12「さん」

数年後。


久我は、陸上界で名前を刻んでいたが、この十ヶ月は、休んでいた。

理由は、妊娠である。


一夜は、保育士になっていた。

土筆幼稚園で仕事をしていた時である。

土筆幼稚園の電話が鳴った。

久我に陣痛があり、病院へ行ったと、連絡が来た。


そして、今、一夜は、朝彦と一緒に、分娩室前で待機している。


本当は、一緒にいるはずだったが、いきなりの陣痛で中には入れなかった。

中に入っているのは、夕海である。

母が一緒にいてくれれば、安心だと思っていたが、やはり、少し心配だ。


朝彦が、一夜に落ち着けと言い、分娩室前の待合室に置かれてある椅子に座る。

一夜は、朝彦の言う通りにしたが、やはり、落ち着かない。

両手を組んでいるが、両手の中には汗がジワジワと溜まっていく。


久我の無事と、赤ちゃんの無事を見届けるまではと思い、ふと、自分の手を見ると、そこには血管が浮き出ていた。


あれから、保育士になるには、子供と接するし、身体を鍛えなくてはとスポーツセンターに通って見ると、背は伸びなかったが、筋肉は確実に付いていた。

筋肉が付き始めると、手や腕の血管が浮き出てきた。

その血管の中には、話せなくても兄達がいると思い、一夜は兄達に久我と赤ちゃんの無事を祈り、胸の辺りに持ってきた。


祈っていると、分娩室の扉が開いて、母子ともに健康で、出てきた。


「久我、お疲れ様。ありがとう。」

「一夜……来ていたのね。…ありがとう。この通り、無事だよ。」


久我は、まだ、息が上がっていたが、一夜と話しをした。

一夜は、汗ばんだ自分の手を、エプロンで拭き、久我の頭を撫でた。


助産師が、赤ちゃんをやわらかいタオルで優しく丁寧に拭いた後、体重を測って、透明のベッドへ運ぶ。

その動作、三回だ。


「三人だなんて、本当に大変になるよ。でも、安心しなさい。私達は、自宅での仕事だから、協力はしやすい。久我さんは、私達にとっても娘だ。遠慮なく、頼りなさい。」


朝彦が、一緒についていた夕海に「付き添いお疲れ様」と言いながら、久我に言葉をかける。

夕海も朝彦の意見には賛成していると訊いて、久我は意識的には「協力してくれるんだろうな」って思っていたが、言葉に出して貰うと、安心感が違う。


「ありがとうございます。」


久我がお礼を言うと、夕海が、久我の手を握って、顔を合わせて頬笑む。

つられて久我も頬笑む。


「父さんも母さんも、ありがとう。」


一夜も、お礼を言った時、久我が一夜に声を掛けた。


「ね。一夜、名前、分かっているわよね?」

「もちろん。」


一夜と久我は、生まれたばかりの赤ちゃんを見て、ほほ笑み、あの時の兄達を思い浮かべた。


「「おかえりなさい。」」


つい、その一言が出てしまった。

今、産まれて来た子達は、兄ではないが、どうしても言いたくなってしまった。


病室へ戻ると、オレンジ色の夕焼けが優しく差し込んでいて、祝福をしてくれているみたいにやわらかかった。


終わり

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血の記憶 森林木 桜樹 @skrnmk12

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