第2話良妻過ぎる真名

二十歳を迎えて数日が経過していたが…

僕の日常にこれと言った大きな変化は無い。

あるとすれば真名の晩酌に付き合うようになったぐらいだろうか。

まだ僕はハマれるほどお酒を好きになれていない。

本当に嗜む程度だし真名のように赤ワインを飲めるわけでもない。

甘いジュースのようなチューハイとビールをコップ一杯分飲む程度だ。

しかしながら真名は晩酌に付き合うと嬉しそうな表情を浮かべてくれる。

その表情を見るのが好きで僕も毎日のように晩酌に付き合っていた。

日常生活で変わった所はこの一点に限るだろう。

朝目覚めたら歯を磨いて顔を洗って寝癖を整えて…。

朝食を頂いたらすぐに作業着に着替えて作業部屋に籠もった。

深い集中であるゾーンを自在に扱えるようになった僕は一日の大半を作業時間に費やしていた。

本日もそんな一日だった。



深く深い集中に入った僕は筆を執って描きかけの絵画の続きに取り掛かっていた。

葛之葉雫のようにに丁寧に…

深瀬キキのように奇抜的なアイディアを組み込みながら…

慶秋と同じようにプロ意識を忘れないように細部までこだわりを持って…

香川初に教わった色使いを意識しながら…

白根桃のようにやる気に満ちたパッションも忘れずに…

憎かった彼女彼らに傷付けられた心のトラウマを忘れぬように糧にして…

全ての人から貰った善意や悪意の全てを自らの血肉にして…

僕は本日も自らの心を赤裸々に暴露するようにしてキャンバスに筆を走らせるのであった。



数時間の作業中に僕は新たな気付きのようなものに触れていた。

ガっと強く深く集中して作業している自分を俯瞰するような視線を手に入れかけている。

作業している自分を第三者視点で俯瞰的に観ている自分の視線に気付く。

酷く気持ちの悪い視線で目が四つになったような気分だった。

キャンバスを見つめている僕とそれを俯瞰視している僕の目線。

何故僕の脳はこの様なものを手に入れようとしているのだろうか。

少しだけ気分が悪い。

体調的な話だ。

常人の倍はある視線の数に酔ってしまいそうだった。

しかしながら強く集中している僕は気にせずに作業に没頭していた。

俯瞰視している僕にはもう一つ脳があるみたいな錯覚すら覚える。


「ここは…こうした方が良くないか?」


「ここの色使いはこっちの方が良いだろ?」


「もっと丁寧に。気が抜けている」


「深く集中しろ。周りの環境音に惑わされるな」


「キャンバスだけに集中!」


沢山の助言のような雑音の様な言葉が僕の本体である脳に流れ込んでくる。

それに耳を傾けつつ…

言われた通りキャンバスだけに集中していく。

そんな奇妙な感覚がどれぐらい続いただろうか。

いつもよりも一時間早くゾーンは切れてしまった。

そもそもの話。

ゾーンとは数十分程しか入れないものらしい。

けれど僕は昔から集中が続くタイプだったためゾーンにも長く入れるのだろう。

そう自らを分析していた。

筆を置いた僕の全身は汗でビシャビシャだった。

夏でもないのに暑さを感じていた僕はシャワーを浴びに風呂場へと向かう。

真名はまだ仕事から帰ってきていない。

僕の絵画もまだ完成とは言えない。

もう少しだけ手直しする必要がある。

そんな事を感じながら僕はシャワーで汗を流して全身を洗うのであった。



風呂場から出た僕は真名が帰宅してくるまでキッチンに立っていた。

本格的な食事を作るにはスキルが足りない僕でもサラダを用意することぐらいは出来るはず。

そんな事を思って冷蔵庫の野菜室を開ける。

二つのサラダボウルにきれいに盛り付けしていく。

いつも真名が用意してくれるものと遜色ない出来栄えになったと微笑んでいると…。


「ただいま。何ニヤニヤしているの?」


丁度帰宅してきた真名と目が合って僕は気まずい表情を浮かべた。


「あ…サラダ用意してくれていたんだ」


「そうなんです。真名さんの苦労を一つでも取り除けたらって思って…」


「それは嬉しいわね。本当にありがとう。助かったよ」


「いえいえ。これぐらいなら…」


「じゃあ夕飯作りに取り掛かるわね」


「はい。何か手伝いますよ」


「本当に?じゃあ一緒にやろう」


「はい。ご指導よろしくお願いします」


「堅苦しい挨拶は無しよ」


そんな半分ふざけた僕らのやり取りで二人の間の気まずさのようなものは一瞬にして解消される。

そこから僕らはキッチンに立つと夕飯作りに取り掛かるのであった。



真名に教えを請いながら夕飯作りに専念する時間が一時間ほど経過していた。

いつもだったら真名が食事を配膳する頃合いだっただろう。

けれど本日は僕に教えながらな為、かなり時間をオーバーしていた。

しかしながら真名はそれに嫌な顔一つ浮かべずに僕に丁寧に教えてくれる。

僕は真名の為に料理を覚えたいと思っていたし、真名は僕に何かを教えることに生き甲斐や快感のようなものを覚えていたのかもしれない。

そして僕は料理の工程からも芸術に対して何かしらのヒントを得られるような気がしていた。

丁寧な作業が過ぎていくといつもより三十分ほど遅れて夕食の時間となる。


「ちゃんと出来たね。言ったことしっかりと一回で出来るなんて…凄いね」


真名は感激するように表情を崩すと褒め言葉を僕に送ってくる。


「いえいえ。多分絵を描いているからだと思います。言われたことを一回で出来るように心がけていましたし…」


「そう言えば…絵を習ったのはいつ頃から?」


「そうですね。物心ついた時には絵を描いていました。もちろん幼稚園児の頃から絵画教室に通っていましたよ」


「そうなんだ。どれぐらいまで通っていたの?」


「中学生までですかね。高校からは部活の顧問に教えを請うていました」


「そっかそっか。昔から上手だったの?」


「どうでしょう。少なくとも芸大入学前の僕に光るものがあったとは思えないですね」


「そんなことないよ。だって多田家が絶賛するぐらいだったんだから。きっと光るものがあったんだと思うよ」


「そうだったら嬉しいですけど。でも僕は芸大に首席合格したわけではないですからね」


「でも首席で卒業したでしょ?」


「そうなんですかね?皆より先に卒業扱いにしてもらっただけだと思いますけど」


「そんなわけ無いでしょ。特別に卒業扱いにしていいほど実力があるからでしょ?」


「多田になったからじゃないですか?」


僕の悲観的な意見に真名は真剣な表情を浮かべて釘を差すような言葉を口にする。


「あのね。自分の事を悲観するのはやめて。少なくとも多田の人間の前では。

だってそうでしょ?

多田は亮平くんの将来性を見越して私との交際や結婚を許可してくれたんだよ?

そんな亮平くんが及び腰だって知ったら失望される。


自分の価値を自ら下げる行為は美徳でも何でも無いと思う。

自分には価値があるんだって周囲に知らせないと。


これから亮平くんの個展を開こうとしているんだよ?

弱気な人間だと思われたら足を掬われる。


ちゃんと心を強く持って自分に自信を持って。

そうじゃないと個展は取りやめにしてもらうよ?


多田に損害があったら…

きっとお祖父様もお父様も失望する。


だから亮平くんはいつでも強気な態度でいて。

偉そうにしろってことじゃないの。

ちゃんと自らの作品に自信を持って。

自らの実力をちゃんと誇って証明して。


私の話分かってくれる?」


真名からの説教のような言葉を受けて僕は自らを省みる。

必要のない謙遜をしていたと今になると思える。

それが美徳だと勘違いしていた自分の鼻を完璧に折られた気分だった。

僕には良妻過ぎる真名に感謝の念を抱くと深く頭を下げる。


「申し訳ありません。今後は悲観的でネガティブな発言を控えます。

自分の心を強くするように努めます」


その言葉に真名はニコッと破顔すると僕の頭を軽く撫でた。


「まぁでも私の前でポロッと本音が漏れるのは良いわよ。


多田家でその様な発言をしないでね?

って忠告だから。


分かって?」


それに深く頷くと真名は手を広げてテーブルの上の食事に目を向ける。


「今日の夕食はいつもより美味しそう。亮平くんが手伝ってくれたからだよ」


何処までも僕の気力を満たしてくれる真名に深く感激すると僕もニコッと微笑んだ。


「今日は二人で作ったからね。いつも美味しいけど。それ以上に美味しいと嬉しいな」


僕も悲観的でネガティブな思考を捨て去ることを決めるとここから毎日、自分のことを全肯定するポジティブ思考に切り替えることを決めたのであった。



その思考の御蔭か…。

僕の絵には新たな閃きがやってくる。

いつもよりも筆の乗りが良い。

何処までもいつまでも描いていられるようなふわふわとした気分に包まれながら…

僕は本日もキャンバスに向かうのであった。



次話。

多田家の人間と個展の打ち合わせをすることになる。

そろそろ亮平の絵画が世間の目に触れ渡ることになることをまだ誰も知りはしないのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る