藍色の月 第七章 喪失そして絶望

 年末近くのめぐみさんのお誕生日の夜……

 遂に結ばれてしまった二人。

 その後も……何度も何度も絡み合い……すべてを燃やし尽くし……。


 あのあと……自宅へ戻るまでの記憶が無かった。


 いつかはそうなるだろうとは思っていたものの、僕にとっては彼女との『突然の出来事』に、心の整理が付かない……

否、自分がどこか壊れてしまったかのような妙な感覚のまま年末を迎え、めぐみさんには逢えないまま年は明け……1985年を迎えた。

 そして、逢いたい……声を聴きたい……胸が痛い……そんなフラッシュバックを繰り返していた。

 精神的なショックがあると、脳の『海馬』とかいう部分に障害が起きるらしいが、それなのだろうか?


 勝手に浮かんでくる光景……美味しかった料理……7万円だというワイン(飲んでいないが)……二人揃って同じ用途のプレゼントだった室内照明……そのムードあるライトアップに照らされた……その夜のできごと……。

 彼女の瞳……指先……マリオネット……硬直……抱擁……くちづけ……未知の恍惚……。

 そして……謎の言葉から続く……刹那……情念……炎上。


 フラッシュバックは更に前の記憶まで蘇らせ、少年を混乱に導く。

 苦手な数学を教えてくれる、家庭教師な彼女……ストラトキャスターでジャムる、ミュージシャンな彼女……背中合わせに寄り添って座る彼女……お揃いのパジャマ……。

 波の音を理由に僕を横たわらせる彼女……ドライヤーを持って来るように呼び付け、平気で半裸のまま受け取る彼女……。

 前かがみに座り……威嚇するように言葉を迫る彼女……


「ねぇ!いつまでも『おとうと』ではいられないのよ!」


 めぐみさんの言葉が心に響き渡り、胸は張り裂けそう。

 冬休みに入ってからは、ほぼ毎日逢ってきた二人。年末年始はお互いに実家事情で、毎日一緒にいられないのは前から判っていた。それでも……逢いたい。年末年始なんか無ければいいのに。


 そんな……ほとんど病気な日々が続いた、正月明けのある朝……目覚めると、やけに頭がすっきりしていた。

 誰かが胸の中でつぶやく……多分、自分自身の声?


「どっちみち、遅かれ早かれ…吸い込まれちゃったじゃん」


 そして……めぐみさん?


「そう、どっちみちよ。やっと気付いたの? おっかしぃ!」


 その瞬間、フッとフラッシュバックから抜け出せた感覚だった。少し、笑っている自分がいた。答が……出たということか。


 めぐみさんも僕のことを好きになってくれて、明らかに誘惑していた。僕は大好きなめぐみさんの、その泉水に吸い込まれたくて……ちゃんと吸い込まれて……どの道こうなったんだね。


 ここ数日間の自分にしては意外な程、落ち着いていた。

 後悔なんて無い。だって僕はめぐみさんが大好き。何も変わらない。だから、逢いたい……今すぐに逢いたい。

 自分の中で『切なさ』さえもが熟成してゆくのを感じた。彼女の為の胸の痛みならば、喜んで受け入れられる。

 お互いにあんなに本気になれたのだから、ため息は嬉しさと切なさで半分こ……なんて、もう大丈夫そうだな。

 さぁて……ならば次、どんな顔して会ったらいいのか?


 次……? どんな顔して……? あ……あれ……どういう意味だったんだろう?


「キミと……お別れしたく……なかったの……」


 今すぐ……今すぐ行かなきゃ! めぐみさんに会って、どんな意味だったのかを確認するんだ!


 事前にアポとか電話とか、まったく頭に無かった。とにかくチャリを走らせ、彼女へのいつもの道を飛ばす。


(そういえばめぐみさん……女優さんの仕事の件を……)

 国立病院の前で駒沢通りを渡り、卒業した小学校の前を通り過ぎる。


(以前から、言ってはいたな……)

 そのまま進めば首都高の下…環状線の直近に出る。


「今後のお仕事の入り方次第かなぁ? 本気で専念しなきゃいけなくなるかもね」

 環状線を左へ…200メートルくらいで、めぐみさんのマンションへの角。


「もぉ……大丈夫よ。心配しないで」

 近づけば近づくほど、増殖する嫌な予感。


「もしかしたら……の、話よ。なにそれ、おっかしい!」


 着いた…三階へ! 玄関……呼び鈴……応答無し?

 居ない時用の、鍵の隠し場所へ……鍵が無い? いつもここに隠してあるのに。

 もう一度玄関へ……なんか生活の気配を感じない? ん? さっき、鍵のトコでの妙な違和感、なに?

 再度、集合ポストへ……あ! 名前が……めぐみさんの名前が……無くなってる!


 ⁉⁉……突然のフラッシュバック!


「ねぇ! いつまでも『おとうと』ではいられないのよ!」

「今が……この時が……愛おしいよ」

「れいくん、今夜は……帰っちゃうの?」

「キミがここにいるうちに……帰っちゃったら、一つずつに……離れ離れになっちゃうでしょ?」


 帰っちゃったら、一つずつに……帰っちゃったら、離れ離れに……


 そういう……

 ことだったのか……

 このことを……

 言っていたんだ。


 もう……ここにはいない……という現実が、不思議にストンと理解できてしまい……その場に力なく……しゃがみ込む。

 自分自身の中から、そのほとんどが無くなってしまったような……そんな感覚。この瞬間から僕は……『喪失感』と一緒に暮らして行くこととなる。


 何の連絡もなく、いなくなってしまっためぐみさん。

 言葉ではっきり決められるより…否、決められていないのに……『逢えない』という現実だけが目の前にある。17歳を失望させるには、それだけで充分だった。部屋で一人になると……喪失感に襲われては、泣いていた。


 何かの間違いである事を願い、その後も再度マンションへ行ってはみたが、誰も住んでいないのは変わらなかった。

 三回目の呼び鈴は……『失望』を抱えていた僕を『絶望』の淵へと叩き落した。

 全然知らない女の人が出て来た。越して来たばかりだと言う。


 知ってるよ。


 この人には何の関わりもないが、この部屋のあの場所を、見知らぬ女に踏み荒らされたような、そんな気分だった。

 言い掛かりだよね。思っただけとはいえ、因縁つけてごめんなさい。

「失礼しました」

 と……ここへは二度と来ない事を、自分自身に言い聞かせた。


 目の前でどんどん変わって行く現実……当然僕も、それらに適応して行かねばならないのだろう。比較的心が落ち着いている時を狙って冷静に考えれば、理屈くらいは僕にだってわかる。でも……わかればわかるほど、込み上げてくる悲しみを抑えられなかった。

 しかし、いつまでも心を悲しみで満たしている訳にもいかないだろう。悲しみを熟成させ、心を育てる糧として…そして少しずつ、心を強くして行く。優しくして行く。そこまでの道理はまだわからない僕だったが……心の奥底では、そう努めていたに違いない。

 そうしなければ、本当に……心が壊れてしまいそうだったから。


 そうして迎えた三学期……拭い切れない悲しみを日々まとい続けていた僕の……自分自身でさえ気づいていなかった『変化』に……気付いた人たちがいたんだ。それは……。

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