3


 ちょうど同じタイミングで、乗る予定だったバスが到着し、列が少し前に寄っていく。


 ふと先ほどの老婆を見る。嬉しそうに、去っていく男の背中を見守っている。が、老婆の背後に立つもやの男の表情は、変わらず険しい表情をして老婆を見降ろしていた。


 本当の本当に、これはまずいかもしれない。


「お、おばあちゃん……」


 私は、列を抜け、思わず老婆に近寄り声をかける。老婆が振り返ると同時に、もやの男も私に顔を向ける。もやは、じわじわと私を取り囲んでいき、私の鼻腔を、こらえきれないほどの腐敗臭が支配していく。


「だ、だいじょうぶですか……?何か、体調悪くなってたりしませんか……?」


「え?いいえ、特に何もないわよ?」


 老婆と話しているのだが、無意識にちらちらともやの男の顔色を窺ってしまう。恐ろしい表情で、私のことも見下ろしている……。


 もやの男は、きっとおばあさんを守っていた守護霊だ。あの怪しい男が変なことをしたせいで、もやの男はおばあさんを守ろうとしていたんだ。止まらない感情が、黒い靄として表出してしまい、その怒りが今も止められないでいる。


 このままでは、彼女に何か悪いことが起きてしまう。十分なほど、おばあさんは負の感情に覆われてしまっている。


 かなり焦っている私をよそに、それじゃ、と老婆はバスのステップを登っていく。私は何もできず、バスの入り口のそばで老婆を見守ることしかできない。後ろの小学生も老婆に続いてステップを登ろうと手すりをつかもうとする。


 その瞬間、黒いもやは爆発的に増殖した。老婆の首に巻かれたスカーフが風になびき、ちょうど小学生が手を置こうとしたあたりに、スカーフの先が滑り込んでいく。


 老婆が最後のステップを登ろうとしたとき、スカーフが不自然にグイと後ろに引っ張られた。バランスを崩して、老婆は衝撃に備える姿勢も取れず、ゆっくりと後ろに倒れていく。


「危ない!」


 私はとっさに、老婆の後ろに滑り込んだ。のしかかる老婆の体重に負けて、私もバランスを崩して倒れる。できることは、老婆がけがをしないようにすることだけだった。


ドサ、と二人重なって倒れる。周囲の人たちが大きな声を上げて私たちのそばに駆け寄ってくるが、あまりの黒いもやと腐敗臭に、私はそれどころではなかった。幸い痛むところはないが、経験したことのない状況すべてに、パニックになりそうだった。


私は思わず目を瞑り、首元の小袋を掴む。そしてどうか、この状況が良くなるようにと、ひたすらに祈る。


……瞬間、黒い靄が離散し、腐敗臭も瞬く間に消えていく。


私はゆっくりと顔を上げる。もう、そこにもやの男はいなかった。が、どこか安心したような感情が伝わってくる。


「だ、大丈夫ですか?」


冷静さを取り戻し、私は抱えたままの老婆に声をかけた。


「え、えぇ……本当にありがとう。年を取ると嫌ねぇ……」


ふとそばを見ると、小学生が大きな声を上げて泣いていた。仕方がない。もやのせいだとしても、彼が老婆を倒してしまうきっかけになってしまったのだから……。


私は老婆を再びバスに乗せると、後方の空いた席に座る。


本当に、あの疫病神のような男は、いったい何だったんだろうか……。

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