第七章 記憶喪失 精神乖離

第1話記憶を失っても君だけは覚えている

病院の一室で目覚めた僕が一番に何を思ったのか…。


「誰かのために絵を描かなきゃ…」


そんな言葉が脳内を埋め尽くしている。

自分のことなのに意味がわからない言葉に僕は首を傾げざるを得ない。

目覚めたことを知った病院の関係者が僕の家族に連絡を入れたのだろう。

しばらくすると家族が僕の下を訪れる。


「ちょっと!倒れたって何があったの?」


「倒れたって聞いた時は驚いたよ。大丈夫かい?」


僕の下に訪れたのは優しそうな女性と男性の二人だった。


「あ…えっと…」


返事に困っている僕を見た女性の方は眉間にシワを寄せて訝しむ表情を浮かべていた。


「なに?どうしたの?」


「あぁ…その…二人が誰か分からなくて…。兄と姉ですか?」


「………」


僕の言葉を受けて二人は驚きのあまり言葉を失っているようだった。


「そうだよ。よく分かったね」


しかしながら兄だと思われる男性は即座に柔和な笑みを浮かべると僕に右手を差し出す。


「今はゆっくりと休んで。真名さんのフォローは僕らでするから」


「真名…なんだか心地の良い響きだね」


「そうだね。再会したらきっとまた彼女を好きになるよ」


「えっと?僕の恋人なの?」


「妻だよ。二人の子供も産まれたばかりだよ」


「そうなんですね…思い出せるのでしょうか…」


「大丈夫。亮平ならきっと何もかも思い出すよ」


「そうだと良いのですが…」


僕と兄はそこまで話をするが姉の方はショックを受けているのか口を開かない。

兄は姉の背中に手を回して病室を後にしようとする。


「また来るよ。とにかくゆっくり休んでね」


「ありがとう。また」


そこまで話をして病室でぼぉ〜っとしていると再び病室のドアは開く。

そこには老男性の姿と父親らしき人物が立っていた。


「倒れたと聞いた。容態も概ね理解している。

何もかも任せすぎたのかもしれんな。

期待を向けすぎたかもしれん。

とにかく今は休むんだ。

真名と静のことは私等に任せなさい。

活動の方もしばらくは休むと良い。

描きたくなったらまた描きなさい」


「あ…はい…ありがとうございます」


そんな気の抜けた返事をするので精一杯だった。

何故ならば僕は二人のことも思い出せないのだから。


そこから二人は病室を抜けて…

代わる代わるに男女の友人らしき人物たちが僕の病室を訪れた。

幾人もの友人を僕は誰一人として思い出せない。

そんな自分を少しだけ呪ったし責めていた。

何故大切な友人を思い出せないのか。

そんな自分を少し恥じていた。


夕方が過ぎていき面会時間ももう限られたところだった。

不意に病室のドアが開かれて…。


眼の前の美しい女性を見て僕は理解する。

この女性が僕の妻で愛する人なのだろうと。


「真名さん?」


疑問形で過去を思い出せたわけではない。

ただ自らの直感が彼女を妻だと思っている。

大切な愛すべき人だと理解しているのだ。


「あれ?記憶喪失だったんじゃ…?」


真名は首を傾げて苦笑しているようだった。


「そうですけど。でも貴女が僕の妻である真名さんだと理解できます」


「ふふっ。それは嬉しいけど。どうして?」


「恥ずかしながら直感です」


「そっかそっか。無理させすぎちゃったね。ごめん」


「どうして謝るんですか?」


「私が妊娠している時に何もかも任せきりだったから…

疲れちゃったんだと思う。

私の心配事に付き合ってくれたり…

家事を任せていたり…

亮平くんにだって作業があるのにね…」


「それは当然ですよね?夫婦なんですから」


「そうだけど…亮平くんの異変には気付いていたつもりだったんだよ。

話をしていてもチグハグになることが多かったし…

脳疲労を感じるって珍しく言っていたこともあったんだ。

あまり疲れていてもそれを表に出す人じゃなかったのに…

私がもっと早く気付いていたら記憶喪失や精神乖離にまでならずに済んだと思う。

だから…ごめんなさい」


「なんでですか。謝らないでくださいよ。

僕はまた真名さんをここから新たに好きになれるんだと思うとワクワクしますよ」


「新しい亮平くん?」


「そうです。きっと今の僕の人格はいつか消滅するんでしょう。

記憶喪失や精神乖離とはそういうものだと聞きました。

だから新しい僕です。

僕はもう一度改めて真名さんを好きになれるってことでしょう?

同じ人と新鮮な気持ちで恋愛が出来るんだとプラスに捉えたいです」


「そっか…亮平くんの方がプラス思考なんだね…

私もそう捉えるようにする。

きっといつか元の亮平くんも戻ってくるのよね?」


「えぇ。絶対に戻ってくるはずです。

今は疲れて心の中で眠っているのでしょう。

無理に起こしてもまた乖離してしまいます。

だから十分に休んでもらって。

その間は僕で我慢してください」


「我慢って…亮平くんには変わりないでしょ?」


「それはそうですね」


そこで僕らはお互いに微笑み合うと右手で握手を交わした。


「まずはここからね」


真名は僕に美しい笑みを浮かべて向けてくる。

その眩しい笑顔に完全にやられながら僕は平静さ保った表情で頷く。


「退院はもう暫く掛かるの?」


「そうですね。検査の後に退院です」


「分かった。じゃあ退院日が決まったら迎えに来るから」


「お願いします」


そうして僕らは病室で別れる。


後日。

僕は様々な検査を受けたのだが身体に異常は無かった。

だがしかし…

脳内の密度が濃いらしかった。

頭にぎっしりと脳が詰まっているとレントゲンを観ながら説明を受ける。

しかしながらそれにより何かしらの病気が発見されたわけではない。

僕は退院が決まり久しぶりに自宅に帰れるのであった。



真名の迎えで帰宅すると僕は家の中を隈なく眺める。


「これ…僕が描いたの?」


その質問に真名は嬉しそうに微笑んで頷く。


「そっか…だから…絵を描かないとって思ったんだ…」


そんな独り言が口から漏れる。


「我が子を見ないの?」


真名の言葉に驚いたような表情を浮かべた僕は彼女の後をついて行く。


「静だよ。私と亮平くんの子供」


「おぉ〜!可愛いなぁ」


「でしょ?どっちに似たと思う?」


「それは…真名さんに似て欲しいな」


「どうして?」


「ん?美しい見た目のほうが将来得することが多い」


「私が美しいってこと?」


「そう言っているよ」


そんな言葉を口にすると真名はくすぐったそうに微笑んでいた。


「亮平くんが入院している間に野田家の面々と多田家の面々が訪れたよ」


僕は不意に出てきた名字に首を傾げると彼女は説明をしてくれる。

それに頷いて応えると少しずつ関係性を理解していく。


「お父様もお祖父様も本当に嬉しそうに静のことを抱いていて…

亮平くんにもその姿を見せたくて…動画撮っておいたんだ」


「そうなの?じゃあ見たいな」


そうして僕と真名は静を可愛がる多田家の面々。

野田家の面々を目にすることになった。


「野田のお母様はあまり心配していなかったみたい。

咲ちゃんに容態を聞いても…


疲れて倒れただけでしょ?

記憶を失った?

そのうち思い出すわよ。

家族のことまで忘れるほど疲れているのなら…

今は会いに行かないわよ。


そう仰っていたらしいわよ。

心が強いお母様だね」


「あぁ…なんとなく僕のお母さんって感じがするな…」


そんな言葉が何故か口から漏れて僕は苦笑する。


「とりあえず動画の続きを見せてよ」


そうして僕らの少しだけ変わってしまった日常は再び始まろうとしていたのであった。

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