第2話 存在し得ないはずのプロローグ

 俺には自分というものがなかった。別に比喩的な表現ではなく本当にないのだ。

 いわいる記憶喪失という状態にあるのだと思う。記憶喪失という言葉の意味は理解できてもその言葉をどこでどのように覚えたかその情報が俺にはさっぱりだ。

 というか一人称すら怪しい。俺、僕、私。いや俺だった気がする。

 こんな、なにもない俺だから浮かんでくるのは俺を走行中の馬車から投げ落とした青髪の男への恨み言ばかりだった。


(あの男は頭がおかしい)



(あの男次あったときは絶対に殺す)


 俺はいつの間にか馬車が走って行った山道を外れ森の中を必死にかけていた。得体の知れない化け物に追われているからだ。

 おそらく囮にされたのだろう。馬車には俺と同じ黒髪をした人が何人か眠らされていたが運が悪かったのだろう。

 暗がりでよく見えないが全長は2メートルほどで全身が灰色。

 四肢とは別に背中から一対の鋭利な刃物のような器官がいびつに突き出している。

 そうだ、もうあの男に次に会うことなんてない。靴も履いていないのによく走れていたと思う。


「…がっ!?」


 背中に鋭い痛みが走る。詰みだ。

 あの2本の凶器のどちらで脊椎を抉られたのか脳の司令が機能しなくなる。

 そのままうつ伏せに倒れ込む。肺が破られている。呼吸もできず苦しい。


『これでいい』


 そう俺の声がした。

 いや、いいはずがない俺は生きるためにここまで走った。

 生存本能にしたがって必死に、それがなんでこれでいいなんてことになるんだ。


『そうか、俺は死にたい人間だったんだ』


 それだけでも知れて、良かったと思った。

 薄れゆく視界の端で、ヒトの影のようなものが灰の化け物にぶつかる。

 金属音、夢だろうか、いや夢を見るには記憶という材料が必要だ。

 だか、俺にはそれがない。

 つまり現実だ。


「もういい」


俺はそう言おうとした。 



       

 パチパチという音を、聴覚が正確に拾い上げるついで触覚、湿っぽい土の上に仰向けで寝かされているのかひんやりとした感覚がある。

 それと同時に背中の中心から末端にかけてゾワリとした感覚がかけていき驚いて目を開ける。光が網膜に像を移しだす。

 先程と変わらない森だ。しかし先程とは異なり日は完全に落ちておりこうして俺が森を認識できているのは近くに光源があるおかげだ。

 起き上がり本能的に光の方へ向う。


(焚き木だ)


 そう認識した向こう側次の瞬間に時間が止まった。

 ゆらゆらと燃える炎の向こう側に彼女はいた。

 厚い雲を下から眺めたような灰色の髪長くウェーブがかって、エンブレムも何もないような無骨な漆黒の鎧をまとっている。

 恐ろしく整った顔立ち。

 しかし、肌は病的なほど白くかすかな息遣いによって体が動いていないと精巧にできた人形かなにかだと勘違いするであろう。

 そんな彼女が木に寄りかかって寝ている。俺にはこの状況がさっきの化け物よりよほど異常に映った。

 ここから指を一本でも動かしてしまえば彼女がふっと消えてしまうそんな感覚に陥る。 

それならばずっとここから眺めていたい。

 しかし、俺が起きて来た物音のせいだろうか彼女がまぶたを開ける髪と同じ灰色の眼。その視線が俺とぶつかる。

 世界一鮮やかなモノクロームだと直感的にそう感じた。

 彼女は最初驚いてそれから泣きそうな笑顔を浮かべて心配そうな顔になった。

 あまりにもころころと表情が変化するので少し可笑しかった。


「君は生きているのか?」 

 

俯いて放ったその言葉は数多の感情を押し殺しているのか震えている。 


「……俺生きてます?」


その言葉に彼女は嬉しそうにうなずく


『あなたが天使じゃないならば』


そんな芝居めいた思いつきのセリフを言わなかったのはあまりにも俺らしくないと思ったからだ。同時に思考する


『あの人ならばこのセリフも似合っただろう』


 あの人の輪郭が一瞬だけ像を結ぶがすぐにあやふやになってしまう。

また、一つ思い出せた。

 そして思い出せたのは間違いなく目の前にいる彼女のおかげだ。 

 

「君、名前は?」


 彼女の質問が続く残念ながらその質問の答えを俺は持ち合わせてはいないさっき思い出した輪郭に答えを聞こうにもこちらを呼ぶ声は音を発してはくれなかった。

 ただ口の動きで二文字か三文字か。


「……わかりません」


「……そっか」


 彼女が悲しそうに目を伏せる会話が途切れる彼女に聞かなければならない事が無数に存在するのにうまく言葉にできそうにない。

 さっきの化け物のこと。

 記憶喪失の理由。

 この世界のこと。

 それにさっき背中を貫かれたそれが綺麗サッパリなかったことになっている。

 いや傷自体は見てはいないつまり幻覚か。


(どこからが?)


 情報の膨大さに頭がきゅっとなり考えをまとめようと彼女から目線を外し地面を見る。     そんな俺の様子を心配してか彼女が隣に座る。


「大丈夫だよ」



「……」


 その言葉さえも心に広がっていく不安を完全には消し去ってくれない。

 記憶はない。ただ肉体だけが生きながらえている。だから心に指針がなくどのように生きればいいのかわからない。

 この体勢のまま臓器がじくじくと腐り落ちていくそんな感覚に襲われる。

「いいもの見せてあげる」

そう耳元で囁かれた。ごくごく小さな声でさっきの距離ならば聞こえなかっただろう。

 彼女が立ち上がり焚き木に向かい手をかざす。その瞬間奇跡が起こった。

 現れたのは炎の蝶だった。

 一匹ではなく何匹もの蝶の群れそれらが個として動き回る。

 飛んでいるのにどこか溺れているような羽の軌道。

 止まっているときのその羽を休ませるための上下の僅かな動き。

 それが焚き火の中にある。

 記憶を失くす前の自分が蝶に抱いていたありとあらゆる感情が呼び起こされていった。 ふっと蝶が霧散していく彼女が手をかざすのをやめたからだ。


「……すごい……でもどうやって」


彼女がニヤリと得意げに笑う


「魔法」


それから唐突に後ろを向き腰の上まである長い髪をかきあげ首を露出させる。

 見ると首から脊椎にそうように三本線の入れ墨が彫られておりそれを露出させるように彼女の鎧は鋭角な逆三角形に切り取られていた。 


「魔式って言ってね。これに魔力を流すと特定の現象を引き起こせる」


なるほど、理屈はなんとなく理解できる魔式とかいう入れ墨も暗がりで赤く光っているのでただの入れ墨でないのは確実だ。

 魔法、魔法かたしかに今のは魔法ではあったただ魔法を見せられたからと言って


(魔法ですか)


と許すことは脳が拒んだ。

 

「君にも使えるようになるよ。君にはその力があるからね」


「だから未来を悲観することはない。君は幸せになる」


 えらく真面目な顔の彼女その灰色の双眸に見つめられ俺はこくりと頷く。

 よしっと頭を撫でられる。こういう子供っぽい扱いはやめてほしい時期らしかった。

 彼女が質問を要求する。

 一つ大切な質問を思いついた。


「あなたの名前は?」



「アシュリス……よろしくね!」


 彼女がくすりと笑いながら答える。

 彼女の笑ってる表情はとてもかわいらしい。


「アシュリスさんよろしくお願いします」


「……アシュリスでいいのにアッシュって呼んでくれてもいいよ」


「アシュリス……さん」


「むぅ」


 なんとなく女性を呼び捨てするような人間ではなかった気がする。ていうか勘弁してほしい。





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