第9話超集中の結果…
GWを経て真名の愛情をたっぷりにチャージした僕の表現力は明らかに変化していた。
以前よりも豊かになっている事を自分自身でも理解できる。
筆が明らかに進みいつまでも集中が途切れない。
「…だ…野田!」
深瀬キキの僕を呼ぶ声が突然耳に飛び込んできて僕はハッとする。
普段ならマルチタスクの一言で話しかけられてもすぐに気付くのだが…。
今は信じられないほど深く集中していたため気付くのが遅れた。
「すみません。深くまで入り込んでいました」
「凄い集中だったものね…」
「それで?何でしょう?」
「何でしょうって…」
深瀬キキは呆れたように嘆息すると廊下の方を指さした。
そこには今まさに作業室に入室しようとしている葛之葉雫の姿があった。
「おはようございます。皆さん久しぶりです。って見ない顔もありますね」
葛之葉雫は白根桃の近くまで歩いていくと挨拶を交わしていた。
「三年の葛之葉雫です。よろしくおねがいします」
「はい。一年の白根桃って言います」
「うんうん。それで白根さんはここで何をしているの?」
「はい。実は…」
そうして彼女は一年生の課題内容を口にして事情を説明しているようだった。
葛之葉雫はそれを耳にして呆れたように嘆息して首を左右に振る。
「まぁ…野田くんだからね…仕方ないか」
葛之葉雫はそんな言葉を口にすると早速作業に入る準備を整えていた。
「雫。休暇はどうだった?」
「そうですね。旦那と仲良く過ごしたり…たまに喧嘩したり。
そんななんでもない日常を送れました」
「そう。良かったわね。手は動かしていた?」
「全然。これから取り戻さないといけませんね。本気モードです」
「そうね。頑張りましょう」
「二人は何作目ですか?」
「えっとね…私達も野田の提案で結構休んだんだよね。だからまだ一作目だよ。仕上げ作業に入っているところ」
「なるほど。去年は大変でしたもんね」
「そうそう。今年はマイペースに進めていこうって。そんな話」
「わかりました。休めるときはしっかり休むってことですね」
「そういうこと。とりあえず私の伝手を辿って買いたいって人を集めているから。休みつつしっかりと課題を合格しましょう」
「了解です」
そこで会話は一時中断すると僕らは再び作業に入った。
葛之葉雫はリップクリームを軽く塗ると真っ白なキャンバスに向かい合っていた。
彼女のルーティンはお分かりの通り作業前にリップクリームを塗ることだった。
そんな話は置いておくとして…。
僕は再び深い集中に潜っていくと筆を進めていく。
普段ならマルチタスクな為、外野の声が耳に飛び込んでくる。
しかしながら現在は何の音も聞こえない。
いいや、それでは語弊があるだろう。
自らの鼓動の音や呼吸の音やつばを飲み込む音。
そんなものしか聞こえてこない。
まるで僕しかいない世界で一人キャンバスに向き合い筆を動かしているようだった。
どれだけの時間が経過した頃だっただろうか。
僕は一作目を完成させたため筆を置いた。
その瞬間に集中が途切れてふぅと息を吐く。
「野田…あんた…どうなってんの…」
「野田くん…見ない内にありえない速度で成長したんだね…」
「これは…凄まじいですね…」
気付くと僕以外の三人は僕の絵に視線が釘付けだった。
背後に立っておりまじまじと絵を眺めている。
「それにしても話しかけられない雰囲気だったわね」
「ですね。少し怖いぐらいでした」
「先輩…汗凄いですよ」
「え…あ…何か暑いと思っていたんだ。ちょっと涼んでくる」
そんな言葉を残すと僕は財布を持って自販機のある廊下に向かっていた。
アイスコーヒーを一本購入すると中庭のベンチに腰掛けて涼んでいた。
ポケットに入っていたスマホを取り出すと時刻を確認した。
「十四時…五時間の集中…あの深くまで入る感覚は何だったんだ…」
自らの変化に動揺するように悩んでいると厳しいと評判の教授はいつの間にかベンチの隣に腰掛けていた。
悩み事をしていたため気付くことが出来なかったのだろう。
「こんにちは。悩み事ですか?」
「あ…はい。自分の集中力が異常な気がしてしまって…」
「というと?」
「以前から集中力が持続するタイプだとは思っていたんですけど…
それでもマルチタスクなので外野の声も聞こえていたんです。
けれど…今日は自らが放つ音しか聞こえないほど集中していたんです。
変な話で申し訳ありません」
「いえいえ。何も変な話では無いですよ。
野田くんはゾーンをご存知ですか?」
「よくスポーツ選手の言うやつですか?」
「はい。ですが勘違いしないでください。
ゾーンはスポーツ選手の特権ではないのですよ。
勉強を頑張る学生にも絵を描く学生にもあることなのです。
集中よりも上の集中。
限界以上の力を引き出すための超集中。
どの世界にもある異常な集中をゾーンと言うのだと私は思います。
野田くんはきっとゾーンに入ることが出来たのでしょう。
描き終わった時に異常に疲れていたでしょう。
異常に汗をかいたりしていませんでしたか?
慣れるまでは大変だと思いますが…
それは誰にでも出来るとこではありません。
その感覚を手放さないように。
神様からのギフトやチケットを手放さずにいつまでも大事に握っていてくださいね」
「ゾーンですか…いつも有り難いお言葉を掛けてくださいまして…」
そんな言葉を口にして隣を確認すると教授の姿は既にそこには存在していなかった。
「いつも唐突な人だな…」
そんな言葉を口にするとアイスコーヒーをゴクゴクと飲み干してふぅと息を吐く。
汗も引いてきたのでベンチから立ち上がると作業部屋に戻っていくのであった。
作業部屋に戻ると彼女らは僕の絵に未だに釘付けになっていて少しだけ気まずく感じてしまう。
「とにかく私達も負けないように頑張りましょう」
「そうですね。遅れを取っている分…私もやります」
「先輩はやっぱり偉大です。尊敬します」
そんな言葉を各々が口にして作業に戻るようだった。
僕は荷物をまとめて帰宅の準備をしていた。
「この後は恋人と過ごすの?」
深瀬キキは僕の様子を確認して残念そうに口を開く。
「はい。一作出来たので…とりあえず今日は帰ります」
「仲良しで良いわね。憧れている人達からしたら悲報だろうけど…」
葛之葉雫が途中で茶々を入れると誂うような視線を深瀬キキに送っていた。
「ちょっと雫!あんた余計なこと言わないで手を動かしなさい!」
「分かっていますよ。先輩も振られたって認めたくないんですよね」
「うるさい!まだ終わってないから!」
「はいはい。終わっているんだけどなぁ〜」
「雫!」
「冗談ですよ。早く仕上げちゃってくださいよ」
「もう…!この怒りをキャンバスにぶつけるしか無いわね!」
「その調子ですよ」
二人は仲の良い会話を繰り広げると置いてけぼりにされていた白根桃はキョトンとした表情を浮かべていた。
「大丈夫。普段通りだから」
「そうなんですね…急に喧嘩が始まったかと思いました」
「喧嘩なんてしないよ。二人は子供じゃないからね」
「ですか…」
「うん。じゃあ僕は帰るから。白根さんのスケジュールをバラしてしまってごめんだけど…」
「大丈夫です。また後日」
「うん。じゃあ」
そうして僕は作業部屋を出るとその足でアトリエである自宅まで帰宅するのであった。
「それで…ゾーンだって言われたんだよ」
帰宅して家事を進めていると十六時頃に真名は帰宅してくる。
僕は本日の出来事を言って聞かせると真名はウンウンと話を聞いていた。
「なるほどね。執刀医も難しい手術でゾーンに入るって話を聞いたことあるよ」
「お医者さんもあるんだね。本当に何処の世界にもあるんだ」
「そうだと思うよ。それこそプロゲーマーとかもそうじゃない?」
「というと?」
「だって世界大会とかの緊張の舞台で多額な賞金がかかっている中で平常心ではいられないでしょ?
慣れている人もいるだろうけどさ…
やっぱりゾーンに入れる人の方が勝率も高そうじゃない?」
「なるほど。それにしても真名さんからゲームの話が出てくるとは思いませんでした」
「ははっ。そうだね。今日の患者さんでプロゲーマーを目指している人の話を聞いたから」
「そっかそっか。それで調べたって感じ?」
「その通り。凄い世界があるんだなって思ったよ」
「本当にね。僕もそうだけど…好きなことを仕事に出来るのは嬉しいことだよ」
「そうだろうけど…嫌になったりしない?」
「どうして?」
「だって趣味や好きなことだったものが仕事になるんだよ?
嫌なことだってやらないといけない場面は来るでしょ?」
「そうかもしれないですけど…僕は自分が描きたいものしか描かないです。
それで生きていけるような画家になるって決めているので」
「すごい自信と決意だね。まぁ多田がついているから絶対に叶うんだけどね」
「ありがとうございます。いつも助かっています」
「いえいえ。今日の夕飯は何にしようか」
「そうですね…」
そうして僕らは夕飯の話をしながら車に乗り込んだ。
そのまま最寄りのスーパーに向かうと食材を買い込む。
帰宅して二人並んで料理をする。
本日も僕らは仲睦まじく二人きりの夜を過ごしていくのであった。
「野田に置いていかれるのは…勘弁ね。
お荷物だなんて思われたくない」
「野田くんっていう後輩がいるんだけど…今日凄い絵を描いたのよ…」
「先輩ですごい人がいて…私は後一年であの領域にいけると思えないの…」
深瀬キキは独り言を漏らしていた。
葛之葉雫は旦那に慰めてもらうようにして弱音を吐いた。
白根桃は母親に情けない言葉を口にして泣き言を聞いてもらっていた。
野田亮平の異常な成長速度が原因で裏で密かに絶望感を感じる幾人もの芸大生がいることを彼は知りもしなかった…。
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