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 私には、自らの内に定めた確固たる決意が存在する。


 その一つが、朝は常に爽快な気分で目覚めることだ。一日の始まりが清々しければ、その後の時間は自然と輝きを増し、充実したものとなる。その決意は、滅多なことでは揺るがないはずだった――――だが、今日ばかりは様子が違った。


 洗面台に一人、私は孤独な戦いを繰り広げていた。昨日、一昨日と繰り返した同じ過ち。歯磨き粉を、左の人差し指と親指で力任せに絞り出す。家を出る時にはしっかりと記憶していたはずなのに、下校途中のドラッグストアで歯磨き粉を購入する予定は、帰路に着く頃には必ず私の脳裏から消えてしまう。今朝はついに、先端を折り曲げて絞ろうと試み、両手で容器を押し潰しても、歯磨き粉は微塵も姿を現さなかった。


「あーあ、最悪…」


 痺れを切らし、洗面台に放置されていた、昨日前髪を切った際に使用したハサミを手に取り、容器を乱暴に切り裂く。ようやく姿を現した歯磨き粉は、一度の使用量には多すぎるほど。その無駄遣いが、更に私の苛立ちを募らせる。


 眉間に深い皺を寄せながら、歯磨きを開始する。普段であれば、こんな些細な問題は気にも留めなかっただろう。これも全て、昨晩見た夢の影響に違いない、と私は不満を募らせる。


 少女が、男に殺される夢――――。目も当てられないほどの怪我をした少女が、古く年季の入った家屋から逃げ出そうとしたところを男につかまり、やがて頭部を殴打された。


 時折、私には幽霊以外のものが見える。人が強い感情を抱いた時、その感情が夢として私の前に現れるのだ。それは死者の場合もあれば、生きている人の場合もある。


 だが、今朝の夢には関与するつもりはない。


 少し乱暴に口をゆすぎ、二つに裂かれた歯磨き粉をゴミ箱に投げ捨てる。洗面所からリビングへと向かう。決意を再確認しながら、私は一歩ずつ歩みを進める。




 洗面所を出ると、右手に10畳ほどの広さを持つリビングが現れる。広さに反して家具は少なく、4人掛けのテーブルと椅子、テレビ、仏壇、書類用のキャビネットのみ。私と祖母の二人暮らしには十分な広さだ。


『今日、7月24日月曜日の天気は、晴れです。洗濯物はとても乾きやすく――――』


 東向きの窓に背を向けたテレビでは、ここ数年人気のアナウンサーが明るい声で天気予報を伝えている。左上のデジタル時計は7時20分。学校へ向かう時間が近づいていた。


 壁に掛けられたブレザーの制服を手に取り、パジャマから着替えながらカレンダーに目を向ける。慣れた手つきで女子生徒用のネクタイを首に巻くと、自然と背筋が伸びる。その瞬間が、彼女は少し好きだった。


 明日は祖母が入院する病院へ面会に行く日だ。バスで15分ほど行った先にある、この地域では最も大きな病院に、祖母は心臓の具合が悪く入院している。幸い、祖母の体調は良好で、このまま経過が良好であればもうすぐ退院できる、と医師は言っていた。


 それ以外、特にここ数日の予定はなかった――――――いや、歯磨き粉を買う必要があったか。


 身支度を整え、椅子の上に置いていたカバンを手に取る。そして外に出るには必要不可欠なもの――――テーブルの上にある、ネックレスのように加工した、親指の第一関節ほどの大きさがある小袋を首にかける。


 これは、一種のお守りのようなものだ。視えてしまう自分が、祖母と一緒に作った、自分を守るためのもの。母と、父と、祖母のすべての思い出が詰まっている。


 玄関で靴を履き、扉に手をかける前に、そっと、首元の小袋を右手で握る。


 大丈夫。


 いつものように、心の中でそう自分に語り掛ける。


 祖母の声も、聞こえた気がした。


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