12

彼女の腕の中で泣き続けて、ようやく僕は、顔を上げることができた。顔を上げて、僕は友梨佳を見つめる。

彼女はまだ顔を曇らせていたけれど、僕と目が合うと、どこか慈しむように、真っ赤に腫らした目で柔らかく微笑んで。

「蓮」

「ありがとね」

と言って、また、わずかに抱きしめてくれた。本当にそれを言うべきは、僕のはずなのに。

彼女には今まで、沢山辛い思いをさせてきたのも。

沢山、我慢をさせてしまったのも。

心を傷つけてしまったのも。

全部僕だから。

だから僕は、決めたんだ。

彼女がいなくなる、最後の瞬間まで一緒にいて、そして。

ちゃんと、友梨佳に別れを告げるって。

それが、彼女がずっと望んでいたことで。

僕ができる、最後の事だから。








それから僕らは、どっちかがはっきりと決めたわけでもなかったけれど、僕の家に居る事を選んだ。

僕らはとりたてて何か特別な事をしているわけでもないけれど、なぜかこうして、二人で隣同士、座っているだけの時間は、いつもよりどこか、濃密なように思えた。

「ねぇ、蓮」

ふいに彼女の声が聞こえた途端、肩に、ふわっとした軽い何かが押し付けられたような感じがした。

僕は一瞬何をされたのか分からなかったけれど、ちらっと横を見てようやく、彼女が僕に頭を預けたんだと分かった。

慣れない感覚に少し戸惑っているあいだに、彼女は続けて。

「何で私ってさ、また蓮に会えたんだろうね」

彼女は自然に、さらりと、何気ないようにそう言った。

そういえば、色々あって、考えてる暇はあんまりなかったけれど、確かにどうなんだろうか。

「さぁ、何か覚えてることないの?」

「いやーわかんない、ってかいまいち覚えてる事もないしね、私」

まぁ、そりゃあそうか。むしろそうじゃなかったら、色々おかしいよな。

「まぁ、蓮があんまりにも私の事引きずるから、見てられなかったんじゃないかな」

「いやそれは...まぁ、そうかも」

僕は、彼女が死んだ直後の僕を思い出した。何もできず、何もせず、ただ無気力に、現実から目を背けているだけの僕。ただ死んだように、ぼうっとして、毎日を過ごしていただけの僕を。

友梨佳がまた来てくれなかったら、今もそうしていたんじゃないか。

それだったら見てられないといえば、うん、それはそうだ。

「ほらほら、やっぱり蓮ったら私の事大好きなんだから」

彼女はぐりぐりと押し付けるように頭を動かしてくる。別に痛くはないけれど、髪の毛が首らへんにすりすりと触れてきて、くすぐったい。

しかし、友梨佳のことが好きっていうのは否定できない、だって僕にとって、彼女は、なんというか。

「だって、初めてできた彼女だし...それにさ」

「誰よりも一緒にいて、楽しい人だから」

一緒にいて、なんとなく楽しい人。どこか、安心できる人。どんな時でも、そっとそばにいられる人。

僕にとって、彼女はそんな人だった。

こんなことを言うのに、不思議と恥ずかしさとかはなかった。むしろ本心を言えて、ちょっとスッキリした。

それから僕が反応を待っていると、彼女はしばらく黙った後。

「いやぁ~」

と、また頭をぐりぐりとしてきた。さっきからあんまりにもくすぐったくて、勝手に体が動きそうだけど、僕はなんとかこらえた。

「何か照れるなぁ、そんな急に告白みたいな事言われるとさぁ」

彼女はどこか浮ついたようにそう言って、そして。わずかに一呼吸置いた後。

「...そりゃあ私だってさ、楽しいよ」

ぽつり、とそう呟いた。

僕はいま、彼女とこうしてくっついているから聞こえたけれど、少しでも離れていたら聞こえなかっただろう。

それほどに小さく、消え入りそうな彼女の声は、やけに僕の心に引っかかって、彼女との会話を途切れさせた。

「って、なんかしんみりしちゃったなぁ、いっけないいっけない」

僕が何も言わずにいると、彼女は急に僕から頭を離すと、笑いながらそう言って。

「そうだ、蓮、何か飲む?」

と、立ち上がった。

確かに、散々泣いたし、喚いたし、帰ってから何も口にしてなかったと思い出すと、急に喉が渇いてきた。

「ああ、うん」

僕は友梨佳に続いて立ち上がると、彼女はくるりとキッチンの方を向いて。

「ん、じゃあ何か出そっか」

そっちに向かって歩き出したから、僕はその背中を追いかける。こんな何気ないやりとりが、今はやけに愛おしく思えて、そして。

なんだか、寂しく感じた。

それから僕らは適当なお菓子とか飲み物を用意して、テーブルに隣同士で座る。ちなみにお酒はなかったので、飲み物はジュースだ。

「あのさ、友梨佳」

ふと僕は、彼女に話しかけていた。あんまり大した話題はないけれど、なんとなく。

「んー?何?」

彼女は僕に顔を向けると、なぜかそのまま僕の肩を軽く叩いてくる。

友梨佳のその行動が、肩に残る、わずかな感触が、ほんの少しだけ気になったけれども、まぁ、いいか。

彼女は声色も、表情も、すっかりいつもみたいな調子に戻っていた。

「いや、特に何もないけど」

「ないんかい」

正直、何も話題もなく振っただけだから、とりたてて喋ることもなかった。その事を伝えたら、彼女はずっこけるみたいに、がくっと頭を下げた。

そんな、どこか気の抜けるような彼女を見て、僕は言う。

「いやー、ちょっとさ」

「なんでもいいから、話したくって」

すると、彼女は目をぱちぱちとさせて、それから。

「蓮」

「私も、そう思ってた」

と、軽く微笑みながら言ってきた。

さっきみたいににやけたり、頭をぐりぐりと押し付けたりせず。

どこか距離すら感じられるような、笑みだった。

僕はジュースを一口飲んだ。そして、なんとなく思ったことを、とりあえず口に出す。

「...こうしてさ、二人で静かに飲むのって、何か久々じゃない?」

飲んでるのはジュースだけど、まぁそこはどうでもいいだろう。

「そう?こないだの旅行でもやってなかった?」

「あれは外で飲んでたし帰った時酔いすぎてわけわかんない事になってたでしょ」

「何を言う、私はお淑やかに飲んでたよ」

「僕を誘ったくせに」

「エッチにね」

「言うな、せっかく濁したのに」

彼女はゲラゲラと、いささかオーバーに笑いながら、僕の肩に手をのせてきた。お酒も入ってないのに、そんな笑う?

そんなことを思っていると、彼女は急にふっと、落ち着いたように笑うのを止めたもので。

「急に落ち着かないでよ、びっくりする」

「ずっと笑ってた方がよかった?」

「いやそういう事じゃないけど」

「じゃあいいじゃん、ね」

そう言うと彼女は少しの間、メトロノームみたいに僕に寄りかかったり、一瞬離れたりを繰り返して、やがてピタッと、僕に寄りかかったまま動きを止めた。

結構勢いがあったはずなのに、僕は全く、当たってきた感触も、頭の重さも、感じられなかった。

「あのさ」

「もうちょっとだけ、こうしてていい?」

どこか、彼女らしくない言葉。いつもだったら、わざわざ聞かずとも、勝手にくっついてるはずなのに。

「え...」

僕は正直、戸惑っていた。彼女の意図が、気持ちが、読めなくて。うんとも言えずに、彼女を見つめていた。

そんな僕を見て、彼女はさらに、たたみかけるように、焦っているみたいに、言葉を繋ぐ。

「嫌?じゃあさ...命令」

「命令...?」

「忘れたの?ほら、旅行でさ、ビーチバレーで負けた罰ゲーム」

「あー...」

そういえば、そんな事もあったっけ。あの旅行は色々ありすぎて、すっかり忘れていた。

「思い出したのなら...命令」

彼女は僕にもたれながら、ゆっくりと口を開く。

「もう少しだけ...こうさせて」

僕は断ることも、何か言葉を返すこともなく、ただ。

彼女を、受け入れた。

すると、すぐに隣で。

「...ありがとう、蓮」

「ありがとう...っ」

本当に、小さかったけれど、そんな声が聞こえたから、僕は隣でもたれる友梨佳を一目見た、けれど彼女はどうしてか、そっぽを向いていた。

それから特に何もない目の前の部屋の景色を、ぼんやりと眺めていた。






いくらか時間が経った。ずっと同じ態勢でいるのも少し疲れてきたし、足がしびれてきたから、少し動きたくなった。

「ねぇ、友梨佳」

「ちょっと、そろそろ動いていい?」

僕は少し待った。

返事は、なかった。

僕の声は、そのまま部屋の静けさに、飲み込まれていった。

「...友梨佳?」

どこか異様な、何かが抜け落ちたみたいな、そんな違和感を感じて。ゆっくりと、僕は横を向いた。

そこで、気が付いた。いつの間にか。

何かが触れる感覚も、ほのかに感じていたぬくもりも、わずかに聞こえていた息の音も。

全部が、なくなっていたことに。

横を向く。視界には、がらんとした部屋ばかりが映っていて。

そこにはもう、友梨佳はいなかった。

「...え」




「...あ」




「...は?」




ぐるりと、部屋を見渡した。キッチンがある。テーブルがある。その上には、二つのコップが置いてある。

テレビがある。ゲーム機がある。二つのコントローラーが床に置かれてる。

棚がある。がらんとしたスペースがある。床の上に、二つの座布団がある。

そして、部屋には、僕一人だった。

それ以外には、誰も、いなかった。

「友梨佳...?」

ぽつりと、呟いた。

部屋は、静かなままだった。

「友梨佳...」

なんで。

なんで、今、ここで。

「あっ...」

そう思った瞬間、ついさっきまでの、彼女の言葉が、姿が、行動が、全部が一瞬にして、思い起こされた。

そういえば、友梨佳は、どこか様子が変だった。気持ちの上がり下がりが激しいような気がしたし、表情だってそうだった。それに、やけに僕にくっついてきていた。

まさか。

まさか、彼女は。

「ああっ...」

波のような後悔が、押し寄せてくる。まだ、まだ、沢山あったのに。やりたいことも、やれたはずのことも。

もっと彼女と喋れたはずだ。

もっとそばにいられたはずだ。

もっと笑い合えたはずだ。

それなのに、僕は何もできなかった。

彼女ともっと話しあうことも。

彼女のそばにいることも。

彼女と共に、笑い合うことも。

さよならを言うことすら、できなかった。

「うっ...あああああああああああああああああああああああああああっっ!!!!ああああああああああああっっ!!!!」

また、とめどなく溢れてくる。

とっくに、枯れたはずの涙が。忘れていたはずの、この孤独が。そして。

言いたかった、沢山の言葉が。

僕はまだ、君のそばにいたかった。

最期まで、喋っていたかった。

僕らの、今までの、くだらない、大切な思い出を。

最期に、伝えたかった。

もう。

もう。大丈夫だよって。もう、安心してほしいって。

もう、君に執着して、僕を犠牲にしたりしない。君が死んだ事を認めて、そして。

前に進んでいくから、安心してって。

そして。

「あああああっ...あっ...うっ...」

空気の塊が、喉の奥につっかえて、えずきが止まらない。けれど、それを全部押しのけて、言葉が出てくる。

たった一言、どうしても言えなかった言葉。

ずっと、思ってきた。

ずっと、感じてきた。

けれど、言えなかった。そんな言葉が、どうしようもなく強く、今。

「友梨佳...っ」

「ありがとう...」

必死の思いで、声に出した。息が止まりそうになりながら。吐きそうになりながら、必死に。

けれど、それを誰も、聞いてはくれなかった。

もう、どんなに叫んでも、伝えられない。

どれだけ泣いても、届かない。

友梨佳にしてもらった事を、何も返せていない。

僕は、僕は。

何も、できなかった。何も...

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