第11話先輩からの挑戦状。これを越えない限り…
いくつかの作品が完成した七月上旬のことだった。
自宅のアトリエで僕は久しぶりに真名をモデルにして絵を描いていた。
休日を利用したり気分が乗っていたり筆の進みの良い日を利用して真名の絵を描き続けていた。
しかしながら何度描いても完全な表現に達しない。
僕の目に映る真名の美しさとはこの程度ではないのだ。
では何が欠けているのだろうか。
そんな事を思考しながらの日々だった。
目を覚ました僕は夢の中でも真名をどの様に描くべきかを悩んでいた。
どうしても答えが見当たらない。
久しぶりに感じる壁の高さに僕はふぅと一つ深呼吸をした。
今までの経験からしてこの壁を自らの感性だけで飛び越えるのは非常に困難なことを知っている。
悶々と悩んでいたが誰に何のアドバイスをや気付きを頂ければ良いというのだろうか。
自らの感性を疑うわけではない。
間違った道を進んだとも思っていない。
僕は今回の壁や殻をどの様にして破れば良いのだろうか。
ここ最近、朝目覚めてから夢の中でも真名の絵について考えていた。
どうしても前回描いた真名の絵よりも洗練された物を作り上げたい。
以前よりも優れたものを作り上げたいと思うのは何も芸術家だけではないだろう。
いつでも高みを目指そうと思う向上心が技を卓越した域まで連れて行ってくれるはずなのだ。
もちろん出会いや縁や運も絡み合って僕らは高みへと駆け上っていくはずなのだ。
僕は芸大生になって信じられないほどのスピードで順調に進んでいるつもりだ。
だがしかし…。
眼の前の壁の高さは明らかに今まで以上に思えてならない。
悩ましい日々を送る中で懐かしい人物からチャットが届く。
「久しぶりだね。
今、野田くんが住んでいる辺りにいるんだけど…。
キキちゃんから課題についての話を聞いたよ。
それに何やら最近悩んでいるんだって?
何に悩んでいるのか誰にも言ってないそうじゃないか。
もしも僕で良かったら話を聞かせて欲しい。
僕も野田くんの役に立ちたいんだ。
今まで受けた恩があるし…
友人だろ?
たまには頼ってくれよ」
久しぶりの人物である雑賀慶秋からのチャットに僕は思わず破顔した。
返事を送ると僕らは久しぶりの再会を果たすのであった。
「雑賀先輩。お久しぶりです。プロになってどうですか?」
雑賀慶秋を初めてアトリエである自宅に招くとアイスコーヒーを用意した。
「ありがとう。もう夏だね。仕事の方は順調だよ。
僕らが初めて集団制作をした時を思い出すよ。
初めから好印象だった野田くんだったけど…
こうして家に招いてくれるまでの仲になれたって思って良いのかい?」
「もちろんですよ。以前からお招きしたいと思っていたんですが…
タイミングを逃していました。
遅くなって申し訳ありません」
「良いって。気にしないで。
それよりも何に悩んでいるか教えてほしいな」
「じゃあ観てもらったほうが早いと思うので…」
そうして僕は作業室である一室に雑賀慶秋を招くと真名の絵を見せる。
「うん…行き詰まっているってことでいいの?」
それにコクリと頷くと雑賀慶秋は苦笑のような微笑みを浮かべると思考をしているようで絵を引きで観たり近くで観たりを繰り返していた。
「う〜ん。僕には何に行き詰まっているのか…
正直な話をするとわからない。
この絵は明らかに洗練された物だし…
何よりも僕は野田くんの恋人を見たのはほんの一瞬だけなんだ。
しっかりと見たことが無いから…
僕にははっきりとしたアドバイスが出来ない…
申し訳ない。
今回も力になれそうにない…」
雑賀慶秋は明らかに肩を落としていて残念そうな表情を浮かべている。
しかしながら僕は友人が残念がる姿など見たくなくて提案を口にしていた。
「もし良かったら…会ってみます?
今日は夜勤明けでそろそろ帰ってくるんですよ。
連絡入れて許可を取れたら会ってみますか?」
「え?良いのかい?
僕を紹介してくれるってこと?」
「はい。初めて心から友人だと思える人を恋人に紹介したいと思うのはごく自然な考えじゃないですか」
「僕を友人だと思ってくれているんだね。嬉しいよ」
「当たり前じゃないですか。それで…どうします?」
「うん。会ってみたいな。野田くんが心から惚れている恋人がどんな人か…
僕もこの目でしっかりと見てみたい」
「わかりました。では連絡入れておきますね」
そうして僕は真名に連絡を入れると了承の返事が来て僕らはその時を待つのであった。
勤務を終えて帰宅してきた真名はリビングに顔を出すと雑賀慶秋に挨拶を交わしていた。
「初めまして。亮平くんの恋人の多田真名って言います。
亮平くんからお話は聞いております。
初めて出来た友人だと嬉しそうに語っていたことを今でも鮮明に覚えています。
ですが亮平くんは今まで誰も自宅に招かなかったんです。
少しだけ心配していたのですが…
初めての来客に私も喜びを覚えます」
雑賀慶秋は椅子から立ち上がると深く頭を下げて返事をする。
「初めまして。芸大祭の時に一瞬だけ見かけたのですが…
二人があまりにも良い雰囲気だったので話しかけられませんでした。
野田くんの恋人は芸大でも有名で…
とてつもない美女だって噂が回っていたんですよ。
今、目の当たりにして納得する思いです。
やっと分かった気分ですよ。
野田くんが芸大の女生徒に全く見向きもしない理由が…」
二人は少しだけぎこちない挨拶を交わすと対面するように椅子に腰掛けた。
僕は真名のテーブルの前にアイスコーヒーを置くと隣に腰掛ける。
「亮平くんはキャンパス内でもやっぱりモテていたんですか?」
真名は怖いもの見たさに切り込んだ質問を繰り広げると雑賀慶秋は申し訳無さそうに苦笑した。
「それ聞いて大丈夫ですか?」
雑賀慶秋の反応で全てを理解したであろう真名は同じ様な表情を浮かべていた。
「やっぱりそうですよね。聞かなくても分かっていたんですが…」
「あ…でも安心してください。野田くんはまるで他の女性に興味を示していないので」
「でも…元恋人の裸婦画を描きたいって言ってきて…実際に描いたんですよ…
私はあの時…凄く不安だったんです」
「え…?野田くん…どういうこと?」
雑賀慶秋は僕に厳しい視線を送ると咎めるような表情を浮かべていた。
「えっと…言い訳のしようが無いんですが…
レベルアップをするために無謀や無茶な行動に出てしまいました…
自らの研鑽を理由に恋人の気持ちを考えもせずに軽率な行動に出たと思います。
裸婦画を描くにして元恋人である必要は無かったはずなんです…
けれど僕は…」
言い訳や許しを請うような言葉を口にしていると真名は薄く微笑んで背中を擦ってくれる。
「雑賀さんは亮平くんの過去を知っていますか?」
「過去?聞いたこと無いですね」
「ではこの記事はご存知ですか?」
そう言うと真名はスマホを雑賀慶秋に手渡す。
彼はそれを目にしてウンウンと頷いていた。
「知っていますよ。当時は毎日のようにワイドショーなんかで取り扱われていましたから。
それと野田くんの過去に何が関係があると?」
「はい。この被害者の男子生徒は亮平くんなんですよ」
「え?初耳です…」
「私なりの解釈ですが恋人なので分かってあげたいんです。
きっと過去の傷やトラウマを払拭するのに亮平くんにとっては必要な行動だったんだって思っています。
それにやましいことはしていないと言ってくれました。
嘘は無いと思っています。
私は確かにモヤモヤや不安を抱えていました。
でもなんやかんやで許してしまったんです。
この件で亮平くんの中にも芸術家としての狂気に似た感情があることを私は知れました。
ただ亮平くんは元恋人だろうと芸大の女生徒だろうと…
例えその人達を美しいと思っていたとしても…
私以外には好意を向けていないと信じています。
初めて誰かにこの事を話せて心が楽になりました。
私の家族でさえ亮平くんの行動に違和感を覚えていました。
理解を示してくれたのは芸術家を分かっているお祖父様だけでした。
実はある日、お祖父様に呼び出されまして…」
真名の唐突な告白に僕は驚いて思わず口を挟んでしまう。
「え?お祖父様に呼び出されていたの?」
「うん。黙っていてごめんね?
でも今から話すから…許して」
そこから真名はある日の出来事を僕らに言って聞かせた。
「亮平はまだ十代の男性で血気盛んな年頃なんだ。
何もかも正しい行動を取れる人間など居ないだろ。
芸術家だからどうこうと言う話ではなく。
一つや二つの過ちは生きていれば誰にだってある。
生まれてから誰とも関わらないで生きていく人間など居ないだろ。
極端な話をすれば他人と関わると言うことは過ちを犯してしまう可能性があるのと同義だ。
その言葉に私は確かにとも思ったのです。
そしてお祖父様は続けて私に言いました。
亮平は自分で思っている様な聖人君子ではない。
成人したての男性と付き合うと言うことは覚悟が必要だ。
この先も間違いを犯すかもしれない。
今回のことで嫌になったのであれば別れるという選択もありだろう。
でも一度ぐらい許してみるのも年上の恋人としての甲斐性ではないのか?
絶対に許せないと思うのであれば…
もう縁を切れ。
そんな気が無いのであれば今回だけは許してやれ。
少しだけ強引で極端な意見を口にするお祖父様が珍しくて…
きっと多田家の為になるだろうと思いましたし…
私も亮平くんをそんなに責める気は無かったので許したんです。
ただ時々チクッと言いたくなる時もあって…
心の底から愛しているけど…
同時に言い様がない程に憎らしく思うときもあるんですよ。
こんなことを今までは本人に言えなかったので…
今日初めて誰かに話せてよかったです。
聞いてくれてありがとうございました」
真名の当時の本心を初めて耳にして僕の中の何かが弾け飛んだような気がした。
今にも爆発しそうな自らのアイディアや真名と言う人物の実像が見えたような気がして喜びにも似た感情を抱いていた。
しかしながらまずはしっかりとした謝罪。
そう思って深く頭を下げると謝罪を口にする。
「本当に申し訳ありませんでした。
当時は自らの研鑽を理由に暴走していたと思います。
許してくださいとは言いませんが…
謝罪を言わせてください。
元恋人が僕を傷付けたように…
僕自身が真名さんの心を傷付けてしまい申し訳ありませんでした」
「もう良いわよ。
許しているから…
でも時々憎たらしくなってチクッと言ったとしても…
私のことも許してね?」
「当然です。僕は真名さんに何をされても責めたり出来ません。
恩人ですし愛おしい恋人です。
それなのに裏切るような恩を仇で返すような行為をした僕を許してくれてありがとうございます」
真名は微笑んで頷くと雑賀慶秋は最後に僕の目を真っ直ぐに見つめると口を開く。
「野田くん。自分を大事にしてくれる人を裏切るような真似はもうしないで。
自分の研鑽のためであったとしても…
何かで迷ったり立ち止まったりしたら僕を頼ってよ。
何度も言っているだろ?
僕らは友人だって…
何でも話してほしいと思っているんだよ。
僕に何の相談もなく元恋人の裸婦画に踏み切ったのは…
少しだけ残念だよ。
でも恋人が許してくれたからここで話しは終わりなんだろうけど…
僕は野田くんが今描いている恋人の絵を今までで一番の力作にしないと許さない。
野田くんなら出来るだろ?
僕を失望させないよな?」
雑賀慶秋の厳しくも挑戦的な期待の視線に応えるように僕は深く頷く。
思わず僕は作業室に駆け足で向かうと筆を取った。
雑賀慶秋は僕の後を追ってきて真名はリビングに残っていた。
そこから僕は深い集中に入ると高く感じていた壁を一飛びで越える勢いで飛び立った。
作品が完成したのは夕方の十八時頃だった。
筆を置いてふぅと息を吐くと後ろの椅子には雑賀慶秋の姿がまだ存在している。
「雑賀先輩…最後まで見届けてくれたんですか?」
「当然だよ。僕はあれだけ啖呵を切ったんだからね。
最後まで見届けないといけないと思ったんだ。
それにしても…凄い作品だね…
納得いった…野田くんが何に躓いていたのか…
恋人を見てやっと理解できたよ。
それで?これは今までで一番の力作?」
「はい。確実に一番の力作です」
「良かった。じゃあ僕はこれで失礼するよ」
雑賀慶秋はそう言うと作業室を出ていく。
僕は彼を追いかけるように作業室を出て…。
「私の手作りで良ければ…
夕飯ご一緒しませんか?
亮平くんの初めての来客です。
しっかりとしたおもてなしをさせてください。
それに…
後ろで情けない顔をしている亮平くんがいることですし…」
真名は最後の言葉を誂うようにして僕に向ける。
雑賀慶秋は後ろを振り返ると僕と視線が交わる。
「雑賀先輩。良かったらもう少し話していきませんか?
夕飯でも一緒に食べながら…」
「うん…じゃあお言葉に甘えさせて貰って…」
そうして僕と真名と雑賀慶秋の三人で真名の作った夕食を頂くのであった。
雑賀慶秋の最近の様子を耳にしながら僕らは他愛のない会話を繰り広げる。
彼は二十時過ぎに帰宅していく。
残された僕らは惹かれ合うようにしっかりと愛を確かめ合う。
夜が明けるまで相手を想い合う行為が続いていき…
本日の出来事をキッカケに僕らの絆はより一層深まっていくのであった。
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