水葬

波田

風呂場

 その日は私の誕生日だった気がする。

 産まれた日にまで仕事はしたくないからと有給を取って、朝を飛び越して昼まで眠っていた。ようやく目が覚めて寝転がったまま壁に掛けてあるアナログ時計を見たら『13:56』を指していて、年に一度の貴重な誕生日の半分を睡眠に費やしてしまったことが分かった。充実しているのかしていないのかわからない。シーツに沈んだまま起き上がれない私を慰めるように、スマホが震えてポロンと通知を鳴らした。どうにかうつ伏せになってスマホを持ち上げると、人工的な光がパッと灯った。


 『お誕生日おめでとう!27歳も楽しく過ごしてね!』


 画面に映ったメッセージを見て溜息をつく。27歳になってしまった。子供の頃は27歳なら結婚して子供がいて、持ち家で毎日パーティをするような生活をしていると思っていたのに、現実の私は昼過ぎまで寝ている低所得事務員だ。新しい何かを始める気力もなく、今までの趣味を継続する根気もない。呼吸と食事が出来るから生きている。成人してからはそんな感じで7年もの月日を棒に振りながら生きてきてしまった。

 勝手に顔認証で開いたホーム画面を少し見つめてからメッセージアプリを開く。数人しかいない友達からのメッセージが通知マークと共に浮かんでいる。まだ動き始めたばかりの頭ではメッセージを読み上げるのがやっとだ。


 『お誕生日おめでとう!いい一年にしてね!』


 『まだ子供が小さいからなかなか会えないけどまた会お〜』


 『プレゼントが届いています』


 『聡太くんとはもう結婚したの?』


 ピタッと文字を読む目が止まった。

 聡太。もう付き合って8年になる私の彼氏だ。顔も身長も普通だけど、多分私はこの人のことが好きなんだと思う。同棲はしてないけど休みが被ったら一緒にいるし、仕事の愚痴も聞いてくれる。最近は聡太の方が忙しいらしくてなかなか会えていないけど、メッセージは毎日送りあっている。

 そういえば誕生日は一緒に過ごす予定だった。それなのに何で私は昼まで寝ているんだろう。新規メッセージのせいで沈んでいた聡太とのトークルームを開くと、向こうからのメッセージで止まっていた。


 『もうすぐ着くよ』


 『うん』


 『今日は大切な話があるから、ちゃんと聞いてほしい』


 そうだ。このメッセージを見て、もう8年の「待て」が終わると思っていたんだ。隙があれば子供マウントを取ってくる友人やランクの違う職歴を持つ同期から離れて、ついに私にも人生の春が来るって、この長い年月が報われるって思ったんだ。

 体をベッドから起こす。聡太はどこにいるんだろう。ワンルームのこの家にいるならすぐに気付くはずだから、どこかに出かけてるのかもしれない。メッセージが無かったのは許してあげよう。ご飯を買いに行ってくれてるのかもしれないし。

 鏡を見なくても笑っているのがわかる。寝る前の記憶が曖昧だから、もう一度プロポーズの言葉を言ってもらおう。今度は録音もさせてもらおうかな。胸が温かくてドキドキする。私も独身じゃなくなるんだ。考えていたよりも少し遅くなったが問題ない。今は30代で子供を産むのも珍しいことではないから、大丈夫だ。

 聡太が帰ってくる前に顔を洗っておこう。夫婦になって初めての朝だからいつもより綺麗にしておこう。上機嫌なまま足をフローリングに降ろすと、ザリッとした感覚が伝わった。


 「え?」


 砂を踏んだような感触だった。フローリングを見ると、赤黒いシミが点々と、玄関に繋がる廊下の方に続いていた。これは何だ?足を少し上げて足の裏を見ると乾いて張り付いた錆のような何かがパラパラと破片を落としていた。何だこれは。廊下と部屋を繋ぐドアの奥に目を向ける。何か小さな音が聞こえる。ドア奥を意識したから聞こえるようになったそれは、サーという砂嵐のような音とパシャパシャという水の音だった。


 嫌な予感がする。さっきまでの胸の高鳴りを冷や汗が冷ました。廊下に行ったらダメな気がする。その音の"元"に行ったら終わりな気がする。このまま寝てしまった方が良いんじゃないか。

 でも聡太が帰ってきたらどうしよう。聡太がそれを先に見てしまったらどうしよう。もしそれがとても怖いもので、聡太に何かがあったら私の人生はこのまま続いていってしまう。嫌だ。私は昨日で変わったんだ。これからは幸せで健やかで温かい人生を歩むんだ。そのためなら、何だって出来る。


 私は立ち上がった。シミを辿って廊下に繋がるドアを開ける。音が大きくなる。風呂場だ。水道の音と、溢れる水の音だ。ただ風呂の蛇口を締め忘れただけかもしれない。キッチン下の扉が少し開いていた。何で開いているんだろう。何で安心できないんだろう。玄関を見る。私のパンプスと見慣れたスニーカーがある。生臭い匂い。分かってしまった気がする。分かったのに脳が必死にそれ以外の情報を持ってきてそれを隠そうとする。開けなければ。風呂場の扉を、開けなければ。


 引き戸の取っ手に指を掛けて、引っ張る。ガコンと音が鳴って扉に貼られていたガラスが光を飛ばした。濡れたタイルがツヤツヤと光る。薄められた赤、排水溝に溜まる何か。浴槽から水が溢れている。その中に。中に。

 

 「ああ、やっぱり」


⬜︎


 とある留置所で女が笑っていた。面会室のガラス窓越しに座る弁護士バッヂを付けた男性が困ったようにこめかみに指を置いてから口を開いた。


 「だから、ええっと、君は恋人を殺したのは認めるということかな?」


 それを聞いた女はまた楽しそうに声を上げて笑った。肩につくくらいの髪を振り回して、口に手を当てて、心底楽しそうに笑っていた。


 「誕生日プレゼントです、プレゼント!」


 腹を抱えて、パイプ椅子をギシギシと鳴らして笑う。


 「だって、知ってます?ハーバリウム。あんな感じだったんです!本当に綺麗で!」


 弁護士はまた困ったようにこめかみに当てた指に力を入れ、固まった筋肉を解していた。


 「だから、別れようって言ったこと、全部許してあげたんです」


 女はそう言うと、ハハッと一声大きく笑った。

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水葬 波田 @Ine322es

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