道下幽心の心霊奇譚

プロローグ











 あれは、忘れもしない小学二年生の夏の出来事。


 ふと気が付くと、見渡す限りに広がる空を映した水鏡の上に立っていた。

 濃紺から滲む朝焼けの赤。夜を惜しむように瞬く星が目の前に広がる中、足元にはわずかながらに寄せては返すさざ波があり、現実味のない景色にただただ茫然ぼうぜんと足元に視線を下ろす。

 白い泡を纏うそれは、不思議なことに足元を濡らさずに当たった瞬間から淡い光をともない消えていった。


 訳もわからずその場に立ち尽くしていると、薄ぼんやりとした影があちらこちらに立っていることに気づく。

 波に合わせてゆらゆら、ゆらゆらと揺れるそれらは、よくよく見れば人の形をしていて、ある一点を見つめながら声もなく進んでいるようだった。

 彼らの進む先には天を衝くほど大きな扉があり、空いた扉の隙間から漏れる輝きが灯台の明かりのように彼らを導いている。


 時折、水面から伸びた黒い手が影を掴んで引きずり込んでいく光景を目にした。

 影が一つ消え二つ消え、扉へと近づくにつれて影の数は少なくなり、扉の向こうへと越えていける者はいったいどれほど残るのか。


 うごめく影の中に、見覚えのある顔を持つ者がいた。

 それは間違いなく自分の両親で、陽炎のようにおぼろげな彼らがこちらに目を向けるのがわかった瞬間、根が生えたように動けなかった体が自由を取り戻す。


「お父さん、お母さん……」


 その呟きを聞いたのか、彼らはゆっくりと扉とは逆の方向を指し示す。


幽心ゆうしん、戻るんだ』


『あなたはこちらに来ては駄目。さぁ、糸を辿って戻って』


 指先に促されるように後ろを振り向くと、そこにはどこまで続くかもわからない大穴がぽっかりと口を開けていて、一寸先も見えない深い闇だけが広がっていた。

 あまりにも純粋な闇が子供心に恐ろしく、いやだと首を振って再び両親を見るが、彼らはすでにこちらから視線をそらしてゆらゆらと扉の方へと移動し始めている。


「待って! 僕を置いていかないで……っ!」


 そう言って両親の元へと手を伸ばした時、背後からクンと引っ張られるような感覚がしてたたらを踏む。

 慌てて穴の方を見やれば、今にも切れそうなほど頼りない銀色の糸が一線、大穴からこちらへと伸びていた。その糸が何故だか自分の胸元に繋がっていることに気づいて思わず息を飲む。

 そして、それを視界に入れた瞬間に本能で理解した。けしてこの糸を切ってはならない。切ってしまえば、きっと良くないことが起きるのだと。


 両親であろう影たちはその間にもどんどんと離れていき、すでに他の影たちに紛れてしまってどれが彼らなのかもわからない。

 その場に独り取り残され、彼らを追いかけようにも繋がれた糸がある限り追うこともできない。そんな心細さに崩れ落ちそうになりながらも、両親らしき影が言った言葉を思い出した。


「糸を辿って……戻る……」


 その言葉を頼りに、どうにか恐怖心を押さえて胸元から伸びた糸を手繰り寄せながらもフラフラと歩き出す。

 この行動によってどうなるかなど考える余裕もない。今はただ意味のわからない場所から離れたいという一心だった。


 影たちは大扉を目指す者が大半で、まるでこちらに興味はないとばかりに横を素通りしていくが、なぜか穴に近づくにつれ幽心の背後にまとわりつく者が現れた。

 大穴に近づけば近づくほどその数は増えていき、その影たちを追うように無数の黒い手もまた地面を這いまわり始める。


 気づけば駆け足になっていた。背後に感じる圧に押されながらも必死に前を向き、足をせわしなく動かす。

 今、安易に足を止めたらどうなるかわからない。背後に迫りくる言いようのない悍ましさに後ろを振り返ることもせずに無我夢中で走り抜け、どうにか大穴に飛び込んだ。


「はぁ、はぁ……」


 大穴に入ってからも、振り向くことなく闇の中を走り続ける。

 一体どれほどの時間を走り続けたのだろう。周囲の音もなく、だんだんと自分の息遣いすらも飲まれて息をしているのかもわからなくなる中で、銀色に光る糸だけが現状を脱するために縋れるものだった。

 地面を走る感覚さえなく、無重力の中でもがくような感覚が続き、誰かに頼ろうと見渡しても目を開けているかどうかすら曖昧になる。


 気づけば、その場にしゃがみ込み情けなく泣いていた。考えるよりも先に、怖いよ、誰か助けてと縋るように何度も声をあげた。

 置かれている状況への不安と、胸中をかき乱されるほどの恐怖に顔をあげられず涙をこぼしていた時、ついにどこからともなく求めていた声がする。


『あらあらこれは珍しいこと。このような場に童が紛れ込むなんて。まよい子かしら? 』


 琴の音のように美しい声は囁く程度にもかかわらず、暗闇に飲まれることなく耳へと落とされる。


「だれ……? 」


 幽心は涙で濡れた顔を手のひらでグシグシ拭いながら立ち上がった。

 優しさに包まれた声色に警戒心など湧かず、頼りたい一心で当たりを見回すが声の主らしき姿はどこにも見えない。

 ふと、風が動くのを感じて、何とはなしに風に撫でられた頬に手を当てる。すると、古めかしくも美しい衣服をまとい、顔全体を覆う面をした女性が幽心の目の前に軽やかに降り立っていた。


『坊や、そんなに泣いてはかわいらしいお目目が溶けてしまうわよ? 』


 そう言って幽心へと伸ばされた腕は折れてしまいそうなほど華奢で、袖から覗く肌には炎がとぐろを巻くが如く痛々しくも生々しい火傷らしき傷が見える。

 暗闇の中で、その火傷の痕は今でも肌を蝕むように燻ぶり、その存在をありありと示すように火花を散らす。

 その傷が常識ではあり得ない異常なものであるのにもかかわらず、幽心は心奪われるようにしてその傷跡を凝視した。


 この時すでに、幽心の精神状態は普通ではなくなっていたのかもしれない。


 おかしな世界に突然放り込まれ、化け物に追われ、無音の闇に包まれて死んでいるのか生きているのかも曖昧になっていく中で、唯一差し伸べられた手。こちらを気遣う優しい言葉。火傷から立ち昇る火が、まるで道標のように張り詰めきった恐怖を溶かし、急速に目の前の人物に対しての執着じみた感情になっていく。まだ育ち切らない幼い心が、目の前に差し出されたそれらに縋るのは至極当たり前のことであった。


 誰ともわからない女性の華奢な手が幽心の頭をそっと撫でた。それだけで様々な感情が堰を切ったようにあふれ出し、どんどんと歪んだ認識を作り上げていく。

 きっと彼女の傷を醜いと思う者が大半であろう中で、幽心にはそれがまるで大輪の華のようにも見えて仕方が無かったのだから。


 その手に縋った瞬間、もう戻れないと幽心は何とはなしに、そう思った。










 ―――遠くで音がする。

 ピッピッと規則正しい音が少しずつ近づいてくるのを感じていると、誰かがこちらに話しかけてくるような声が聞こえてゆっくりと瞼を開いた。

 ぼやけた視界には、白い服を着た誰かがこちらを覗き込んでいるのが映る。

 それが誰なのか幽心にはわからなかったが、周囲の慌ただしさや動かない体に付けられた機械を感じながら朧げに理解した。幽心が目を覚ました場所が、病院のベッドの上であることを。

 そうして意識を取り戻した彼は、旅行先に行く途中で起きた交通事故により両親が死亡し自分だけが生き残ったという事実を知り、数か月の入院を経て退院後に父方の親戚に引き取られることになる。

 幽心は歪になった心を悟られぬように、失った両親への悲しみの中にそっと隠した。


 気が付けば、うだる暑さの残滓が落ちる、そんな季節になっていた。












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