第3話 ノートとキャッチャーの落球

 僕は正直、勉強が好きではない。将来のためとは言うけれど、その将来が漠然としすぎていてどうにも実感的でない。実感できないもののために苦行を強いられるのは、ゴールの見えないマラソンのようなものでただひたすらに苦しいものだ。

 周囲はどうかというと、果たして高一の秋という段階で将来についてのビジョンを持っている人間がいるとは到底思えなかった。

 クラスには野球部に所属する者もいたが、彼が甲子園に出場しプロとして活躍する未来を願望ではなく現実として捉えているだろうか? そうなったらいいな程度になら考えているかも知れないが、偏差値五十程度の公立高校でそんな大それた事を一定のリアリティを以ってシリアスに思考している人間は、たぶんほとんどいない。

 大学進学くらいは規定路線として考えてみても、その先どんなことを生業として生きていくかなんて全く予想だにできない。受験に失敗すれば浪人だろうし、ひょっとしたら高卒で就職するかも知れない。

 でも去年まで義務教育の只中にいた子供に、どこまでのことを見据えろというのだろう?

 そういう意味では、家業を持っている人間はいいなとさえ思う。跡継ぎになるというプレッシャーはあるだろうが、少なくとも選択肢のひとつは自動的に埋まってくれているのだから、それが早い段階で気に入ればそっちに向かって走り出せばいい。気に入らなければ蹴って別方向に行けばよいだけで、そこにももちろん自分の意思が反映されるわけだ。もっともそれは僕の理屈でしかなく、実際に家業を継ぐものの意見ではないけれど。たぶん、どっちにしたって不満なんてものは出てくるものなんだろう。

 兎にも角にも、僕個人としては全く選択肢がなく判断基準さえもあやふやな状態でその自由意志に任されても、そもそも立ち位置が不安定なものなら出る結論もまだあやふやなものでしかない。そんな状態で将来に向けて勉強しろといわれてもな、と理屈をこねて勉学を疎かにするのが僕というわけだ。

 憂鬱な月曜日も放課後になり、人もまばらになった教室でそんなことを考えながらのろのろと机の中の教科書やノートをかばんに放り込む。

 僕は人気の無くなった場所というものが好きで、たまにこうやってクラスメイト達がいなくなるまで教室に残る。さっきまでにぎわっていた場所が一気に静かになる、その静寂がなにかしら心を打つのだ。閉店の音楽が流れるデパートや終電の往ってしまった駅のホーム、夜中の公園なんかも好きだ。

 そこに確かに存在した人の営みがその名残を残して消え去る場面。廃墟も好きだが、そこまで行かないひと時の静けさというものがたまらない。

 廊下の遠くから聞こえる笑い声、グラウンドからはランニングの掛け声と笛の音が微かに届く。そういった雰囲気をひとしきり楽しんでから、僕は席を立ってぐるりと教室を見回した。

 床に一冊のノートが落ちているのを見て、僕は何気なく歩み寄って手に取る。名前を記入する枠の中には綺麗な字で櫻井みなみの名前が書かれていた。それ以外に表紙に記載は無く、何のノートかはわからない。

 裏表をひっくり返してみても、特に何の特徴もないノートだった。中を見てみようかとちらっと思ったが、何か暗く黒いものを感じて思いとどまった。たぶんそれは後ろめたさとか罪悪感とか、そういった感情なんだろうと僕は結論付ける。

 メーカー名すらよく判らないそのノートを、そのまま櫻井の机の中に入れて僕は教室を出た。放課後の廊下に人影は無く、無機質な光景が階下の下駄箱まで続く。

 スニーカーに靴を履き替えて、上履靴を下駄箱にしまって蓋を閉じたとき、櫻井みなみがなにやら慌てた様子で表から走ってきて靴を上履きに履き替え始めた。

 「あ、櫻井」

 「急いでるから」

 こちらを見ずに短くそういう彼女の背中が言葉を拒否しているようだったので、僕はとりあえず返事を待たずに用件だけ言ってしまおうと思った。

 「ノート、落ちてたから机の中に入れといたぞ」

 その刹那、振り返った彼女の左手が僕の顎を掴み、そして物凄い力で僕を下駄箱に押し付けた。背中に下駄箱の金具が当たって、鈍い痛みが走る。

 「な!?」

 櫻井みなみの目には殺気が漲り、その言葉はまるで積年の恨み辛みを吐露するかのように重かった。

 「中は見た?」

 「見てない見てない、表紙だけ」

 「本当に?」

 「本当に」

 僕と櫻井はしばらくそのまま固まっていた。一瞬が永遠に近い長さに感じるというのはこういうことだな、などと僕は暢気なことを考えてみて、この事態に混乱する自分を抑えようと必死だったのだが。とにかくあのノートは彼女の何か大切なものか若しくはウィークポイントであって、それを目にしたという疑いをかけられているというわけだ。

 しばらく僕を睨んでから、櫻井みなみは一つため息をついた。目から殺気は消えたが、僕の顎を掴む左手の力は抜かれていない。

 「誰にも言わないでね」

 「何を?」

 「何もかも。ノートのことも、今のこのことも」

 櫻井みなみの声には表情というものが全くなかった。人気のない昇降口はしんと静まり返り、遠くから運動部の掛け声がわずかに届く。

 「説明が欲しいな」

 「説明?」

 櫻井の細い指が僕の顎に食い込む。爪が刺さって痛みが走る。

 「この状況に至った理由さ。これは明らかに暴力行為と脅迫だ」

 「そんなことないわよ」

 櫻井みなみは笑ったように見えるが、それはただ表情筋を笑っているように動かしただけで、彼女は一欠けらも笑ってなどいない。

 「私はただ、仲のいいお友達にお願いしてるだけ。誰にも言わないでね、って」

 甘えたような声の裏に冷徹な意思の気配を感じる。僕だってそんなに鈍感なわけではないので、彼女が今僕に対して敵意を抱いていることくらい想像がつく。

 だがそれ以上に、僕の中にはこの理不尽さに対する怒りが湧き上がり始めた。

 「仲のいいお友達同士は、こんなことはしないだろう。それに僕と君は仲のいいお友達同士なんかじゃない」

 「じゃあいい機会だから、今からでもお友達になりましょう?ハセガワくんと私は、今この瞬間からとても仲のいいお友達。だからお互いに下の名前で呼び合うことにしましょう、ノボルくん。遠慮はいらないわ」

 「何を言ってるのかさっぱりだ、これは冗談にしてもひどいぞ櫻井」

 チッチッチッ、と英語の教師や外国人がやるように舌打ちして櫻井みなみは僕の目を見た。まるで感情というものが見えない、底なしに漆黒の瞳。

 「みなみさん、よ。リピートアフターミー、ミナミサン」

 ぐっ、と手に力が入る。顎の痛みが増す。

 「み、みなみさん」

 「オーケー、ベリグー」

 彼女の瞳に光が戻り、そう言って僕の顎から左手を離した。

 「じゃあ、そういうことで。他言無用だからね」

 それだけ言うと、彼女はひらりと身を翻して廊下の向こうに姿を消した。

 僕は今自分の身に降りかかった出来事が、果たして現実であったのか妄想であったのかという事に思いを巡らせてみたが、顎の痛みが全て現実であると雄弁に語っているのを無視してまで、どうしてそういう方向に思いを向けたのかが自分でも判らなかった。

 たぶん、僕は櫻井みなみというクラスメートに抱いていたイメージを崩したくなくて、無意識にそう考えたんだろう。ほぼ接触が皆無だった僕と彼女が、接触するたびに知らなくて良さそうな面を知ってしまうというのは確かに好ましくない。

 一学期までのイメージでは、確かに芯は強そうに見えたが他人に対して強要とか脅迫をするようには見えなかったし、またその手段として暴力を用いるなんて全く予想できなかった。

 そんなこと予想できるはずがない。余程の事情があのノートに隠されているのだろうか?とも思ったが、あまり深く立ち入ることは良くないのではないかという思いが僕の考察を中断させた。

 面倒には関わらない。それが無難に生きていく上で最も大切なことだ。




 班を作ってグループ学習、という事が僕はとても苦手である。

 昔から【好きな人同士で組みなさい】的な、半ば放任主義的なグループ分けの際になぜか余ってしまい困惑するという経験が多いし、うまく潜り込めたとしてもクラスメイトと言うおおざっぱなくくりから班のメンバーという個人単位になってしまうと、これまでの空気のような対応ではなく嫌が応にも深く関わらざるを得ない部分が出てくるからだ。

 クラスと言う単位に僕たちが纏まって既に半年近くの時が過ぎているというのに、僕はその構成員に対して殆どと言って過言でない位に興味も関心もなく、そのために彼らの情報をほぼ持っていないこの状況で……しかも僕以外の人間同士は割と打ち解けているこの状況で……孤立するという以外にどんな選択肢があるというのだ。

 他所の班に混ぜられた滝沢も微妙な顔をしてこちらに要救助の視線を送って来るが、同じ班でもないのにどうやって助けろと言うんだ。そもそも助けて欲しいのは僕も一緒で、精々薄笑いと意味のない相槌で場の空気を濁さない程度に存在するしかないのだ。

 「いいよ、気を使わないで。私はハセガワくんと組むから」

 そう言ったのは他ならぬ櫻井みなみだった。男女三人づつ、計六人の班で男女ペアになり調べ物をしようという流れになり、そもそも僕と櫻井以外の四人はそれぞれに付き合っているという話だったので当然そうなるだろうという予想はあった。だがしかし気の利かないイケメン男子共がどうしようか、どういう風に組み合わせを決めようかなどと言うものだから事態が混迷する。

 最初からエゴ丸出しで恋人同士に組んでくれれば、結果余った者同士が組めばよいという話になる。なのにこの男共は、自分の恋人を放っておいてあわよくば櫻井みなみと臨時のペアを組みたいという、実に下卑た欲望に駆られてそんなことを言い出したのだ。

 そんなことをすれば、僕と組まされた女子が本来の相方に対して良くない感情を抱くのは目に見えている。さらにその苛立ちが全く無関係でむしろ被害者とも言える僕にぶつけられるのは明白だ。

 全く冗談じゃない。

 だから、櫻井みなみがそう発言してくれたのは僕、そして女子二名にとって理由は違うけれど実にありがたい事だった。若干残念そうにする男子二名だが、そんなエゴに巻き込まれて辛い時間を過ごすのは真っ平御免だ。

 そうしましょうそうしましょうと残りの四人は女子側がイニシアチブを取る形でそれぞれの組み合わせで落ち着き、余計な事を考えたパートナーには陰でお仕置きが為される事となったがそんな事は僕には全く関係がない。

 とにかく櫻井みなみは空気を読んだということで株を上げ、僕は元々ゼロに等しい評価額を無駄に下げることなくこの局面を切り抜けることに成功した。櫻井はともかくとして、僕が無用なトラブルに巻き込まれずに済んだというのは実に喜ばしい。

 こういう人間関係の妙を楽しめる人間なら良かったのだけど、僕にはそういうスキルは備わっていないのだ。

 とにかく、どうせ男子は役に立たないからという理由で内容については女子グループにて吟味し、実際の調査について協力するということで班内の意識は統一された。確かに役には立たないかも知れないがそう断定されると腹も立つ。でも班としての体裁を気にする女子たちが手綱を持ち、ともすると遊んでしまう男子が操られる側に回るというのは公平に考えて悪くない判断だとは思う。

 それ以上に僕が感心したのは、女子二人にある程度のアウトラインを好きに言わせた上でそれをまとめ上げる櫻井の手法だ。出しゃばらず、さりとて議論を余所に行かせず。しかも概ね女子二人の意見で構成される結論に櫻井色は薄く、彼女たちのプライドをきっちり確保した上で独り善がりにならない程度のブレーキをかける。だから議論は明後日の方向に進むことなく、他の班を圧倒するスピードで結論まで進んだ。

 僕は正直、調査の中身について全く興味がないので、役割を割り振ってさえくれればそれで良かったから、基本的には全てお任せという感じのスタンスで流した。お蔭で最終的な着地点がどこになるのかについてはさっぱり判らないということになったが、それぞれが調べた結果を組み合わせ提出する段で知っても遅くはない。

 「で、僕は何をすればいい?」

 放課後の図書室に連行された僕は、にこりともしない櫻井みなみと正面から相対すると自然と卑屈になりそうな自分を内心で必死に鼓舞して、無理に笑顔を作りながらそう訊ねた。

 「そうね、国内産業の割合と地方別の主要な生産物かしら。データを揃えてくれたら、あとは私がまとめるから安心して」

 「地方別って、どれくらいの区分けでいいんだい?北海道、東北、関東、中部、関西、中国、四国、九州に沖縄ってところか」

 「そんなところかな。あと甲信越も入れてね」

 「あいよ」

 書架からそれらしい本を取り出して、記載されているデータを藁半紙に書き写す。昭和末期のデータと最新のデータをそれぞれ抜き出すその作業は、頭を使わないという意味で実に楽なものだった。カリカリとシャープペンシルが藁半紙の表面を引っ掻く音だけが周囲に響く。

 「ハセガワくん」

 突然櫻井みなみが小さく声を出した。

 「ん?」

 「窓の外を見て」

 「ん」

 書き物を中断して顔を左に向け、窓の外に視線を移す。グラウンドで野球部が紅白戦をやっているようだ。

 「次のバッター、ヒット打つと思うんだけど、どうかな?」

 遠くて誰が誰だか判らないし、野球部に個人的な知り合いもいない。

 「内野ゴロってとこかな」

 適当にそう言う。しかしまだ暑いというのにご苦労なことだ、と僕は思った。茶色い土のグラウンドに白いユニフォームが目立つ。あれが黒い布地だったらもっと暑いんだろうな。

 勿体つけてバッターが右打席に入る。左腕の投手が大きなモーションで球を投げ込むようだが生憎遠くてよく見えない。数回の投球後、くわんという鈍い音がして白いユニフォームたちに動きが発生した。キャッチャーが一塁側のファールグラウンドに走る。これはバックアップだろうか。ショートが二塁近くへ寄り、セカンドが屈んで何かを拾いファーストに投げる。何かと言うのは妥当ではない、当然ボールだろう。バッターはバットを投げ捨てて必死に一塁へ走るが間に合わない。

 セカンドゴロだ。

 「当たったね」

 「偶然さ。内野なんて五人もいるんだ」

 ファースト、セカンド、サード、ショートにピッチャー。心の中で指を折って数えた。間違っていない。キャッチャーはたった一人、ファールグラウンドに守る野手なので除外する。そのキャッチャーと外野三人を足して九人。これが近代野球におけるレギュラー・メンバーだ。

 野手が定位置に戻り、ピッチャーがマウンドへ帰る。次のバッターは大きく素振りを何度かして、左打席に入った。

 「キャッチャーフライかな」

 櫻井が呟く。

 「落としたら面白いけど」

 僕も適当にそんなことを言う。ピッチャーが初球を投じ、バッターは大きなスイングでフライを打ち上げた。打球はどうもピッチャーとキャッチャーの中間地点に上がったらしく、内野手が続々集まりその中でキャッチャーが手を上げて任せろとアピールする。その手がどんどん背中の方にのけぞって、そのままキャッチャーはちょうど頭をホームベースに当てるように後ろ向きに転んだ。

 ボールは風とスピンで戻されてファールグラウンドへ落ちたらしく、起き上がったキャッチャーはそのボールを拾ってピッチャーに軽く放ると再びホームベースの後ろに座り、バッターも放り出したバットを拾って打席に戻る。

 「野球好きなの?」

 「普通だよ」

 僕は視線を正面に戻した。いつの間にか、櫻井みなみは僕をじっとその澄んだ瞳で見つめていた。それには温度と言うものがほとんど感じられず、僕は一瞬動きを止めた。

 「でも予想が当たったよ」

 「たまたまだよ。今日は風もあるみたいだし」

 体を少し左にずらして、櫻井の直視から逃れる。

 「ふうん」

 つい先だって、下駄箱での出来事が脳裏を過ぎる。あの時以来の射るような視線だ。

 「ねぇノボルくん」

 櫻井みなみは確かにそう言った。そう僕を呼んだ。

 「な、なに?」

 「もし彼女がいたとして……名字で呼ばれるのと名前で呼ばれるの、どっちが好き?」

 「ま、まあ名前の方がより親密な感じはするよな」

 「名前がいいんだ?」

 「その時になってみないと判らないよ、そんなこと……」

 なぜか語尾が不明瞭になり、口籠ってしまう。明らかに僕はこの状況に動揺している。というか、こんな状況で動揺しない高校生がいるだろうか?いやいる筈がない。若さとリビドーに溢れる世代において、こんな局面で反応がないとしたらそれはもう完全に未成熟か朴念仁か、それとも同性愛嗜好かという感じだ。

 「そうよね、その通りね」

 櫻井みなみの視線が僕を値踏みするように動く。心の底まで見透かされるような感覚に、僕は軽く身震いした。

 「でも私とあなたは仲のいいお友達だから、二人きりの時くらいは名前で呼んでもいいよね?」

 「い、いいんじゃないか?君がそうしたいならそうすればいい」

 「ありがとう、じゃあそうするね。ノボルくんは図書室って好き?」

 「嫌いじゃないよ、静かな場所は」

 「ふうん」

 櫻井みなみはにっこりと微笑んだ。これは……近年稀に見る素敵な笑顔だ。僕はもうドギマギして周囲を目だけで見回した。図書委員と司書の先生は司書室に引っ込んでいて、今は僕たちの他に誰もいない。

 「ノボルくんはどうしてクラスに馴染もうとしないの?人間嫌いなの?」

 「そういうわけじゃないよ」

 僕の口の中は緊張と興奮で乾き始めていた。

 「別に人間が嫌いなわけじゃない。ただそういうことに慣れていないだけなんだ」

 「慣れていない?」

 「自分をうまく説明できないんだ。大筋ではこんな奴だって知ってはいるけれど、でもそれが本当の自分かどうかの自信が全くない。そのギャップに気づかれるのが嫌だし、そういうのは怖いと感じる」

 「そんなの、きっと誰でもそうよ」

 「そうかな」

 「だから面白いのよ」

 櫻井みなみが喋るたびに、机を通してその振動が伝わってくる。この感触は間違いなくリアルなもので、僕の想像なんかではない。

 「ノボルくんは失敗するのが怖いの?」

 「ああ、失敗は怖い。でもそれ以上に、たった一つの失敗が失敗の連鎖を生むことが怖い。思いもよらない方向に事が進んで、そんなつもりじゃなかった僕だけが取り残されて。あの、人混みの中にいるのに孤独という感覚は、怖い」

 「そう。でもみんな同じ道を通っていくのよ」

 「そうだろうな。でもいいじゃないか、いつか通らなくてはならないっていうなら、それが今じゃなくてもいいはずさ。年齢に応じた通過儀礼ならともかく、回避したリスクを負うことを覚悟しているのなら、逃げるって選択も有りなはずだ」

 「リスク?」

 「そう、クラスメイトの顔と名前も一致しない、土日に遊びへ誘われることもない。夏休みの宿題を見せ合うこともないし、悩み相談をすることもされることもない。没交渉っていうのはそういう感じで、クラスにいるメリットもデメリットも受けないというのが僕の負っているリスクなんだ」

 「リスクを負うだけのメリットはあるの?」

 僕はひとつため息をついた。

 「メリットは、ない。ただ失敗をしていないというだけであって、それは単に結果が未確定のまま、結論を先送りにしているだけだからね。メリットとかデメリットというのは挑戦の結果に表れるものであって、挑戦から逃げている僕にはまだそういった類のものを受け取るだけの資格がないんだ」

 「そう」

 櫻井みなみは短く言った。興味津々と言った感じの視線はまだまだ続く。

 「でもそれはきっと、ノボルくんは否定したけれど……通過儀礼なんじゃないかしら。クラスに所属するための通過儀礼。だから本来は回避してはいけないし、回避し続けているとしたらそれはとても不自然なことなのかも知れない」

 「そうかもね」

 僕は続けた。

 「だから本当は、少しづつでもその不自然さを取り返して必要があるんだろうね。でも今はまだ、怖い。取り返しの効くうちにどうにかしなきゃいけないと、頭では判っているんだけれど」

 「そう、でも大丈夫。みんなノボルくんが思っているほどに、他人に深く興味を持ってはいないわ。最初はぎこちなく感じるかも知れないけれど、そのうち馴染んでいく。空気ではなく風景、背景になる」

 「風景か」

 そういう考え方をしたことがなかったので、僕は少し驚いた。絵や写真には表せない空気ではなく、背景の一部として馴染むことが出来るのなら、きっとそこには僕が恐れているような何かは存在しないのだろう。

 「私もあまり人のことを言えた義理ではないんだけれど、でもノボルくんがそうしてくれたなら、もっと仲のいい友達になれる気がする」

 「そうかもね」

 「でね、話は変わるんだけど」

 櫻井みなみの左手が、シャープ・ペンシルをくるりと回した。

 「私のノートの中、どうして見なかったの?」

 「どうして?」

 「だってクラスの女の子が落としたものでしょ、中を見ても不思議じゃないのに」

 「僕はそういう、盗み見みたいなことはしたくないんだ」

 憮然とした口調で僕は言う。

 「それに何ていうか、見ちゃいけないような気がしたんだ。手に取った時に何かこう、中を見た先に不幸なイメージがあって」

 「不幸なイメージ?」

 櫻井みなみの目に力が入る。

 「不幸というか不吉というか、何かしら嫌なイメージだよ。その時はほら、人のノートを勝手に見る罪悪感とかそういう類のものだと思ったんだけどね。でもなんだか、今までの様子を見るとやっぱり見なくて正解だったみたいだ」

 「そうね、見ても多分何が書いてあるのか判らなかったと思う。でも見なくて正解。もし見てたら、ここまで私がノボルくんに執着することなんてなかったと思うよ」

 「なるほどね、じゃああの時の僕の判断は間違ってなかったわけだ。あのノートの件になると君は物凄く強い敵愾心を表に出すし、僕はなんだか知らないけれどそんな君に物凄い恐怖を感じている。それがいったい何なのかが判らないことが、もっと怖さを煽るんだ」

 「ごめんね、私もあまり友達の多いほうじゃないから、きっと無思慮な接近がノボルくんの警戒センサーにひっかかってるのかも知れない。でもね、中身を見なかったのは本当に正解なのよ、私にとっても、あなたにとっても」

 「全てが判ってる、みたいな言い方をするんだな」

 「そうかな、そんな風に聞こえた?」

 「前に言ってた悪魔って……あのノートに関係するのか」

 ふふっと櫻井みなみは笑った。

 「そうであるとも言えるし、そうでないとも言えるよ」

 「判らないな」

 「ノートそのものはごく当たり前のノート。どこの文房具屋でも売っているような、何の変哲もないノート。そこに書かれていることも、別になんてことはない箇条書き」

 「じゃあなんでそこまで拘るんだ?」

 「ねえ、踏み込んじゃう?」

 どきり、とした。その問いに、僕の心の中で何かが反応したからだ。

 踏み込む。そこには何か重大な秘密がある。知ってしまえば、知ってしまったなりの責任が発生するだろうことは容易に想像できた。

 「ここから先に踏み込むことは、あなたの運命を変えるかも知れないよ。単なる好奇心では済まされないことって、割と普通に転がっているんだから」

 「運命ね……」

 「私は構わないと思っているけれど、ノボルくん自身はどうなのかな。知ってしまったらもう引き返すことはできないと思うけれど、それでも知りたい?」

 「僕は……」

 声が掠れる。

 「ここまで聞いておいて、今から全てをなかったことにするというのは多分無理だろうと思う。それは君も感じているから、今の質問はただの最終確認でしかなくて、もう僕は踏み込んでしまっているんじゃないか?」

 「ノボルくんならそう言ってくれると思っていたわ。だから、私はあなたと仲のいいお友達になろうと思った。そしてそれ以上にもなれると思っている。それ以上の関係になりたい?」

 「いやその、なんていうか」

 この言葉に感じる重み以上に仲の良い友達ってどういう関係だろう、と僕は思った。それってまさか恋人関係のことなのか?いやでも友達のそれ以上って言ったわけだから違うんじゃないだろうか。でもそれってなんだろう、親友でいいんだろうか?そもそも男女間の友情って成り立つものなのか?昔読んだ雑誌のコラムでは、それは無理だという結論が出ていたっけ。

 僅か数秒の内にそんな事を考え、そして全てを打ち消す。櫻井みなみと二人きりでいるこんな様子をクラスの誰かに見られでもしたら、明日から僕は教室でどんな顔をして過ごせばいいんだろう。そう思った瞬間、櫻井みなみの視線が僕から離れた。

 「ところでノボルくん?そこの行、データ一列ずれてるよ」

 慌てて藁半紙と資料を見比べると、確かに書き写した数字が一列ズレていた。僕は消しゴムで誤った記載を消し、正しい数値を書き込む。

 「ふふ、慌てなくていいよ。多分しばらくは誰も来ないから」

 「別に慌ててなんてない、たぶん慌ててはいない」

 否定すればするほどに櫻井みなみの言葉を肯定しているように思えて、僕は口をつぐんだ。

 「いろんなことを急に言われても困っちゃうよね。だから今日はここまでかな」

 櫻井みなみはそう言うと、両手を天井に向けて大きく伸びをした。僕はそこでようやく一息つく。

 「急ぎ過ぎは良くないよね」

 「そうそう、良くない」

 つい愛想笑いを返してしまう、こんな自分が嫌だ。

 「のんびり行きましょ」

 「そうしよう」

 こうして僕は櫻井みなみと普通に会話をするようになった。クラスでまともな会話をするのは滝沢に次いで二人目だ。そしてその影響からか、僕は次第にクラスメイトたちとも話をするようになる。ただ、その時の僕には自分のそんな変化など判るはずもなかった。

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