藍色の月 第三十五章 あとかたもなく

 めぐみさんの部屋を出て……直ぐ左にある、表通りへの17段の緩い階段を駆け上がった。急いでいた訳ではなかったが、決意が……気が変わらないうちにと、自らをけしかけたんだ。


 早朝の恵比寿の街……いっそ迷子になり、このままどこかへ消えてしまいたかったが……恵比寿駅にはすんなり着いてしまった。

 その間、言い訳を考えて何度……何度引き返そうと思ったことか……。

 でも……でも、めぐみさんと一晩かけて決めた事は、守りたかったんだ。


 もう……部屋からは出て来てしまった。このあとは……なんにもできない……なんの役にも立てない僕が、めぐみさんの夢を守る為に出来る事と言えば、このまま……このまま帰る事だけだった。

 「私のれいくん」は『日常』へ……17歳の高校生へと引きずり戻される。


 帰宅……。

 初めての無断外泊……朝帰り。前日、めぐみさんからの電話を取り次いでくれた母は、彼女に逢いに出掛けて行ったのを把握しており……朝帰りの理由も、だいたい見当がついていただろう。

 しかし……それとも、だから? 思ったほど頭ごなしには怒られず、問い質されもしなかった。


 取りあえず、朝食のテーブルへ滑り込む。中3の妹もいる目の前で問い質して、僕が本当の事を話し出してはまずいという政治的判断か。

 ならば僕も、お約束の嘘をつくだけ。


 めぐみさんに会ってから、ヴァイオレット・ムーンのメンバーが宿泊する赤坂プリンスへ連れて行かれた。通訳の彼女は顔パス……ダグ・ボンドにも会わせてもらえて、バーにも連れていってもらった。

 もしもあの時……『めぐみさんと再会の儀式続行』ではなく『ヴァイオレット・ムーンのメンバーに、ダグ・ボンドに会わせてもらう』を選んでいたらどうなったか……という展開をそのまま話した。


 その頃少しハード・ロックへ傾き始めていた妹は、興奮気味に信じていたが……両親はどんなものか?


 結局、母からは……「赤坂なんて盛り場へ連れて行って……」と、ぶつぶつ言われただけだった。

 連れて……行って? ふーん。その言い方……僕ではなく、明らかにめぐみさんに対しての批判……。 無断外泊した僕を叱ればいいだろうが。

 毎度、母親ではなく教師目線でのご発言。そんな一面は今に始まった事でもなく……いちいち指摘せずに学校へと向かった。


 登校……授業……まだ自分自身が『日常』へ戻り切れていない感覚のまま……『日常』の側が勝手に過ぎ去って行き、あっという間に下校時間。

 帰宅し、着替えて……武道館か。


 生活指導部教師目線の母から置き手紙。

「昨夜、バンドメンバーの敏郎さんから電話があり、コンサートの待ち合わせがバイトで少し遅れるかもしれないとのこと。今夜もめぐみさんと一緒なのか。いずれにせよ、今夜は絶対に遅くなるな」


 だから……今夜は一緒じゃないってば。いや、今夜から……そして明日もその先もずっと……。

 行き先は同じ武道館でも、めぐみさんは仕事だと伝えてあるのに……この置き手紙の書きぶり、朝の話は信じていないのか? そこは仕方ないにしても……そもそも、めぐみさんがヴァイオレット・ムーンの通訳ということ自体を信じていないんじゃないのか?

 都子には、あんなにチヤホヤしていたくせに……めぐみさんのなにが気に入らないというんだ? 年上だからか? 女優だからか?

 いずれにせよ……もしも今更気に入ってもらえたところで、もう……。


 自分の大切な人が、自分の親に受け入れられない悲しさと悔しさを閉じ込めたまま……九段下へと向かう。


 途中、いろんな思いが浮かぶが……纏まらない。前日から今朝にかけて、起きた事……話した事。

 結局めぐみさんとは、どう決まったんだ?

 いや、わかっている……はずじゃないか。あんなに落ち着いて……明るく話して……部屋を出たじゃないか。


 違う。この虚無感……そんな……そんなことじゃない。

 彼女の巧みなリードで、あの時は不思議なくらいオトナぶる事ができた。『彼女がまたも暴走しそうになるのを、制御する役』までをも演じさせてくれた。

 演出兼主演女優の彼女は、17歳のジャリタレを……この上なく見事な演出で使いこなした。

 その上で……12月のあの夜も含めて『賭け』だったという秘密までもを明かしてくれたものの……最後は……あんなに綺麗に纏められてしまった、絶望的幕引き。

 それらを受け入れる覚悟を二人で決めて、コトに臨んだのではなかったのか。


 一つだけ、気付いた事。それは……もう、終わってしまったのだという事実。

 それが、つい今朝がたの事であれ、もう既に終わり……すっかり話のついた、全てが決定し終えた事柄だという事実。

 あれが『別れ話』と呼ばれるものだったという事を……東横線の中、後追いでじわじわと……実感し始めていた。

『虚無感』の棘が心に突き刺さったまま……僕は渋谷のホームへと降り立った。


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