藍色の月 第二十五章 ねぇ誰も間違っていないよ

 素焼きのクーラーから抜き出されたボトル……それは紛れも無く、年末のめぐみさんの誕生日の夜、用意されていたワイン。一本7万円という。


「今夜こそ~私は~犯罪者~っと」


 まるで唄うように、上機嫌にそんな事を言うめぐみさん。


「そう言えばあの時…『今度、犯罪者にされない時を狙って』とか言ってたよね」

「そうだっけ? そうか。じゃ、私もうどっち道、犯罪者だからいいのよ」

「どっちの犯罪? 未成年にビール飲ませた? それとも、高校生に……」


 あ、また睨んでる……いえ、何でもありません。


「あら? ビール飲ませた時点でもう、犯罪だったかしら?」

「それは今日、初犯でしょ?」

「それ以外に何か余罪……あったっけ? 被害者くん!」


 ダメ……これ以上、受け返せない……勘弁して下さい。


「ソムリエナイフ……そこの……そう、一番上。出して」

「は……はい!」


 でも、本当に……本当にとっておいてくれたんだ。あの夜、高校生事情丸出しな僕の都合で、結局開けられなかったワイン。藍色に滲んでゆく年末の光景……またも凝縮される12月までの記憶。


 緊張しながらも喜びを表情に隠せない僕を眺め、吹き出しながらもそれ以上は笑いをこらえようとするめぐみさん。


「はい……コルク、キミが開けてね」


 と、ボトルを渡されたが、まだ笑いを堪えている様子。


「あ……開いた!」

「なに興奮してんの? そんな実況中継いらないわよ……おっかしい! もうだめ!」


 と、遂に笑い出す彼女。つられて僕も笑ってしまったが、まだ緊張はしていた。7万円のワインを開けるなんて、もう、一生ないかもしれない。実際その後の人生でも、7万円なんてこの時だけ。


 しかしこの時は、値段自体に緊張なり興奮している訳ではなかった。あの夜のあのワインを、僕と一緒に開ける為に、本当にとっておいてくれた事が心底嬉しかった。


 僕がこんなに純粋に感激しているところに、また危ない台詞を挟む彼女。


「これでキミも……共犯者だからね」


 共犯者……なんて危険で、素敵な響きだろう。二人だけが共有する、時間……空間……想い……そして甦るのは年末、二人で辿り着いてしまった刹那の炎上。それは決して、過ちなどではなかったんだ。


「じゃ、あらためて……乾杯!」

「めぐみさん……」

「ん?」

「ありがとう。本当に……」

「なぁに? そんなにあらたまっちゃって」

「だって……これ、あの時……」

「そ。あの夜、約束したでしょ? とっておこうねって」

「約束……」

「そうよ。キミだってこうして、約束守って来てくれたじゃない」


 この約4ヶ月半、約束を忘れずにいてくれためぐみさん。なのに僕は、ワインの約束なんて、三階から投げ捨てられ、アスファルトへ落下したボトルのように……すっかり砕け散ってしまったものだと、勝手に決めつけていたんだ。

 三階から一階へと移され、大切に守られた約束とボトルは……約4ヶ月半の時間をかけて二人の想いと共に蒸留され、二人の目の前で……こうしてコルクを抜かれ、成就した。あの夜の、二人の約束のままに。


 なのに……なのに僕ときたら、なんてことを……。出掛けに母から都子の事を突っ込まれた時には「チクリ」としか痛まなかった胸の奥が……今、目の前のめぐみさんへの、例えようのない『ハッキリとした痛み』に変わっていた。これって……罪悪感?


「もぉ……また何か考え込んでるでしょ。いいからもう、飲んで飲んで!」

「あ……はい! いただき……ます」


 そうだよね。誰も……間違ってないよね。でも最後に心の中でもう一度だけ……めぐみさん、ごめんなさい。


「やっと落ち着いて、お話しできそうね」


 確かに……だけど、この青椒牛肉絲ハンパない美味しさ!

「食事が始まれば、落ち着いてきちんとお話ができる」と考えていたのは、確かに二人とも同じだった。それにも拘わらず、おバカな僕……。


「そう? これ、めっちゃ美味しいね! めぐみさん、コックさんになれるよ!」

「いつでもなれたわよ、コックさんになら」

「え? あ……」


 しまった……料理が美味し過ぎて、会話が噛み合っていないぞ。

 今さっきは少し落ち込んだばかりだというのに、美味なる力は偉大である。17歳の狼少年を、色気より食い気にしてしまった。


「同じことだわ……赤坂のお店も、通訳も……コックさんでもね」


 それって……『女優になる』というのは、それらとは訳が違う……という意味? それは、僕でも何となくわかるけど。


「あの……ごめん。ちゃんと聞こえてたのに、あんまり美味しくて、つい……」


 あ、ニコッて……良かった。怒ってない。けど、こうしたニコッてのが一番、後で怖いんじゃなかったっけ?


「いいのいいの。それ、美味しいでしょ? コックさんより、奥さんになれば良かった?」


 段々慣れてきたのか……ギリギリだけど、受け返す。


「奥さんて、誰の?」

「なによ……今日、さっきから生意気ね。貰ってくれるの?」


 さすがにこの時はギクッ!っとなった。笑顔が残ってはいたから、冗談なのはわかったけど……ここで怯んでしまっては、12月までの僕と変わらなくなってしまう。落ち着いてちゃんと……ちゃんと応えるんだ!


「そうなれば、最高に嬉しいよ。でも……でもめぐみさんは、女優さんになるんでしょ? 夢を叶える方を先にしようよ」


 え……? どうしてそんな……切ない表情になるの? 僕、なにか悪いことでも言ったのかな?


 そこで僕は、フォローにもならない事を思わず言ってしまう。


「あ、あの……だからほら、僕もまだ高校生だし……」


 そんな言い訳のような僕の言葉に……憂いを残したまま少し首を傾け、笑顔を見せてくれるめぐみさん。


「やっぱりキミ、変わったわ。ちゃんと……応えてくれるのね。嬉しい」


 猫の目のように変わる彼女の表情に、またも戸惑いを隠せない僕。でも、その夜の僕の少し余裕な態度が気に入らない訳じゃなかったんだ。良かった。


 しかし……またも伏し目がちに表情に影を落としながら続ける彼女……


「でもまず……キミには、謝らなきゃいけないよね」


 そうか……めぐみさん、どうしても話したいことが、あるんだね。


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