第6話初めての後輩に懐かしい顔

「油絵科二年生の野田亮平先輩ですよね?」


不意に作業室前の廊下で声を掛けられた僕は一度足を止める。


「そうだけど…君は?」


眼の前には背の低い中性的な顔立ちの女性が僕のことを恨めしい表情で眺めていた。


「はい。今年首席で合格した白根桃しらねももと言います。油絵科です」


「そう。僕らの後輩か。それで?そんな白根さんが僕に何の用?」


「はい。先輩は今年の一年生の課題をご存知ですか?」


「いいや。僕らには届いていないよ」


「先輩は特別課題を与えられているんですよね?」


「そうだね。それは知っているんだ」


「はい。教授から伺いました。トップ層は特別課題を言い渡されたと…

何も文句を言われたくないのであれば励めと…」


「そうか。それは大変だね。僕らは運が良かっただけでもあるから…」


「そんなこと無いです。先輩が描いた裸婦画…拝見させていただきました」


「あぁ…教授に譲ったやつね。恥ずかしいな」


「なんてこと言うんですか!

あれ程の実力があって…何が恥ずかしいと言うんですか!」


「まぁ…色々とあるんだよ」


「その話しは一旦おいておきましょう。

それでですね…

今年の油絵科一年の課題は尊敬できる人がテーマなんです」


「ふぅ〜ん。それはまた難しい課題だね」


「はい。私は既に描きたい人が決まっているんです」


「ん?そうなの?じゃあ僕には相談?」


「相談と言えば…そうかもしれません」


「というと?」


「あの!良ければ先輩を描かせてください!

私は芸大に入るまで自分が一番の実力者だと思っていたんです!

でも先輩の絵にやられて…

だから私が唯一負けたと思った人物…

尊敬できる先輩をキャンバスに残したいんです!

だめですか…?」


直属の後輩である白根桃の照れくさそうな、けれど一生懸命な提案に僕は何と応えるべきだろうか。

そんな事を悩んでは薄く微笑んだ。

昨年の葛之葉雫の存在のお陰で僕が殻を破れたように…。

僕も彼女の手助けをするべきなのかもしれない。

先輩にしてもらったことは後輩へと返すべきなのだ。

貰ってばかりではいつか痛い目にあう。

後輩にで良いから僕は今まで先輩たちにしてもらってきたことを返そうと決意する。


「もちろん。僕で良ければ。

けれど僕らも課題があるからね。

スケジュールを組むか…

作業中の僕を描くか…

どっちが良い?」


「えっと…先輩達の作業を見学しても良いんですか?」


「別に構わないでしょ。僕らのアイディアをパクろうとしないのであれば…」


そんな言葉を口にして苦笑すると白根桃は慌てたような表情で必死に首を左右に振る。


「パクるだなんて!そんなだいそれたこと考えてもいません!」


「そう?それなら僕らの作業部屋に入る?」


「先輩たちが良いのであれば…」


「じゃあ入って。僕らは作業しているから。適当に描いて良いよ」


「ありがとうございます。ご協力感謝致します」


「良いって良いって」


軽く微笑むと僕らは作業部屋へと入室する。

中では深瀬キキが既に椅子に腰掛けており軽く挨拶を交わす。


「おはよう。廊下での話しは聞こえていたから。

私も一緒に作業するの抵抗ないから。

構わないよ」


「おはようございます。

聞いていたんですね。

後で了承を得ようと思っていたんですが…

丁度良かったです。

それにしても僕らの関係って雑賀先輩と深瀬さんの間柄に似ていると思いませんか?」


「そうね。

私も雑賀様の絵にやられて信者になったようなものだから。

その娘は後輩初の野田信者じゃない?」


「信者って…

高校の頃の僕に後輩部員の存在は無かったので…

新鮮な気持ちです」


「へぇ〜。美術部員が少なかった感じ?」


「はい。僕の通っていた高校は運動部主体でしたので…」


「そうなんだ。じゃあ高校では珍しい存在だったんだ?」


「かもですね。そんな話しは置いておきましょう。

とにかく今日も作業頑張りましょう」


「そうね。雫もそろそろ戻って来るだろうし。

私達も一作ぐらい作り終えておかないとね。

外部の人間に話しは付けておいたから。

Sグループの話をしたら…

買いたいって人が沢山いて…

多分オークション方式になると思う。

一年間で百万ぐらいいける勢いだよ」


「そうですか。僕らはとにかく作品を沢山作ることですね」


「そうそう。雫は休暇にも飽きてきたみたいで…

早くキャンパスに戻りたいって言っていたよ」


「そうなんですね。もう少し休んでも良いと思いますけど…」


「休みすぎても腕が鈍るからね」


「ですね…戻ってきたら休暇中の話でも聞きましょう」


「そうね。じゃあ今日も頑張りましょう」


そうして僕と深瀬キキの二人きりの空間に白根桃という一年生の後輩が加わるのであった。



作業の間、僕らは殆ど無言の状態だった。

深瀬キキはワイヤレスイヤホンを耳に装着して集中している。

以前、聞いた話によるとテンションが上がる音楽を聴いているようだ。

白根桃は作業に入る前に入念にストレッチをしていたし、僕は僕で描く前に以前の作品群を眺めるルーティンがあった。

全員がルーティンなるものがあるようで深瀬キキはポテンシャルを保つように休憩に入るまでイヤホンを外すことはない。

白根桃は上手くいかないとすぐにストレッチに入って脳内を一度リセットしているように思える。

僕は作業に入る前に過去の作品群を観るだけで他にルーティンらしきものは存在していない。

僕の集中力が切れる瞬間はあまり存在しない。

話しかけられようとマルチタスクの一言で片付いてしまう。

集中が切れる瞬間があるとすれば筆を置いて昼食を取っている間だけだろうか。

物心ついた頃からよく言われたものだ。


「なんでそんなに集中力が続くの?

普通は十五分ぐらいで集中は切れるものなんだよ?」


何処の誰だったか今では思い出せない。

小学校だったか中学校だったか高校だったか…

いつかの何処かの時代にそんな言葉を投げかけてきた友人がいたのを覚えている。

あれは友人だったのか。

それとも授業中も授業が終わって休み時間に入っても。

鉛筆を置かずにノートに絵を描いていた僕を誂ったクラスメートの皮肉だったかもしれない。

詳細は覚えていないが…

とにかく僕は他人よりも長く集中力を保てるタイプらしかった。

画家になるならあって損はないスキルだと思われる。

しかしながらこのスキルには欠点らしきものも存在している。

あまりの集中力のせいでお腹が空こうが尿意などを感じていようが気が付くことが遅くなると言うこと。

本当に限界まで来た時にやっと気が付く。

まずいと感じてお手洗いに駆けて行きどうにか間に合う。

そんな出来事が一度や二度起きた訳では無い。

何度もあったため僕は自分が少しだけ変わっていることに自覚がある。

おかしいと思ったことはないが…。

このスキルのお陰で僕はいつまでも集中してキャンバスに向かうことが出来るのだ。


筆を置いて作業を一時中断するとお手洗いに向かってからキャンパスから出る。

昼食は以前、奈良鶫と約束していたブリトーが有名なお店に向かっていた。


「差し入れの約束したのに…卒業までに出来なくてごめんね。

お店のURL送っておくね」


そんなチャットが以前届いており僕は何と無しに本日向かったのだ。

ブリトーとアイスコーヒーを頼んだ僕は食事を取りながら集中しすぎて熱を持っていた身体や脳内を冷ましていた。

ふぅと息を吐いて椅子の背もたれに身体を委ねてぐったりとしていた。


「あれ?野田くん?」


聞き覚えのある女性の声が聞こえてきて僕は姿勢を正した。


「奈良さん。久しぶりです」


店内の席の眼の前に立っていたのは奈良鶫だった。

僕は彼女に柔和な笑顔を向けると彼女は嬉しそうな表情で対面の椅子に腰掛けた。


「良かったぁ〜。

久しぶりに会いたかったんだぁ〜。

芸大生活はどう?」


「はい。僕らは今、特別課題を設けられていまして…

一年間で百万の売上を出さないといけないんですよ」


「へぇ〜…大変だね。

百万売り上げるって凄いことじゃん!」


「僕は去年、二作品を売って…

百六十万を売り上げたので…

今回の課題はまだぬるい方だと思ってしまいます。

これが一千万とか言われたら…

必死になっていたと思うんですが…」


「凄い自信だね。

流石野田くんって感じ…」


奈良鶫はそこで言い淀む様な複雑な表情を浮かべて視線を逸らした。

それがやけに気になって彼女の視線を追うように目を合わせる。


「どうしたんですか?」


どうとでも取れる質問に彼女は少しだけ複雑な表情で重たい口を開いた。


「うん…

私は大手アニメ会社に就職したんだけど…

ちょっと上手くいかなくてさ…

Sグループで監督をしていたでしょ?

あの時のメンバーって皆協力的で…

大人しい人ばかりだったんだなって今なら思うよ。

反対意見って深瀬さんぐらいしか言わなかったでしょ?

私は今下っ端の立場だから何も言わないけど…

全体的に反対意見を言う人ばかりなんだよ。

分かるよ。

全員がいい作品を作りたいって必死だからさ。

自分の良いと思える物をガンガン口にしていくの。

反対意見を言わない私は…

自分が無いって言われてばかり…

自分の意見や考えはないのか?

って詰められる日常で…

ちょっと疲れている感じ。

そんな時にSグループのメンバーだった野田くんに会えて…

少しだけ張り詰めていた心がほぐれたよ。

ありがとう」


彼女の疲れ切った声を聞いて僕は何か力になれないかと思考していた。

しかしながら僕はまだ学生である。

就職して仕事として絵を描いたことがない。

責任がある立場でもない。

自らの描きたいものを自由に描いている。

突飛な発想でも脳内に浮かんだものは全て描いてきた。

だが…彼女ら卒業した四年生はもう立場が違うのだろう。

僕が計り知れないプレッシャーのようなものも受けているのだろう。

どの様にして言葉を掛ければ良いのだろうか…。

そんな事を思考してやっと口を開く。


「自分ってなんですかね。

僕もわからない時があります。

過去に傷付けられて泣いていた僕も自分だと思います。

それを乗り越えて相手を許して普通以上に歪な関係に落ち着いた人がいます。

過去を許して決断して連絡して水に流して…

そのどれもが僕の考えであり自分だと思うんです。

考えが一日にして変わることも…

いつまでも考えが変わらないのも…

どんな自分も自分だと言いきれます。

他人に自分が無いのかなんて言われたくないですよね。

けれど…よく思い出してください。

深瀬さんが僕のアイディアを否定した時の奈良さんの対応…

覚えていますか?

あの時は四年生で立場が上だったために言えた言葉だったんですか?

奈良さんはそんな器の小さな女性だとは思っていません。

初めての就職で緊張して縮こまっているだけですよ。

奈良さんならこれからいくらでも活躍すると信じています。

僕は何も心配していません。

奈良さんの活躍を楽しみに待っています」


そんな言葉を口にして僕は微笑んで見せる。

ブリトーの包装を破ると僕はそれを一口頬張って満足そうに微笑んだ。


「やっぱり…野田くんは凄いね。

なんだか吹っ切れたわ。

私ももっと自由にやるわね。

もう遠慮なんてしない。

いい子でいる必要もないのね。

野田くんに気付かされた。

これから戻って私の意見をぶつけてくるわ。

上手くいくかは分からないけれど…

とにかく…

ありがとう。

やっぱり好きよ♡」


「頑張ってください。僕も休憩が終わったら作業に励みますので。

お互いに頑張りましょう」


「うん♡

じゃあ私は行くわね!

本当にありがとう♡」


奈良鶫に軽く手を振って応えると僕は彼女に教えてもらったブリトーのお店で満足いくまで食事を楽しむと作業に戻るのであった。



昼食を終えて作業に戻るとそこから夜の帳が降りる頃まで集中して作業に没頭する。


「じゃあ先輩。今日はこれぐらいで帰ります。

また明日も来ていいですか?」


「あぁ。うん。構わないよ。

一応連絡先交換しておく?

僕もこない日があると思うから。

そういう時は連絡入れるよ」


「先輩でもこない日があるんですか?

サボるような人とは思ってもいなかったんですが…」


そんな会話をしながら僕らはスマホを取り出して連絡先を交換する。


「まぁね。恋人が休みの日はなるべく一緒に過ごしたいんだ」


「恋人いるんですね…」


白根桃が少しだけ俯いてその様な言葉を口にすると深瀬キキは軽く苦笑して口を開いた。


「なに残念そうな顔しているのよ…

私達だって一年間一緒に居たのに…

まるで相手にされていないのよ?

たかだか一日一緒にいただけで相手にされるなんて勘違いしないことね。

野田は恋人一筋だから…

二人が別れるまで私達は虎視眈々と機を待つかしないのよ」


「そうなんですね…

やっぱり先輩も惚れているんですね」


「まぁね。関わりのある女生徒は大体惚れているよ」


「ですか…ライバルだらけですね」


「あの…本人を前にそんな話しないでくださいよ」


「話を聞いてもなんとも思わないくせに」


「そうですけど…とりあえず僕は帰ります」


「恋人が待っているものね」


深瀬キキの皮肉のような言葉に苦笑すると僕は荷物を持って校舎を抜けていく。

校門の前で真名の高級車が待っており僕は助手席に乗り込んだ。


「迎えに来てくれてありがとう。

早く真名さんに会いたかったです」


「私も。

だから迎えに来ちゃった♡」


「嬉しいです。

帰ってご飯食べて一緒にお風呂に入って…」


「そうね。

夜は始まったばかり。

二人の時間はこれからだものね♡」


「はい。

早く帰りましょう」


そうして僕らは車を走らせると二人きりの自宅に帰っていくのであった。


もちろん本日も僕らは愛を確かめあって夜を過ごしていくのであった。

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