一章 東の国②

 霞国のとある家では、ひとりの娘が眠っていた。

 家主──しやおれいは空の瞬きなど知る由もなく、夜の闇に包まれている。

 夢とは時に過去の記憶を再現するものだ。この夜の彼女は母の腕に抱かれ、人生で一番幸せな時間を過ごしていた。

 父の帰りを待つあいだ、暁蕾は母の腕の中で、よくおとぎ話を聞いていた。

 それは世界のどこかにある物語。見たこともない大きなが王様を選んだり、つぼのあやかしが願いをかなえてくれたりと、様々な話で暁蕾を喜ばせてくれる。

 中でも、いちばん大好きだったのは、暁蕾達草原の民にとって身近な存在の話。

「昔々、遠い、遠い地からやってきたりゆうがいたの」

 母が龍の話をするときは、いつも微笑みの中になんとも言えない表情を浮かべていたけれど、語る声は優しかった。

「龍は傷ついていた。故郷から追い出されて、寂しくて、ずうっと泣いていた」

 かわいそう、と幼い彼女がつぶやけば、柔らかい手の平が髪を撫でる。

「龍はひとりぼっちでは生きられなかった。だから仲間を求めて新しい地にやってきたけれど、悲しいことにこの地の神は龍を受け入れられなかった」

「仲間はずれにしちゃったからかしら?」

「……わからない。だけどね暁蕾、龍は追いやられてしまったけど、ひとりにはならなかった。父様のご先祖さまたちに出会ったの」

「たくさんお話しして、それでなんでも治せるお薬をくれたの!」

「そう。草原の民と出会った龍は涙龍と呼ばれ、少しだけ寂しさを忘れることができた。そのお礼になんでも治せるお薬を授けてくれたけれど……でも暁蕾?」

 とがめるような母の視線に、わかってる、と得意げに言ってみせた。

「涙龍のお薬は私たち草原の民だけの秘密。絶対誰かに話したらだめ。……約束はちゃんと守ってるよ?」

「あなたが約束を守る良い子なのは知ってる。けれど黙っておくことが、外に出ていった皆を守ることにもつながるの。いいこと、気軽に話しては駄目よ」

「いまは母さましかいないじゃない」

「それでも気をつけるの。この秘密を守っていくのはあなたたちなんだから」

 はぁい、と気のない返事をした。

「それに仕事を怠けてはだめよ。みんなちゃんと乳搾りしてから遊んでるんだから」

「私の分は父さまの働きでちゃらだもん」

「父様は父様、あなたはあなたです。父様の働きを自分のものにしてはいけません」

すいらんおねえちゃんは遊んでても𠮟られないじゃない」

「あの子は族長の娘さんだから……」

 族長の末娘だから許されるのかと、暁蕾はふくれっ面を作り、ご機嫌斜めを装った。勉強以外のことには優しい母は、こうすれば暁蕾をなだめ謝ってくれる。これをいいことに、とっておきのらくがんをひとかけらだけ食べさせてもらう算段でいた。

 甘い菓子で口を満たそうと夢見心地でいたら、いつまで経っても期待する言葉が降ってこない。もしかして悪巧みがバレてしまったのかもしれない。おそるおそる顔を上げると、無表情に暁蕾を見下ろしている母と目が合う。

 ……頭の片隅で夢の終わりを悟った。

 母の唇の端から赤い血液が流れ落ち、幼い暁蕾が泣き出す一方で、現実の彼女はこれは悪い夢と言いきかせた。ただの過去の再現だから傷つく必要はない。そう言い訳する傍らで、母の胸に広がっていく赤い染みから目を離せない。

 幼い暁蕾が母さま、と呼びかける前に目を覚ました。

 夢に反し呼吸は落ち着いている。

 深い息を吐き、硬い枕に後頭部を強く押しつけながら、交差させた腕を目頭に当てた。

「やな夢」

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