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 夏の盛りに差し掛かったとはいえ、今日は肌を刺すような暑さではなく、むしろ爽やかな風が吹いていた。普段なら、容赦なく照りつける太陽光に辟易しながらハンディ扇風機を握りしめているはずが、今日は日陰を探せば過ごせる程度の陽気だった。


 住宅街を抜けて国道沿いのバス停へ向かう。行きは下り坂なので足取りも軽快だが、帰りは坂道と一日の疲れが重なり、別のルートで帰ることもある。今日はまさにその予定だ。ちょうどそのバス停の近くに、この周辺で唯一のドラッグストアがあるのだ。


 そういえば先週あたりから、自宅近くの電柱の足元に花束と子供向けのお菓子が供えられていた。何があったかは想像に難くないが、私は慣れた様子で通り過ぎ、すでに数人並んだバス停の列に並ぶ。かすかに甘い香りが鼻をくすぐったが、その正体は分からなかった。


 無意識のうちに、その花束が捧げられた人物を探してしまう。幸い、周囲にはその弔いを受けている者は見当たらない。


 しかし、これは私の悪い癖だ。私が気にしてしまうことで、彼らとの接触を招いてしまう可能性もある。意図的に視線を前に移し、両耳にイヤホンをつけて、手に持っていたスマートフォンに目を落とす。外にいるとき、たいていイヤホンから流すのは焚火のBGMだ。


 バスは、到着予定時刻から数分遅れている。列に並ぶサラリーマンや老人たちは、たいして気にしない様子で、各々の手元にある雑誌やスマートフォンの世界に耽っている。


「おばーさん」


 ふと、聞きなれない、男の声が私の鼓膜を揺らした。


 その声は、こんなに朝早い時間には似合わないものだった。成熟したというには高く明るい声色で、だが子供というには少し大人びた声。


「腰、具合悪いの?」


 あまりにこの場に不似合いだったので、私はイヤホンを外してちらと声のする前方を見る。そこには、たまに同じバスになる老婆が、に話しかけられていた。


 その老婆の隣には、明らかに場違いな見た目をした男が立っていた。白い和装束を来て、イメージするものよりはかなり小ぶりな烏帽子を頭にのせている。見たところ、私よりは少し年が上のようだ。切れ長の目が目を引くかなり端正な顔つきを、その和装束が引き立てていた。


「え?あぁ、そうなんだよ。最近、歩くのがきつくてね、よく病院で診てもらってるんだよ」


 腰の曲がり具合から、もう70歳は軽く超えているだろう。彼女は、男の怪しさなど気にもせず、嬉しそうにそう返事をした。


「ふぅん、それは大変だね。ちょっと、触ってもいいかい?」


 男はそういうと、返事を待たずに彼女の腰に右手を沿える。


「おやおや、これは大変だ……」


 男は急に険しい顔をしてそうつぶやく。え?と言いながら振り返る老婆を気にもせず、ブツブツと、何か呪文を唱え始めた。


「……天津神、国津神、八百万の神々よ……」


 余りにか細い声で、私の耳には届かない。その間も、周囲の人間たちは男を怪訝な顔でじっと見つめているが、男は何も気にせず、その怪しい儀式を続行している。


「……ん?」


 私はそこで老婆の異変に気が付き、思わず声を漏らした。いや、老婆が何かおかしいわけではない。男が怪しい儀式を続けるうちに、何か黒いもやのようなものが、老婆の背中を包んでいく。


「縁あれ、愛あれ……健康あれ、長寿あれぇ……」


 男はそれを気にもせず、もやは、じわじわと老婆の全身を包んでいく。特に、男が手をそえる腰回りが特に濃くなっている。


 これは、いったい何なんだろう?私は、その様子から目をそらすことができずにいた。


 老婆に何かが悪いものが憑いているようには見えなかったし、むしろ、年齢的に仕方がないようにしか思えなかったが――――――老婆もなぜか、されるがまま男の怪しい行動を受け入れている。


「……ハァ!!」


 急に男は大きな声を出し、老婆の腰をポンと優しく叩いた。その瞬間黒い靄は、爆発したようにおばあさんと男を包んでいく。


「……どうだい、おばあちゃん。腰、軽くなったでしょう」


 黒い靄があまりに濃くて、私にはもう二人の表情を伺うことができない。それでも、男が得意気にしているのは容易に想像できる。


 当然、私以外の人たちは、ただただその光景を眺めているだけだが、私は軽く焦っていた。黒いもやの中に目を凝らすと、もう一人、別の男の姿がぼんやりと見える……。


「んん……?あぁ、そうだねぇ……なんだか、腰回りがあったかくなってきたよ」


 老婆は、そう嬉しそうに話し出す。


 いやいや、そんなはずがない……。それに、だんだんもう一人の男の姿がはっきりとしてきている。その表情は、明らかに、ありったけの不快感、嫌悪感を表情に出し、怪しい男をにらんでいた。


「これ、まずいかも……」


 私は思わずそうこぼす。だが、私が何かできるわけではない。それに、なるべく関わりたくはない―――――正義感と自己防衛の狭間で、私は揺れていた。


「さっきまで、おばあちゃんには悪い男の霊が憑いてたんだ。その男の霊が、おばあちゃんの苦しめてたんだよ」


「えぇ!ほんとかい。僕、すごい力を持っているんだねぇ」


 二人だけですでに変な状況だったが、私にとってはこれまで経験したことのないほどカオスだった。悪い例と言っているが、あれはどう見ても――――


「ありがとねぇ。はい、これお駄賃」


 老婆は嬉しそうにそういうと、財布から千円札を二枚取り出し、男に渡す。


 見かねて周囲の人間が「よしたほうが……」と止めに入るが、男は野次馬を一瞥することもなく、老婆の手からお金を受け取る。


「ありがとうおばあちゃん!これで長生きできるね!それじゃ、またね!」


 これまでで一番明るく明朗な声で感謝を伝えると、男は勢いよくスキップをしながら、もやを抜けて嵐のようにその場を去っていく。


一体、何だったんだろう……。


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