藍色の月 第二十四章 二人は戻れない道を…ただ…

 顎に突きつけられた親指の銃口は解除されたものの……まだ少し、震えが止まらなかった。


 めぐみさんは、そのまま笑いながら……


「ごめんごめん……冗談よ。怖がらせるつもりは……なかったのよ」


 こ……怖かったよ! いくら僕が相手でも、からかい過ぎでしょ!


「い……いつだったかも、同じコト言ってませんでしたっけ⁉」

「言ったかもぉ……知れないわね。ねぇ……何してた時……だったっけ?」

「そ……それは……」


 フッと一瞬ベッドへと泳ぎ戻ってきた僕の視線の動きを、当然見逃さないめぐみさん。


「ふ~ん……」


 と、僕をいたずらっぽく睨みつけながら、どこか嬉しそうに……


「その辺の曲、テキトーに聴いてていいからね。でも、ベッドはいじっちゃダメよ。エッチ!」


 そう言って料理を始めるめぐみさん。


 はぁ。そうですか……僕って……「エッチ」なんですか。


 ただ、その台詞が……僕を、その「エッチ」にさせる為の『洗脳』だったとは……その時の僕に、気付けるはずが無かった。

 台詞のみならず、部屋を満たしている空気も……同じく洗脳の為の舞台装置だったのだろうか。


 12月までとほぼ変わらない……同じテーブル……誘惑の波の音を奏でた、同じコンポ。鏡台には、あの時と同じドライヤー。そして同じ……ベッド……⁉ の上に、畳んで置いてある……パジャマ⁉


 それまで気付かなかったが、間違いない。あの時プレゼントされた、お揃いのパジャマの、めぐみさん用の方。思わず手を伸ばしかけたが、今しがた言われたばかりの言葉を思い出し、即引っ込めた。ヘタに触ったら「エッチ」にされてしまう。


 図らずも、僕もその朝まで着て寝ていた、めぐみさんとお揃いのパジャマ。

 こうした一つ一つの……『偶然』などとは呼ぶことができない舞台装置が、想いを『過去』から解放してゆく。部屋の中の色々な物たちへの懐かしさで……もしかしたら僕は、自らを洗脳していたのかも知れない。


 上馬のマンションの時と同じく、彼女はキッチンで料理。半径数メートルの、手の届く所にいた僕。にも拘わらず、あの頃……いくら背伸びをしても届かない部分が間違いなくあった。しかし、この日は不思議と……ただ手を伸ばせば、それですべて届いてしまうような、そんな気分だった。


 ふとテーブルの上を見ると、レコーダーと……ノートが開いたまま、出しっぱ。スマホとノートPCではない。テープのウォークメンと大学ノートである。何か英語でびっしりと書いてある。Hugh Sullivan…Violet Moon…?


「このノート、ヒュー・サリヴァンとかメンバーの名前があるよ」


 キッチンから、よく通る女優の声が返ってくる。


「あ、それ? 明日のインタビューとは別の雑誌のよ。テープ起こし、頼まれちゃって。見てもいいけど、お料理出すのに邪魔だから、見たらテレビの上にでも上げといてね!」


 ノートを見ていたら、めぐみさんが飲み物を運んで来た。


「レーブンベロイとハイケネン、どっちがいい?」

「あ……じゃ、そっち」


 ドイツ語が書かれた青と白を基調とした缶を受け取ろうとすると、トレイごと引っ込められた。


「ちょっと待ちなさい! まだ、聞いただけよ。これ、見えないの?」


 あ……トレイにグラスあったの? 気付きませんでした。


「お行儀悪いわね。ちゃんとグラスに入れるの!」

「……」

「もぉ……ノートもテレビって言ったでしょ?」

「ごめんなさい。今どけます」

「はい、どうぞ。じゃ、改めて……再会を祝して、乾杯ね」

「乾杯!」

「そう言えば、キミと一緒にアルコールって初めてじゃない?」

「そうだね。いただきます」


 きちんと冷やしてあるグラスに注いでくれたビールは、泡との比率が芸術的に思えた。飲んでしまうのが惜しいくらい。

 さすが、赤坂の高級クラブのおねえさん。女優と通訳と……彼女のもう一つの顔。12月までは彼女のそんな肩書、普段は考えもしなかったのに。


 きっとこの時の僕が気にかけていたのは、彼女の肩書や仕事なんかではなかったんだ。そう……あの時の、年明けの悲しみを繰り返す事への……いや……乗り越えろ……乗り越えるんだ。あんな悲しいシナリオと同じ舞台が、またも繰り返されるはずがないじゃないか。


 赤坂ではなく、今は僕だけの為に、グラスに注いでくれるめぐみさん。通訳のめぐみさんも、ヴァイオレット・ムーンから奪い返し……否……その二つだけなら、そんな大袈裟な話でもなかった。寧ろ、通訳や赤坂のクラブで働いている分には、何の心配もなかったんだ。12月の、その前からそうだったじゃないか。なのに……なのに『女優』としての貴女は……またいつか、突然いなくなってしまうの?


 今は……ホステスでもない、通訳でもない……そして女優でもない……何の肩書も要らない、そのままのめぐみさんと過ごす大切な時間。あまりにも完璧な泡の美しさに、彼女の姿に魅入るが如く、吸い込まれそうな気持ちに陥っていた。


「なに眺めてるの? 早く飲まないと……泡、消えちゃうよ」


 そんな彼女の気遣いが切なかった。飲んだら飲んだで、消えてしまう。あの時の……貴女のように。

 だから、こんな台詞もその日は躊躇わずに言えた。


「消えないよ。こんなに綺麗に……きめ細やかに注がれた泡は、そんなに簡単には、消えないんだ」


 でも……

「僕の心の中の……貴女のようにね……」

 とまでは口に出せずに……レーブンベロイと一緒に飲み込む。

 飲み込んだ……僕のこの切なさもきっと、めぐみさんにはお見通しなのかもしれない。


 それでも彼女はどこか嬉しそうに……


「へぇ~……」


 と、それっきり何も言わないまま、じーっと僕の顔を覗き込み……静かな笑顔を浮かべている。


「なぁに?」


 グラスのハイケネンを口に運ぶその間も、斜めに見つめたまま、何か言いたそう。

 僕もあえて、目は逸らさない。こんな時には目を逸らしてはいけないという事を、いつの間にか学んでいたようだ。


 グラスを自然、かつ丁寧な手つきでテーブルに置き、彼女はやっと口を開く。


「変わった」

「えっ?」

「今日のキミ、なんか余裕な態度ね」

「そ……そう?」

「私、時々ね……キミの……キミの思ってることが、エスパーみたいにわかっちゃう時があるの」


 と、少し表情に陰を落とす彼女。


「めぐみさん……(時々なものか。貴女はいつも……)」

「でも……」


 また、パッと笑顔に戻り…


「でも今の、ビールの泡のお話は……許してくれるよね?」


 そう言いながら、僕に返事をする隙を与えないかのように……自分のハイケネンのグラスを、僕のレーブンベロイのグラスに軽く重ね、残りを飲み干し……


「ごめんね」


 と呟き、またキッチンへ消えて行くめぐみさん。


 やっぱりお見通し……でしたか。そう思いつつ……今、笑顔にはなったものの……去り際の淋しげな、切なげな表情は……僕だって見逃さなかった。


 12月の二人と、どこか違う空気は感じたものの……結局は彼女のホームで彼女のペース、彼女の手の平の上なのは変わらない。でもこの日は彼女に見抜かれてばかりではなく、彼女の気持ちが以前よりずっと解るようになった……気がしていた。


『この日』は? 違う……広尾ではオドオドしっぱなしだったし、買い物中も振り回されてそれどころではなかった。

 この部屋に……来てから? いや、あの時……あの時だ。ヴァイオレット・ムーンに会わせてもらうより、めぐみさんとの再会の儀式を続けると決断し、彼女にそう伝えた。あの時、覚悟が決まったあの時から……もう、ドキドキはしても、ビクビクはしていない。『親指の銃口』……以外はね。


 そんな事を考えているうちに、お料理の第一弾が運ばれて来る。色とりどりの綺麗なサラダ。他にもオードブルメニューが色々……美味しそう。

 メインは青椒牛肉絲。これがもう、この世の物とは思えない程の絶品だった!


「さて、今夜のメインゲストをご紹介致しま~す」


 そう言いながら、レンガを筒状にしたような茶色い焼き物から抜き出されたのは……


「……?」

「じゃーん!」

「あ! それ……あの時の!」

「せいか~い♪」




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