藍色の月 第三十六章 あの壁の向こうに…

 敏郎さんとの待ち合わせは、渋谷……ハチ公前の地下鉄入口。約束の17時半を、少し遅れて到着した敏郎さん。


「わりぃ、バイトでさ……あれ? 彼女は?」

「彼女?」

「チケット取ってくれた子、ライヴ行かねぇの?」


 都子の……ことか!

 武道館へは、直接チケットを取ってくれた都子もご同伴と思っていたらしい。


「今日、一緒じゃねぇのか。まあいいや、行こうぜ」


 敏郎さんには話していなかった。めぐみさんの存在も……都子と……あのあとどうなったのかも。


 九段下……同じ方向へ歩いている人たちはおそらく、武道館へ向かう、同じヴァイオレット・ムーンのオーディエンス。

 雑踏の中、いつの間にかめぐみさんを探してしまっている自分に気付き……いや……彼女はもう既にバックステージだろう。関係者が、この時間にこんな所をうろうろしているはずがない……と打ち消した。


 武道館へ入り、南東スタンドの席に着く。

 オープニングアクトは、ギタリストの鈴木賢二。ギタープレイ以外に、アクリル製の透明なエレクトリックバイオリンを奏でていたが……その姿しか覚えていない。何の曲を演奏したのかも。


 再び照明が落ち、沸き上がる歓声……それは……フリーウェイ・スターから始まった。


 初めて会う、生のヴァイオレット・ムーン。前夜、もっと間近で会っていたかも知れなかった、ダグ・ボンドのハモンドオルガンプレイ。

 この瞬間だって、本来であれば充分刺激的で感激的な『非日常的空間』のはずだったのに……その夜の僕にとっては、どこか『漫然と通り過ぎて行く日常』に過ぎなかった。


 『虚無感』の中に独り取り残された僕とは、無関係に演奏され過ぎ去って行くナンバー達……新譜タイトルチューンのパーマネント・ストレンジャーズ……キッキング・アウト・マイ・バッド・マインド……ア・ジプシーズ・ウインク……ウェステッド・サンライズ……往年のナンバーからも……ストレンジ・カインド・オブ・ガール……レイディ……チルドレン・イン・タイム……。


 曲に合わせて手拍子……一曲始まり、終わる毎に拍手をしている自分が、どこか自分自身ではない感覚が拭えないまま……ライヴはスモーク・オン・ザ・レイクで、終わりを迎えた。

 僕を煙にまいて……ヴァイオレット・ムーンはステージを終える。


 演奏中……否、終演後も……僕の心が終始追っていたのは、ステージ上のヴァイオレット・ムーンではなく、そのバックステージにいるはずの……めぐみさんの姿だったんだ。

 観客席から見えるはずのない、バックステージだけに目を凝らしていた。このあと彼等はインタビューの枠を取ってあり、通訳のめぐみさんと話す予定。


 師匠……昨夜の僕は、あなた方に会えるという選択肢を蹴り……彼女と一晩中、愛し合いました。

 なのに……今夜はあなた方が、彼女と一緒なのですね。

 どうですか……いい女でしょう? 彼女は僕の女です。彼女も昨夜そう言いました。

 ずっと……「僕のめぐみさん」でいいって……そう言ってくれたんです。


 訳のわからない、子供っぽい想いが……浮かんでは消えてゆく。

 今朝まで独占していた彼女に、僕はもう逢えないというのに、ヴァイオレット・ムーンは……。ずっと僕の……僕のめぐみさんでいいって……言ったじゃないか。

 まだロスではなく、目の前の…半径50メートル以内に……あの壁の向こうにめぐみさんが隠れているという、中途半端なリアルさが……一層、切なさを煽る。


 しかし、帰るしか……なかった。壁の向こう側で引き続き『仕事中』のヴァイオレット・ムーンと……めぐみさんを残して。

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