藍色の月 第三十一章 卒業

「英語力を活かして……ハリウッドに近いアクティングスクールに……留学みたいなものよ」


 ロスアンゼルス? ……ハリウッドだって? めぐみさんまさか……ハリウッド女優を目指していたの?

 僕の心は明らかに動揺していた。


「もうわかったから……覚悟ができた……」云々言っていたにも拘わらず、まだ心のどこかに残っていた甘い期待……即ち、今回こうして再会できたのだから、こんな展開だけどまた次も逢えるはずだ……経路依存性とでも言うのだろうか。そんな何の根拠も無い、理屈にもならない甘い思い込みは……突然目の前に現れた具体的現実を示す言葉に拠り、見事に撃ち沈められた。

 そしてその動揺は……「詮索はしない」も「罪悪感から解放してあげたい」も、すべてが偽善に成り下がるような言葉を、僕に言わせてしまった。


「留学するならするって、最初から言ってくれればいいのに。ちゃんと待ってるから」


 またも……悲しげな瞳で見上げつつも、強い言葉を投げてくる彼女。


「ばかね……まだわからないの⁉」


 その強い目ヂカラに、怯み気味で答える。


「え? なに? わかんない……よ。待ってるよ。いいよ……ね?」


 めぐみさんの言葉は更に激しさを増し……


「ばか! あんなにキミを傷付けておいて、何ヶ月も捨てたまま……いきなり電話で呼び出して、買い物はポーター扱いで引きずり回して……揚げ句に、明日からまた逢えない……なのに……なのに今夜だけ抱いてなんて……私のワガママばかり通してきたのよ!」

「めぐみさん……」

「その上、またいつになるかわからないけど……待っててなんて、言える訳ないじゃない! 私のこと甘やかさないでって言ってるでしょ!」

「ちょっと……待ってよ……」

「違うの……違う……怒ってるんじゃ……ないの。悪い女よ……私は……言ってることと、していることが目茶苦茶だよね……」

「めぐみさん……」

「私も……ばかだけど……」


 大きくため息をつき、腕を伸ばして僕を抱き寄せながら……


「キミはホンットに……ばかね。なんで……なんで私なんか選んだのよ……」

「だって……」


 もう二人共、ボロボロだった。抱き合って泣き続ける事は……この二人にとって、既に現実逃避の時間ではなかったんだ。お互いの愛しさの証を立て、なにより確証が欲しかったのだろう。お互いに選び合った愛しい人は……決して間違いではないと。


 ただ泣くしかないというのは、こんな時の事をいうのか。「きちんと話す」などと言ったところで、結論が決まっている件について「話し合う」事など何も無いのだろう。

 各々が、納得できそうな何かを探して、泣きながら折り合いをつけて行く。その結果にまた傷付きつつも……切ない心を、また大切に抱きしめるしかない。そこに見付け出した『愛した証』と共に。

 お互いの『愛』を深めようとすればするほど……『哀』を手にしてしまう……。

 逃げ道を探したところで……また迷路に嵌まるしかなかったのだから。


「私、ホントに悪い女だけど……キミといる時だけは、真っすぐ……真っすぐ向き合いたくて……そうしてきたつもりだった」

「めぐみさんは悪い女なんかじゃない。今までも、今も僕に真っ直ぐ……真っすぐ向かってくれているよ」

「ありがとう。それはキミのお蔭よ。私のことは、もういいの。それより真っすぐが心配なのは、キミ……」

「僕が?」

「そう。そんなに……いっつも無防備で、真っすぐで……大丈夫かなぁ? そのまま放り出して、卒業させて。そのうちきっと、もっと悪い女に……騙されるよ」


 このひと言で、泣きながら話していた二人は……泣いたまま同時にクスっと笑ってしまった。

 笑っているのか泣いているのかわからない二人は……泣いたまま、きっと笑っていたのだろう。


 ひとしきりの笑いがおさまった二人は……一旦抱擁を解き、躰を起こし座り直し……改めて毛布に包まった。


「卒業って? 僕が、めぐみさんから?」

「そうよ。数学、教えてあげたでしょ?」

「数学以外の方が、たくさん教えてもらったし、楽しかった」

「数学とか以外がメインの教科よ。今日の……今夜の卒検、合格にしといてあげる」

「赤点でも……卒業させるくせに」

「正解です。心配だけどね。わかってもらえたみたいだし……だからキミのことは忘れない……絶対に」

「僕もめぐみさん……絶対に忘れない」


 今度こそ……二人の終わりを意味する、涙と笑顔だったのか。これが『別れ話』と呼ばれるものなのだとは……まだ知らない、わからない17歳だった。

 それ故か……そんな『別れ話』をしておきながらも、めぐみさんを求めてしまっている自分に気付いていた僕は……以前なら、どうにもできず遠慮していたであろう気持ちを、躇わず素直に告白していた。


「卒業式、してもらうからね」


 こんな生意気な台詞のどこが嬉しいのか……あんなに泣いていたのに、優しい笑顔。


「初めてね。キミがそんなこと、言葉で要求するのって」


 あ、そう言えば……それで嬉しかったの?


「男になったんだね。じゃあこれから、卒業証書の授与……やっ!」


 彼女の言葉を遮るが如く……初めて……初めてだった。いきなり、あんなに乱暴に押し倒したのは。あの時、何故あんな事をしたのか、できたのかが……未だにわからない。あんな風に女の人を押し倒したのは、僕の人生で後にも先にも……この時のみだった。


「そう……それでいいのよ。男なら、自信持って……私を……安心させて……」

「めぐみさん……ありがとう」


 最後の卒業証書を授与されている間、僕はずっと「ありがとう……ありがとう」と、言っていた記憶。「好きだ」でも「愛してる」でもなく「ありがとう……」と、繰り返し……。


 二人の涙と笑顔を……ひとしきり二人で抱きしめ合い、確かめ合い……二人が無言で選び残したのは結局、笑顔の方だった。

 笑顔での……穏やかな時間だったんだ。

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