藍色の月 第二十章 其処に在ると信じたもの

 逃れられない宿命と、先が見えない運命に振り回されて……人は毎回同じような展開を繰り返すのだろうか。

 僕も例に漏れず、堪えられない悲しみに苛まれ続け……そのまま心が病んでしまいそうになっていた。


 4月初旬……お互いの強すぎる想いと脇の甘さに拠る自業自得とは言え、引き裂かれ、終わってしまった都子との恋。

 以降……自らの幼さ故の自責の念と、都子への済まない気持ちに圧し潰されるような日々を送っていた。


 それでも……もしも悲しい気持ちをかき消せなかったとしても……また新しい明日へと歩み出すしかない。


 いずれにしても、この頃の僕が心に決めていたのは……


「しばらくは、もう誰も好きにならない」


 誰かを好きになる度に、こんなにも悲しい想いに何度も何度も苛まれるくらいなら……もう恋なんて、恋人なんて要らない……と、またも頑なになってしまっていたのかもしれない。


 バンド活動も再開したかったし、いつまでも引きずってはいられない。

 もうすぐヴァイオレット・ムーンの来日武道館ライヴもある。チケットは……奇しくも、都子がチケットペアに電話しまくって取ってくれたものだった。


 都子……本当にありがとう。こんな時になっても、君には感謝することばかりだよ。そうだった……ごめんね。君が欲しかったのは『感謝』なんかではなかったよね。本当に……申し訳ない。


 そんなことに想いを馳せつつ、迎えた5月中旬近く……いよいよ翌日はヴァイオレット・ムーンの武道館ライヴ初日……という日曜日の午前中、何やら母が下から呼んでいる。


「電話よ~!」


 あー、はいはい。

 2階の電話は父母の寝室にしかないので、急いで階段を降りて……


「誰?」


 と、訊いているのに……わざとであるかのように間を置き、そして……怪訝そうな表情で、やっと答える母。













「めぐみさんから」

「⁉⁉⁉⁉⁉」


 え……? 誰だって?

 突然聞かされた名前に……目の前の風景が吹き飛び、そして自分がどこかへ飛ばされた感覚? 今、一瞬見えた風景は? そうだ、あの道……チャリで通ったあの道。小学校の前……首都高の下……環状線……そしてマンションの部屋……これって、軽いフラッシュバック?


 実際には、たった数秒間にも満たない混乱……取りあえず、受話器を持った。何と言って出たらよいか、わからないまま。


「あ……はい……」

「れいくん? 久しぶりね。元気にしてた?」


 応えられなかった。まだ頭の中は真っ白のまま……返事が……できない。


「れいくん……?」


 徐々に感情が昂ぶってきているのは感じていた。どうして……今まで……どこに? あの時……なぜ? 聞きたい事……言いたい事……山ほどあったが、言葉にならなかった。


「いつも突然で……ごめんね」


 そのひと言で、この数ヵ月間が一瞬にして圧縮され、眼の前に置かれたような感覚だった。

 でも……まだ言葉は出ない。


「あ……あの……」

「今日……今から、会える?」


 続いたこのひと言で、眼の前に置かれたこの数ヵ月間が、一気に精算されたような気持ちになってしまった。そしてその気持ちを自覚できた時には……もう、スラスラ言葉が出ていた。


「うん……会える。逢いたい! どこ?」


 もう何も考えることなく、完全に無防備だという自覚などないまま、感情だけが先行した台詞で答えてしまっていた。


「ねぇ……明日からのヴァイオレット・ムーン、行くの?」


 いきなり現実的な話題を振られ、我に返る。


「あ……うん。明日の武道館……行く」

「そう、良かった。私も明日、通訳としてね」


 そうだった。めぐみさん、外タレの通訳の仕事もスポットでしているんだった。しかも今回、ヴァイオレット・ムーンの?


「ヴァイオレット・ムーンの」と聞いて、普通ならもっと興奮するはずだが……なぜかその時は、ヴァイオレット・ムーンなんてもうどうでもよかった。

 そんなことよりめぐみさん……どうして?


「どうして……?」までで、なぜか思考が止まってしまう。どうして……あの時いなくなったのか。どうして……突然連絡してきたのか。そこまで考える手前で止まってしまっていた。

 きっとそれは、もう既に自分の中では『尋ねる必要のない』事柄となっていたからなのだろう。


 懐かしい声が、耳元で囁き続ける。


「今ね、恵比寿に住んでるの」

「恵比寿ならすぐ行ける!」

「そう。じゃ、広尾でお買い物するから、付き合いなさい!」

「あ……はい! じゃ、恵比寿じゃなくて、広尾に行けばいいの?」

「そうよ。有栖川公園へ向かう途中のオープンカフェで待ってるから。お店の名前はエスプレッソ」

「わかった! 急いで行く!」

「待ってるわね。気をつけて来るのよ」


 電話を切り、急いで着替えを終えると……玄関で、母のひと言が待っていた。


「都子ちゃん、最近来ないと思ったら……そんな訳だったの」


 「そんな訳」とはどんな訳か? 当の僕が、まだわかっていない。

 しかし、母親の言葉とはいえ、そうしたツッコミというのも如何なモノか。色恋沙汰に於いては特に、事情を知らない人間のこうした発言が、得てして残酷になる事もある。


 確かに……胸の奥がチクっと痛んだのは否定できなかった。でも、この日の僕はもう、その程度では傷付かない!

 なぜなら……恋が終わっても尚、春の間中僕を苛み続けた都子への恋心は……いつの間にか、彼女に対する贖いの心へと転じていたから。

 そしてめぐみさんに対しても……もしも、もしも例えば「あの時何も言わずに消えたのがどうしても許せない」とか「今頃連絡してきて何のつもりだ」等の感情が、仮にあったとしても……その日の電話に拠りこの数ヵ月間は、一気に清算されたのだ。そもそも、そんな恨み言のような気持ちは、微塵も持っていなかったし。


 あの優しくも懐かしい声の主にまた逢える。しかもこれから今すぐ……そんな嬉しさと喜ばしい気持ちだけが湧き出で、逸る心を抑えられなかった。


「都子ちゃんはもう来ないよ。但し、さっきの電話とは、一切関係なくだけどね」


 母にはそれだけ言って、家を出た。


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