一章 -吊るされた男-

第1話











 爽やかな初夏を過ぎ、じっとりとした湿度が肌を舐める。景色は一気に色鮮やかさを増し、本格的な夏がやってきた。

 木々が少ない都会とは言えども、折り重なった蝉の鳴き声は大層やかましく、夏特有の情緒を感じさせるがなかなかにわずわしい。


 そんな騒々しさを吹き飛ばすように、目の前で飛び交うのは男女の罵声ばせい。そして室内のあれやこれやが宙を舞い、盛大に壁や床へと叩きつけられる音が同時に響き渡った。

 そんな光景をどんよりとした目で見つめるのは、今まさに修羅場の現場となっている興信所の主、道下幽心みちしたゆうしんである。

 彼は時折こちらに飛んでくる物をどうにか避けつつも、分厚い紙束をテーブルの上へと置きながら苛立ちを逃すようにため息を吐いた。


 依頼されていた浮気調査が数日前に終了し、今日は依頼者に連絡を取って調査結果の書類を渡すだけの予定であった。

 しかし、いざ依頼者が現れてみれば、何故か弁護士などではなく調査対象である自身の夫を連れており、ド派手なアロハシャツを着崩しゴールドのアクセサリーをこれでもかと着けた、いかにも堅気ではなさそうな風貌の男と事務所内で激しく言い争いまで始める始末。

 幽心はそんな彼らをどうにかいさめめようとはした。けれども感情が爆発している状態の彼らに言葉など通用しない。

 理性などとうに崩壊していた彼らは、感情のままにののしり合い取っ組み合い、人様のオフィスを大いに荒らしながら置いたばかりの資料すらも撒き散らした。


 こういうことが起きるのは初めてではない。

 なにせここは欲望渦巻く新宿の歓楽街。ネオンの華やかさはあれど闇も深く、後ろ暗い連中が徘徊しては毎日何かしらの事件が起こる。

 路上に立つ少女たちを囲う大人もいれば、ご禁制の品を取り扱う者たちが暗がりでひっそりと煙草を吹かしながら静かに客を待ち、よどんだ目をした人々が吸い込まれるようにして路地裏という闇へと消えていく。

 そんな場所に事務所を構えれば、客層もそれなりにかたよるわけで。


 さてこの惨状をどうしようかと頭を悩ませていると、事務所の扉が大きな音を立てて無遠慮に開いた。


「幽心いるかぁ?」


 そんな気が抜けるような言葉と共に現れたのは、スキンヘッドを輝かせたひと際大柄な男だった。

 見るからに頑強な筋肉を持った彼がノシノシと室内に入ると、それだけで室内の温度が上がるような気さえする。

 男は荒れ果てた室内を見やると、不思議そうに首を傾げた。


「お前の事務所、またえらく模様替えしたなぁ」


「したくてしたわけじゃないですよ、五郎ごろう


 幽心に五郎と呼ばれた男は、幽心の顔に浮かぶうんざりした表情を見て苦笑する。


「ま、そうだよな。んで? これやったのは……あいつらか」


「えぇ、まぁ」


 そう言いながら二人そろって惨状の原因たる夫婦を見た。

 突然入ってきた大男に、旦那である男の方がすぐさま顔色を変えて固まる。


「……藤堂とうどう、さん」


「おう、知ってんのか。んで? お前、どこの組のもんだ」


「いえ、その……」


「言えねぇってのか? あ?」


「ヒッ」


 五郎が不快そうに眉間に皺を寄せて目を細めると、それだけで男は細い悲鳴を上げて震え出した。


「ったく、堅気の人間に迷惑かけるんじゃねぇよ。ただでさえこの事務所には色々と世話になってんだからよぉ。……おい、こいつら連れてけ」


 五郎の一言で、開けっ放しであった扉から数人の男たちが入ってくると、顔面蒼白になっていた夫婦はあっという間に拘束されて外へと連れ出されていく。

 幽心はそんな姿を見ながら事務所内の修繕費に頭を悩ませるも、五郎が彼らからきっちり依頼料含めて請求してくれるというので安堵の息をついた。


 皮張りのソファを軋ませてどっかりと座る男は藤堂五郎とうどうごろう

 いわゆる不動産屋を営んでいる彼であるが、先ほどの迷惑な客が見せた様子からわかる通り、裏社会ではだいぶ名の知れた人物でもある。

 そんな彼が取り扱う物件は裏の仕事に相応しく少々いわく付きのものが多い。それこそ流血沙汰になって物件として扱えないようなものから、不幸を呼ぶ悪霊屋敷までとにかく特殊で、この地域のみならず全国のそういった場所を取り扱っている。

 はたしてそんな場所が不動産として価値があるのかと聞かれれば、普通なら買いたたかれて終いである。むしろ買い手さえつかない不良物件だ。

 けれどもそんな土地を再び人が住める土地として復活させ、いわく物件を安く買っては高く売りつける。そう、それこそがこの藤堂五郎の最大の強みであった。


「ってかこの部屋暑くねぇ? なんだってこんなに……」


「あぁ、ついさっきエアコンが壊れたみたいなので」


 そう言って幽心がエアコンを指さす。そこにはガラス製の灰皿が器用にも吹き出し口にめり込んでいた。

 灰皿を投球していたのは依頼者である女性の方だったはずだが、いったいどんな剛腕であればあんなことが出来るのか、まことに不思議である。

 灰皿は中の送風ファンにまで達してしまっているのか、変な音を立てていたエアコンはつい先ほどからウンともスンとも言わなくなってしまっていた。


「あいつらぁ……」


「これの修理代も請求しておいてくださいね」


 幽心がそう言いながら窓を開けると、外の喧騒と共にお世辞にも涼しいとは言えない風が頬を撫で、飾られていた風鈴を鳴らす。

 涼しげな音を響かせた風鈴に目をやりながらも、幽心は五郎に連絡もなく訪れた理由を尋ねた。


「それで? 今日はどんな御用で?」


「お? わかってるくせによぉ。いつものアレだよ、アレ」


 ニヤリと笑った五郎がいそいそと取り出したのは、とある物件の情報が書かれた書類であった。

 渡されたソレに目を通していくと、さる地方で有名な心霊スポットについてであり、駅近で程よい立地にありながらも随分ないわく付きの物件であった。

 なかなかに広めのアパートだろうそこは、人が住まなくなってからすぐに不良たちがたまり場として無断立ち入りし、随分と荒らされてしまったという。

 それだけならしかるべき場所へと通報すれば何とかなっただろう。しかしそもそもこのアパートが廃アパートとなったのは心霊現象が多発したこともあるが、元のオーナーが事業に失敗して多額の負債を抱えてしまい、それに絶望して自殺してしまったかららしい。

 こうして宙に浮いた訳アリ物件は散々たらいまわしにされた挙句、五郎の元へとやってきたというわけだ。

 しかしこの物件が幽心にどんな関係があるのかと言われれば、それは五郎が持つ強みに大いに関係していた。


「ふぅん? ……土地自体にいわくあり、ですか」


「このあたりは古墳やらなんやらが多くてな。かなり昔に市街地の拡大とやらで古墳を更地にしたような場所らしいんだよ。まぁ、そういう土地でもきちんとした手順を踏んで建物を建てればなんとかなるんだが、前のオーナーは金をケチってまともな地鎮祭じちんさいもやらんで建てちまったらしくてな。入居者に不幸が続いた挙句、オーナーも借金苦で首括って自殺。うちに回ってきたは良いが、建物を壊そうにもその度に霊障が酷くってなぁ」


「霊障はどの程度? 」


「まず敷地に重機を入れようとすると運転してるやつがやられるな。怪我や病気で入院コース。あそこで好き勝手やらかしたクソ餓鬼どもも、調べてみればほぼ全員が何かしらの被害を受けてた。肝試し程度で来るくらいならいいが、敷地で好き勝手されるのが気にくわないんだろうさ」


「なるほど……」


「とりあえず更地にするまでの間でいいからさ、そういうのを静めてほしいんだよ。お前ならできんだろ?」


「まぁ、残念なことにできちゃいますね。……本当に残念なことに」


「そんな悔しそうな顔するなって。お前、本当に物好きだよなぁ。―――幽霊が好きなんて」


 五郎が呆れたように言うが、幽心はそれにも構わずに婉麗えんれいな微笑を浮かべた。


「人という殻を破った彼らは、良くも悪くも真っすぐですからね。見ていて純粋で健気だと思えるくらいに」


「わかんねぇわぁ、その感覚。生きてる人間の方が良いだろ。話も通じるし触れるってことはもちろん気持ちイイ事もできる。ほら、最高だろうが」


「僕はそういうの、あまり興味ありませんし」


「若けぇのに枯れてるねぇ。せっかく良い面してんのに。その顔で何人の女を誑し込んだんだよ。あぁ、男もか」


「人聞きの悪いことを言わないでください」


 五郎がからかい交じりにそう言えば、幽心はその整った顔を不愉快そうにしかめた。


 幽心は容姿端麗な両親の更に良いところを選りすぐったような浮世離れした容姿を持っている。

 近寄りがたい静謐せいひつさの中にも耽美さを漂わせるような独特の雰囲気がより彼の魅力を引き上げ、男女年齢問わず非常にモテた。それはもう顔面凶器の五郎が傍に居なければとっくに襲われていたくらいに。


「同じ血統のはずなのに、どうしてこうも違うかねぇ……はぁ」


「五郎の鬼みたいな顔も格好良くていいじゃないですか。僕みたいに相手に舐められないし、人も寄ってこないでしょう?」


「誉めてんのか? それ」


「はい」


「あーそうかい、ありがとよ」


 幽心が純粋に褒めていることは五郎もわかっていたので、少々投げやりに礼を言いながらソファの背もたれに寄りかかる。


 五郎は幽心の母親の双子の姉の子供であり、幽心とは従兄という間柄であるが、彼の容姿は父親の方を色濃く受け継いだらしい。彼の父親もまた地獄の門番のような顔をしているのだ。

 仕事柄舐められないのは良いことであるが、これほど顔面格差があるとひがみたくもなると五郎はよく言っているが、幽心にとっては非常に頼りになる顔面である。


「話が逸れちまったが、ちょうどいいんじゃねぇか? 事務所がこんな有様だしよ。事務所直してる間にパパッと済ませてきてくれや」


「簡単に言いますねぇ。でもまぁ、そうですね。さすがにこの猛暑の中でエアコン無しは少しきついですし……もちろん経費は出ますよね?」


「あぁ。観光名所も多いし、お前の好きな心霊スポットも多い土地だ。仕事がてら楽しんでこい。詳しいことはまたスマホに送っておくからよ」


「わかりました」


 五郎はそう言うと立ち上がり、軽く手をあげてから事務所を出ていった。


 蒸し暑い室内に残された幽心は、手元にある資料へと再び目を通す。

 目的の場所はそれなりに遠く、新幹線で行けるとはいえ二時間半というところだろうか。


「素敵な出会いがあるといいけれど」


 暑さで滲んだ汗をそのままに、幽心は囁くように呟く。


 久しく出向いていない地方に胸を躍らせつつも、幽心は早速旅行の準備をしようとばかりに立ち上がり、荒れた室内をそのままに事務所を閉めると軽い足取りで自宅へと向かった。











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