えなしに中途半端な答え方をせずに、まずは先に、都子とは4月で終わった事を伝えるべきだったのか……ただ、二つアニキの敏郎さんだったが、前夜の事を含めて、元々話す気はなかった。


「なんだぁ? 新しい別の女かぁ?」


 だから……そんな言い方するな!


「いや……新しいとかじゃなくて……都子と知り合う前から……その……」


 躊躇いながら話す僕のこの戸惑いが、更なる誤解を招く。


「うへぇ、やるなぁ。彼女にチケット取らせといて、前の日は別にキープの女とヤッちゃうってか!」


 キープって何だよ? 下品な言い方するな!


 しかし……誤解されたくなければ、何も言わないでおくか、それともきちんと話すかのどちらかにしなければならなかったんだ。訂正しようと焦れば焦るほど、うまく纏まらない。


「いや……違うんです! その人は、今日も仕事で武道館……その……ヴァイオレット・ムーンの通訳で……」


 めぐみさんはこの武道館へも、ライヴを終えたばかりのヴァイオレット・ムーンの通訳の仕事で来ている点を伝えようと、またも中途半端な言葉を出してしまった。


「通訳の仕事って? おお~? 年上のエリートねえちゃんかぁ?」

「ああ……(そうだよ!19歳のアンタより、遥かにオトナの女の人だよ!)」


 出身の栃木訛りはどうでもいいが……この辺りで既に、敏郎さんのモノの言い方に苛つきがリミットに近付いていた。そして、次のひと言が引き金となり……


「まったくよぉ、おねえちゃんも東京の高校生はつまみ食いしやすいってか。じゃ、チケットの彼女はこっちに回せよ!」


 キレた……。(その後の出来事は割愛)


 誤解の無いようにきちんと伝えられないくせに、中途半端に答えてしまった僕が悪いのはわかっていた。しかし、めぐみさんや都子を愚弄するような言葉が、どうしても許せなかったんだ。どうしても……。


「敏郎さん……バンドは解散します。もう、連絡もして来ないで下さい」


 そう言って、武道館を背にした。後ろから、敏郎さんが何か言っているようだったが、もう聞く気はなかった。


 黙れ! 彼女達は……アンタのその下劣な想像の及ぶような女なんかじゃない!


 振り向きもしなかったので、その後の事はわからない。地下鉄の駅へ向かって歩いていたのかどうかも、覚えていない。ただ、歩きながら溢れ出る涙が……止められなかった。


 踏み締める一歩、一歩が……今、確実に自分を……めぐみさんから遠ざけて行く。この一歩、一歩に……今更ながら『卒業式』の意味を思い知る。


 その夜も……どうやって家へ帰ったか、覚えていない。

 わかっていたのは……『終わった』という事実。

 そう……なにもかもが……終わったんだ。


 そして翌日……速達で届く手紙。


「卒業生のれいくんへ。

 あれから学校、間に合ったかな? めぐみ先生、ちょっと心配です。

 昨夜はごめんね。また、何でも『ごめんね』で済まそうとする私……許さなくていいからね。

 ほら……やっぱり私、矛盾だらけでしょ? 『ごめんね』は、許しを乞う時の言葉なのに.……私はまだ、ヘンな日本語のままだわ。

 こんな時の手紙って普通は『また美味しいもの作ってあげるから、遊びに来てね』とか書くのでしょうね。でも昨夜、二人で決めちゃったから……そうは書けないよね。

 シンデレラの夢、一緒に大切にしてくれて本当にありがとう。

 もしも……もしもキミの中にガラスの靴を置いて来てしまったのなら……いつでも割って、捨てて下さい。破片で怪我をしないようにね。

 身勝手なくせに優柔不断な私の『賭け』に、二回も付き合わせちゃって、本当にごめんなさい。なんて……また、自分だけいい子になろうとしている私。こんな私だから、やっぱり待ってちゃだめよ。

 キミのことは忘れないからね」


 貴女が心配なのは、学校の遅刻なんかじゃないんでしょ?

 早速、返事をしたためる。


「僕のめぐみさんへ。

 貴女と一晩かけて決めたことを守るために……追わない……もう探さないために……ガラスの靴は、すでに砕いてしまいました。

 でも……そのガラスの破片をどうしても捨てられずに、ポケットの中で握り締める度に……心が、抱きしめる度に……滲み出る痛みが、僕を朱く染めて行きます。

 貴女の夢の足かせになるような結果にならなくて、本当に良かったと思っています。

 ロスでの生活……身体に気を付けて……成功を願っています。

 これで最後です。ありがとう。本当にありがとう。

 貴女へのこの想いは昨日……千鳥ヶ淵へと沈めてきました。

 でも……貴女のことは、決して忘れません」


 日本武道館……この東京の、正に中心で終わりを告げる恋物語。

 ハッピー・エンドは一つもなかったが……一つ一つの出来事は、未来を眩しく映し出す宝物。

 時には背伸びし、手を差し延べてもらい……やっと届いた至高の愛。

 少年を悩ませ、そして未知の恍惚へと導いた……藍色の誘惑。

 傷つけ……そして傷ついた、幼い恋心。

 守れなかった約束……そして辿り着けなかった、優しい場所。

 築いては掠われ、また築いては崩れ落ちた砂の城。

 帰り着いた途端に失った、永遠の夜。


 しかし……17歳の少年は、幸せだった。

 二度と来ない、藍色の季節。

 反省する事はあっても、後悔する事などなに一つ無い……無限の可能性を秘めた日々。

 いつか、本当のオトナになる日まで……歓びも悲しみも、蒸溜させて行く。そしていつか……本当の『男』になり、熟成された一つ一つの愛を……大切に、そして守れるようになるその日まで……


 いつまでも忘れない……藍色の月。



                --完--


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