一章 東の国④

「申し訳ございません」

 謝りながら内心で顔をしかめる。

 宮廷の使いが来ることは忘れていないが、朝からのんびり洗濯しに出かけたのは、いつもはもっと遅い時間に出発するためで、しかもこんな役人の来訪は予期していない。

 居丈高な役人は必要以上に胸を反らしている。なんだこいつ、と内心で悪態をついた。

「わかっているだろうが、様のご命令である。泉より水をんでくるが良い」

 かしこまりました、と深々とこうべを垂れたが疑問はぬぐえない。

 頭を下げられたことで機嫌を直した役人に、顔を上げて尋ねた。

「あの、ところではじめてこちらにご来訪されるとお見受けしましたが……」

「そうだが? 私の、ひいては丞相のご命令に不服があると申すか」

「とんでもない。その、水ならいつもきちんと運んでいますので、こんな風にお立ち寄りになるなど、れんさまになにかあったのかと心配になりまして」

「お前ごときが案じる必要はないわ」

 汚らしいものに話しかけられたと言わんばかりの表情に、ああ、とすぐさま小役人の人となりを見抜いた。

 この男も、霞国の外で生まれた人を、人とはみなさない種類の人間だ。

「蓮妃様のため、泉から水を汲むことが、お前に与えられた唯一の役目であろうが。くだらぬ考えを持たず、ただちに命令を実行しに行け」

 ずきり、と心の隅が痛んだ気がしたが、それを素直に見せる暁蕾ではない。

 小役人でもそこそこ高位の人物だから、貧民街に長居したくなかったのかもしれない。用件だけ言い渡すと引き上げてしまい、残されたのはていという兵だ。

 しようひげを生やしたうだつの上がらない男で、普段は武器庫番をこなす顔なじみだ。

「そういうわけだ。さっさと支度してこい」

 言われた通りに、綿で丁寧にあつらえられた宮廷用の衣装にそでを通す。このときだけは髪をくくって首の後ろを見えるようにしなければならない。異なる部族と一目でわかるように銀の装飾も身に着けた。

 指がうなじに触れ、かつて押された焼き印の痕をなぞっていく。これこそが暁蕾の身分を示すものであり、霞国に滅ぼされ組み入れられた部族のあかしだった。

 暁蕾にひとかかえの包みを渡した丁は、基本的にやる気はなく、だらだらとしやべりながら歩く。暁蕾も慣れた様子で文句を言った。

「丁さん、なんでいきなりあんな小役人が足を運んできたの」

「それがなぁ、おれもまったく意味がわからんのよ」

 この中年とはかれこれ九年ちかくの付き合いになる。出会った頃は草原の民である暁蕾を疎んじたが、打ち解けて以降は、娘と同い年の彼女を彼なりにあわれんでいる。

「いつも通り朝飯食ってからお前のところに行くつもりだったんだが、いきなり呼び出されたかと思えば、丞相のご命令だからお前を水汲みに行かせるぞって言われてなぁ。子義様の子飼いってのは本当だから、黙って従ったが……」

 あの小役人は最近登用されたばかりだから、張り切ったのではないかと教えられるも、暁蕾の懸念は別にある。わけもなく手に力が入っていた。

れん……すいらんになにもなければ良いんだけど。ねえ、後宮の噂は聞いてない?」

「武器庫のしように期待してくれるな。心配だったら、直接蓮妃様にお会いしろ」

「……わかってるよ」

「腐るな。落ち込んだところで、お前にゃどうにもならん。いまに始まったことじゃなかろうが」

「腐ってなんかない。こんなの慣れてるし、いまさらなんだから」

 宮廷へ行くためには水汲みが必要だ。丁と貧民街を抜けると、群衆ひしめく大通りにでた。霞国は長く続いている国であり、ここは東側最大の都だから人の数も多い。あちらこちらで露店が開かれ、客引きに余念がなく、雑踏にまみれて騒がしい。

 そんな中を慣れた様子で進み、大通りから大門を出る。待っていた牛車に乗り込むと、はるか向こうまで広がる地平に思いをせた。

 この景色の向こうには、見渡す限りの草原と大地が広がっている。

 終わった過去に暁蕾が胸をざわつかせていると、そんな彼女を見て丁が揶揄からかった。

「なんだ、昔でも懐かしんでるのか」

「別に」

「だよなぁ。そんなこと言っちまったら袋だたきにされる、喋る相手には気をつけろ」

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