11

どれくらい、友梨佳を抱きしめていたんだろうか。よくわからないけれど、ある時ふっと彼女に体を押されて、僕はつい彼女を離してしまった。

僕の体にはまだ、彼女の体温と、ほんのり甘い匂いが残っていたけれど、それ以上に、心臓が無くなったみたいな喪失感に苛まれてて、まだ彼女を抱きしめていたかった、そんな思いに駆られていた。

だけど、それはできなかった。

また、彼女のあの軽さを味わうのが、怖くて。それでも胸は肌寒いような感じがして。

何も、できなかった。俯くことしか、それだけしか、できなかった。

「帰ろっか」

友梨佳の声がした。

ふいに聞こえたその声は、僕にとっては救いの手にも似たようなもので、彼女に言われるがまま、僕は顔を上げて、できるだけ後ろを向かないように、車に向かって歩いて行く。

戻っている最中、僕は、無駄な事ばっかりを無理やり考えていた。

そういえば、車は路上に勝手に停めているから、もしかしたら警察とかに通報されていたらどうしようかな、そういえば、路駐ってなんか罰則あったっけ、あー。

ああ、やめよう。

やっぱり、駄目だ。

無理やりくだらないことを考えようとしても、頭の片隅には友梨佳がいる。見ていなくても彼女の姿が、匂いが、感触が。

『ごめんね』の一言が。

どうしても頭にちらつく。そのたびに、胸が締め付けられる。呼吸がしづらくなる。温度が、消えていく。

それから歩いている間、僕らは一言も喋らなかったし、手を繋いだりすることも、目を合わすことすらしなかった。

ただそっと、お互い隣にいた。それだけだった。

そんな距離感が、僕はどうも寂しくて、それでもこれ以上、近づけなかった。

やがて車までたどり着くと、僕は運転席に座ったものの、なんだか動きたくなくて、だるくて、重くて。

とても運転する気には、なれなかった。ハンドルを握ることも、ままならなかった。

もしも。

もしもこのまま、ずっとこうしていたらどうだろう。ずっとこうして、じっとしていたら。何も起こらないで、何も変わらないで、済むだろうか。

現実逃避でも、なんでもいい。誰に何を言われようとも、どれほどみっともなくても、今更どうでもいい。

友梨佳が、ずっと僕のそばにいてくれる。それだけあれば。

――ふと、僕は助手席の友梨佳へと目をやる。

彼女は、窓の外を見ていたけれど、サイドミラー越しに、ちらりと彼女の表情が見えた。

夕焼けに照らされた、友梨佳の表情。彼女は、まぶしさに目を細めながらも、一つの表情を湛えていた。

えっ。

いや、そうか。

僕は、黙って車のエンジンをかけ、そして車を走らせた。車内がぐらりと揺れて、僕は前を向く。

僕は一つ、思い違いをしていた。

というより、考えてもいなかった。

僕は、僕だけのことしか考えていなかった。だから、知らなかったし、気づけなかった。

でも考えてみれば、当たり前のことだ。なのに、僕は、ついさっき、ようやく気が付いた。

彼女の。友梨佳の、サイドミラー越しに映った、表情。

歯を食いしばり、身を切られるような苦しみを、悲しみを、必死で押し殺してて、それでも涙が滲んでいる、あの表情。

それを見て、やっと僕は気が付いたんだ。

誰よりも、僕よりも、辛いのは、苦しいのは、彼女だった。

自分がもうすぐ、再び死ぬと分かっていて。

ろくに友達に別れも告げられず。

誰も頼りにはならなくて。

それでも、僕を立ち直らせようとしてくれる、友梨佳。自分の感情を押し殺して。自分の本音も隠し通して。それでも僕を思ってくれた、友梨佳。

僕は彼女に、甘えているだけだった。

やっとそこまで頭が回った瞬間、僕は口の中に鈍い痛みと、鉄臭い血の味を感じた。

寒気にも似た罪悪感が、体を駆け巡った。

友梨佳が、彼女の中に湧き上がってくる不安も、恐怖も、悲しみも、全部抑え込んで、僕にしてくれたこと。

それは、僕がするべきこと。言葉にすると、ひどく端的なもの。ほんのわずかなこと。たった一つ。

けれど、できない。

僕にはまったく、できそうもない。





それから車を返して、家に帰るまで、やっぱり僕らは何も喋らなかった。さっきと同じように、お互いそっと、隣にいた。さっきと違うのは、僕がわざと、彼女の顔を見ないようにしていたことだった。

そして、帰ってからも、僕らは何も喋ることなく、かといって何か行動を起こすわけでもなかった。

ただ、思考だけは、目まぐるしく動いていた。けどそれは全部、まとまりのない、滅茶苦茶な考えに過ぎなかった。

友梨佳の表情。滲んだ涙。罪悪感。『ごめんね』の一言。今のこの空気。カラオケの記憶。友梨佳との思い出。思い出。思い出。

――ああ。

分かったはずなのに、もう駄目だって知っているはずなのに。

僕はまだ、彼女と一緒に居たい。彼女と一緒に、生きていきたい。

「...友梨佳」

僕はまだ、そんな望みに囚われている。

「...友梨佳が、なんとか消えないで済む方法...探さない...?」

何か、希望があるわけじゃない。どうしようっていう、プランがあるわけでもない。

だけど、もう、なんでもいいから、僕は少しでも、可能性のある方へ行きたい。

彼女と一緒にいられる未来。それがある方へと。

「...蓮」

ぎゅっと、僕の服が握られる感触がした。僕は友梨佳をの事を、見れない。

そして彼女は、喉の奥から、絞り出すように。ほんとは言いたくないかのように、頼りない声で。

「駄目だって...言ってるじゃん...」

震える声、わずかな感触。

心臓が、切られたように痛んだ。一瞬、ほんの一瞬、息が詰まった。

彼女を、また、悲しませた、いや、傷つけた。

その実感は、確かに僕の全身をめぐって、やがて嫌な汗をかかせる。変に鼓動が早まって、背中がズシンと重くなって、徐々に、徐々に。

やってしまったことの重みが、のしかかってくる。

いや、でも、仕方がなかったんだ。だって、僕は友梨佳と、ずっと一緒にいたくて、なんでもいいから、少しでも望みを追いかけたくて、それで。

――ふと、僕の服が、再びぎゅっと、握られる感触がした。

何か言葉があった訳でもない、彼女の顔を、見たわけでもない。それなのに。

そのたった一つの行動に、僕は、思い知らされた。

彼女が、どれくらいの思いで、僕をあそこに連れて行ったのか。

その決意までに、どれだけ悩んだのか。

僕の言葉に、何を思ったのか。

そして僕に、どうあって欲しいのか。

そうだ、何も言い訳はない。

傷つけたのは、僕だ。

彼女の思いを、全部踏みにじった。

それなのに。

彼女はまだ、僕を想ってくれている。

「...ごめん」

それ以外に、言う言葉も、考えるものも、見つからなかった。

僕はもう、何も言わず、うずくまっていることで、精一杯だった。

彼女の望んでいることは分かっているのに、それなのに。

僕は、動くことができない。





「蓮...」

ふいに、友梨佳がぽつりと、話しかけてきた。

あれから、どれくらい時間が経っただろうか。

数十分くらいな気もするし、何時間もこうしていた気もする。というより、時間そのものがどうでもよくなっていた。

とにかく、時間の感覚はほとんどなくなっていた。

僕は結局、ずっとこうして、部屋の中で座りながらぼうっとしていた。頭は靄がかかったみたいになって何にも考えられないし、体を動かす気も起きない。彼女の言葉に何かを返そうとしても、口が重い。

そういえば、こんな風に、何にも無気力で、何にもしたくない。こんな状況が、前にもあったような。

少し前、わりと最近に。

ああ、そうだ。

ちょうどこれ、彼女の葬式の後に、似ている。

あの時もこんな風に、何にも考えずにぼうっとしていた。

けれど、あの時とは、大きく違う。一つだけ、確かで、大切な事がある。

今は、僕の隣にはまだ、友梨佳がいる。

それだけで僕は、後悔でいっぱいのはずなのに、どこか安心していた。

「何...?」

だから、そのおかげで、かろうじて声が出せた。声を出して、友梨佳を見ることができた。

風が吹けば、今にも崩れてしまいそうなほどに、儚い表情をした彼女を見れた。

「ちょっとさ、私の話、聞いて...?」

突然の、彼女からの申し出。正直、僕はどうしようか、一瞬迷った。

けれど僕はなぜか、これを聞かなくちゃいけない、と、何か使命感めいたものに背中を押されて、ゆっくりと僕は首を縦に振る。

「...ありがとう」

そして彼女は、息継ぎをするみたいに一瞬黙って、それからゆっくりと口を開いた。

「私、実は蓮と付き合う前の...高1の時さ、彼氏がいたんだ」

「...そうなんだ」

僕は少しだけ驚いた。

だけど、今、この状態では、そんなにリアクションなんてできそうにない、現に今僕は、じっと彼女の話を聞いているだけだ。

「でも、すぐに別れちゃった」

「合わないとこは色々あったんだけどさ、一番嫌だったのは」

「私の好きな物を、隠さなきゃいけなかったこと」

「それが、一番苦しかった」

友梨佳は、ゆっくりと、話し始めた。

昔、その彼氏とテレビを見てた時、たまたま友梨佳の好きなアニメが出てきたこと。

そして、当時の彼氏が、それを小馬鹿にするようなことを言ったこと。

それから彼氏に引かれるのが嫌で、バレて、誰かに言いふらされるのが怖くて、自分の趣味を隠しながら、相手に合わせて付き合っていったこと。

でも結局、我慢ができなくなって、苦しくなって、別れてしまったこと。

全部を、僕は余すことなく、じっと黙って、相槌も打たずに聞いていた。

かろうじて、頷くくらいはしてたけど。

「で、その後かな、なんか冷めちゃって、もう恋愛はいいかなって思ってたんだけどさ」

「2年になって、蓮に会った」

「初めて出会って、仲良くなって、どんな私でも、受け入れてくれた。受け入れて、一緒に...笑い合ってくれた」

「...嬉しかったんだ」

「初めてっ...心からの私が出せてっ...」

彼女の声が、詰まりだす。息が荒くなっていって、それでも、彼女は少しずつ、必死に言葉を紡いで、声に出していく。

そんな彼女の姿を、僕は、ただ黙って見ている事しか、できなかった。

きっと、何か、彼女に声をかけることだって、できただろう。そんなチャンスはいくらでもあった。

だけど、できなかった。

そんな僕が、情けなくて、ひどくみじめに思えて。

――やっぱり、僕はまだ。

「一緒にゲームしたり...イベントも、誰かとアニメ一緒に見るのも...旅行だって...初めてでぇっ...」

彼女の言葉を、ひとつひとつ、こぼさない様に、大切に聞いた。そのたびに、思い出が駆け巡る。

今までの、大切なもの。そのひとつひとつが、鮮明に。

映画館で出会ったこと、一緒に旅行に行ったこと、二人っきりでの映画、合格祈念の初詣、二人だけの打ち上げ、卒業旅行、入学式、サークル体験、旅行、喧嘩、仲直り、そして。

僕たちの、名前もない、何でもない日々。二人で過ごした、かけがえのない日々が。

思い出すほどに、胸は締め付けられて。

感情が、湧き出てくる。必死で蓋をして、抑えようとしても、できないほどに。

「全部っ...楽しかった...」

「本当にっ...ほっ...ほんとうにっ...」

友梨佳の声が、もはや言葉を出すことすら難しくなるほどに、震えていた。

それなのに。もう、息をすることすらも苦しいはずなのに。

なのに彼女は、喋るのをやめようとしない。

僕を、潤んだ瞳でしっかりと見据えて、口を必死に動かす。

もう。

もう、いいんだって、伝えたかった。

もういい。もう気持ちは、十分すぎるほどに伝わったから。

お願いだから、もうやめてって。

これ以上、これ以上、喋られたら。

きっと、僕が辛くなってしまうから、やめてって。

そう言いたかったのに、今、彼女の姿を見ているから、僕は何も言えない。何も言わないから、そのまま、彼女はゆっくりと口を動かす。

「私っ...幸せだったっ...」

「できっ...できるならぁっ...」

彼女は、やがて、もうだめだと伝えるかのように、目から一粒の雫を落として、もう限界なはずなのに、それでも、まだ、彼女は。

喉を震わせ。

涙をこらえて。

「私もっ...ずっと蓮と一緒にいたかったっ...」

心の内、その全部を、僕に、伝えてくれた。

それで、ようやく。

ようやく僕は、受け入れることができた。

「友梨佳...」

僕は、彼女の名前を呼んで。

「友梨佳っ...っ」

彼女を、抱きしめた。

彼女の存在、全部を感じられるように。今ここにいる、彼女を、少しでも強く、確かめられるように、そして。

この感情を、少しでも伝えられるように。言葉にできない、この気持ちを。

「蓮...っ」

そうしていると、友梨佳は。

僕を呼んで、僕を。

優しく、強く、ゆっくりと、そして。

力なく、抱きしめてきた。

彼女がしたのは、たったそれだけのことだけれど。

それだけで、僕を壊すのには、十分だった。

今まで必死に抑えてきた感情が、全部、全部、出てきて。

もう、止められなかった。

「うっ...あっ...ああっ...」

僕の視界が、歪んでいく。

「あっ...うっあ....あっ...」

「あっ...ぐっ...うっ...うああああっ...えぐっ...うあっ...」

嗚咽と、涙が、喉の奥からこみ上げてくる。

胸の奥から溢れてくるそれを、なんとか抑えようとした、けれどできなくて、僕はただ、彼女をぎゅっと抱きしめながら、感情のままに、泣いていた。

本当は。

本当は、もうずっと前から、わかっていたんだ。

分かっていて、知らないふりをしていた。ありもしない希望を、ずっとずっと信じていた。

戻ってきてくれた友梨佳と、これからもずっと一緒にいられる。何もしていなくても、何かをしていても。

ずっと笑っていられる、そんな日々が、これからも続くって。

そんな希望を、ずっと追いかけていた。

でも。

そんなものは、最初っからなかったんだ。

そんな簡単なこと。そんな当たり前なことから、僕はずっと目を逸らしてきた。

けれど、けれど。

それは駄目だって、友梨佳は教えてくれた。

僕はそれを、何度も拒絶してきた。それでもそのたびに、友梨佳は自分を傷つけてでも、何度でも、何度でも。

僕と向き合ってくれた。

だからもう、僕は。

思うと、胸が、張り裂けそうに痛い。

今にも、目を逸らしてしまいたい。いっそのこと、目を潰してしまいたい。

それでも、僕は認めなくちゃならない。きちんと見つめて、ちゃんと向き合って、そして。

受け入れなくちゃいけない。

彼女はもう、死んでいるということを。

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彼女はもう、死んでいる。 くろいきつね @Kuroino-Kitsune

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