8
ピピピッ ピピピピッ
やかましいアラームの音で、夢の中だった僕の意識は、ゆっくり現実へと引っ張られる。
僕はまだ靄がかかったような意識の中、とりあえずこの騒音を何とかして止めようと、目は閉じたまま、音のする方向へ手探りを入れる。しかし。
「ん...?」
どうにも、手が届かない。いくら音の方へ手を動かしても、何か柔らかいような、硬いような変な物に当たるばかりで、一向にアラームへとたどり着かない。
「んむ...?蓮...?何...」
――友梨佳の声がした途端、ぼんやりとしていた思考は一気に活性化し、そして一つの結論に達し、僕はゆっくりと目を開ける。まさか。
「...おはよう」
僕が触っていたこの柔らかいような、硬いような、変な感触をしたもの。これは間違いなく。
友梨佳の、胸だった。
「...蓮?これはどういう事かな?」
目を開け、真っ先に飛び込んできたのは、引きつった笑顔をした友梨佳だった。彼女は表情こそ笑顔だけどその声にはドスが効いていて、今にも刺してきそうなほどだ。
「...うん、ごめん」
僕はぱっと彼女の胸から手を離し、謝ってみる。
だけど僕は知っている。こういう場合、友梨佳の性格的に多分返ってくる答えは。
「やだ」
知ってた。
それから僕たちはまたホテルでさっと朝食を済ませると部屋に戻り、僕らはいらないゴミを捨てて、着た服を畳んでリュックにしまったりをして、二人とも帰る支度をし始める。前にも言ったが、今日はこの旅行が終わって、家に帰る日だ。
こんな風に後片付けをしていると、僕はいっつも、旅行の事を思い返してしまう。特に今回は、なおさらのことだ。
「いやぁ...にしてもさ、色々あったよね」
どうにも何かがし足りないような、そんな名残惜しさを感じながら帰り支度をしていると、無意識のうちに口から言葉が漏れ出てきた。
はっと気づき、僕は友梨佳の方を見ると、彼女もまた、笑いながら。
「うん。本当に色々あった」
「喧嘩もしたし、驚いたことも沢山あるから、でもね」
「私はさ、行けてよかったって思ってるんだ」
彼女は澄み切った笑顔をしながらそう言い切ったものだから、僕はついつい彼女の顔をまじまじ見てしまう。
すると友梨佳は途端に照れくさそうに笑いながら、僕から顔を背け、そして。
「あんまりジロジロ見ないでよ」
なんてことをぼそっと言ったものだから、僕は笑いながら「ごめんって」とだけ言って、また支度を再開する。
僕も、彼女と旅行に行けて、よかった。嫌なことも色々あったけれど、悔いはない。
それでもやっぱり僕の中には、どこか薄寂しい感情が渦巻いていた。
それから荷物を整理し終え、シーツや布団のしわをしっかりと伸ばし、すっかり綺麗になった部屋を一瞥し、二人そろって部屋を出ると、僕らは迷うことなくエレベーターに向かう。
少し早歩き気味の友梨佳の後ろをついていき、エレベーターに乗って一階へたどり着くと、彼女は僕の手を引いて受付に行き、そそくさとチェックアウトを済ませてしまった。
ていうか、さっきから彼女はどこか、急いでいるようにも感じる。何かあるんだろうか。
いや、まぁいい、あんまり詮索されたくないこともあるだろうし、やめておこう。
スタッフさんの『ありがとうございました』の声を聞きながらホテルを出ると、そのまま事前に呼んでいたタクシーに乗り、駅の名前を言うと車はそこに向かって走り出した。
それからしばらくすると、特に何事もなくタクシーは駅に到着した。料金はすでに支払っていたので、空いたドアからそのまま外に出る。
「ありがとうございました」
彼女はタクシーから出る際、そんなことを言っていた。まぁ、別に今までもたまに言っていたのだけど。
それはさておき、僕らはそろそろ新幹線に乗って帰るわけなのだが、その新幹線が来るまでにはまだ時間が少しばかりあった。
なので僕らはこの時間、駅の周りをふらついてお土産などを買う予定だった。なのだが。
「あー...私はお土産買わなくていいや」
どこでお土産を買おうか、なんて話を彼女に振ったら、彼女ははっきりと『お土産は買わない』と言った。
旅行に行く前はあんなに楽しそうに、お土産の事を調べたりもしていたのに。やっぱり、昨日のあの事が。
「...そっか、じゃあ僕も買わなくていっか」
ていうか、そもそも僕にはお土産を渡すような相手はいない。強いて言うなら両親だろうが、別にあの人らはあんまりお土産とか興味ないだろう。
「ん、わかった。じゃあどこで時間潰そっか」
「どっかいいとこあるかなぁ」
そんな僕の人間関係を理解しているのか、彼女は何も言うことなく、僕と一緒に次の予定を考え始める。
それからしばらく考えてみたけれど、結局いい場所は思い浮かばなかったので、お昼ご飯の予定を少し繰り上げてちょっと遠くにある有名なラーメン屋に行くことになった。もちろん歩きで。
例のラーメン屋は有名店ということもあり、お昼前なのにそこそこ人が並んでいた。この暑い中、並ぶのはあんまり気は進まなかったけれど、彼女の『せっかく最後なんだからさ、悔いのないように美味しいもん食べたいじゃん』という言葉に気圧され、並ぶことになった。
しかし実際に食べ終わってみると、やっぱり有名店なだけあってラーメンはかなりの味で、旅行の〆にはふさわしいと言わざるを得なかった。
美味しいものを食べれたという満足感を抱えながら僕らは駅まで戻ると、ちょうどよさげな時間帯だったのでプラットホームに入り、新幹線に乗った。
新幹線が発車すると、また何かが足りないような、空虚な寂しさに包まれて、僕はつい窓の外を眺めてしまう。
やっぱりもう少し、彼女と旅をしておきたかった。
「残りの休み、何して過ごそっかなぁ、ねぇ蓮」
「え?僕?」
感傷に浸りながら窓の外を見ていると、彼女が急に話しかけてきたものだから、僕の意識は急に現実に引き戻される。
いや、それはいいんだけど。
「別に考えるの後で良くない?てか今日明日はゆっくり休むよ僕は」
「...確かに、後でいいじゃん」
「その発想なかったの?」
友梨佳はごまかすようにふふっと笑い、それから。
「ま、今度また一緒に考えようね」
と言い、大きく伸びをした。
まぁ、今度なら全然いいか。
僕がそのことを伝えようとしたときには、彼女はもうすでに、椅子にもたれかかって目をつぶっていた。
――せっかく良いって言おうとしたのに。まぁいいか、寝よっと。
彼女が隣にいる。
この事実に安心しきっていた僕は、すぐに意識を眠りの底へと落とした。
目を覚ますと、僕はすぐにスマホで時間を確認する。寝過ごしたか、と思ったけれど、別にそんなことはなくて、むしろまだ起きるのは早かったくらいだった。
寝ぼけた目を擦り、ぐいっと伸びをする。そして隣を見ると、彼女はまだ寝ていた。
すぅすぅと、あんまりにも気持ちの良さそうに寝ているから、僕は起こしてやろうかとも考えたけど、やめておいた。
それからしばらく放っておいたら、やがて彼女は目を覚ました。その時間がちょうど新幹線が駅に着く10分前で、僕は少しだけ関心した。
それから僕らは新幹線を降り、駅からタクシーに乗って家に帰った。
家に帰ると、なんだかどっと疲れが吹き出てきて、僕らはソファにぐったりと倒れこむように座った。
「疲れたぁー」
「楽しかったぁー」
それから僕らは2人でソファに座り込んで、洗濯とかも据え置きに、旅行の思い出をぽつぽつと語り始めた。
行きの新幹線でのこと、海、飲み会、ホテル、聖地巡礼、そして、喧嘩と、告白のこと。
「蓮」
一通り話も終わり、ぼけーっとしている僕に、友梨佳は話しかけてきて、そして。
「えいっ」
僕の腕に、なんの躊躇もせずに、抱き着いてきた。
瞬間、彼女の体の感触が、体温が、そして枯れ枝のような軽さが、容赦なく全部、余すことなく僕に伝わってくる。
あったかくて、柔らかくて、どこかふわふわとしているそれに、僕は。
なぜか、虚しさを感じていた。
そうか。
彼女はまだ、ここにいて、そして、いつか――
いや、これ以上はやめておこう。考えたくもないことだ。
「急に何すんの」
そう冗談めかしながらも、僕は彼女の抱擁を受け入れる。
言ってしまえばそれだけのことだけど、僕にとってはそれが、何よりも幸せで、愛おしかった。
二人で、隣同士、触れ合っている、この甘ったるい時間に。
僕はつい、力を抜いてしまう。
「――ってか、そろそろ片付けしないと」
突然、友梨佳は思い出したみたいに立ち上がって、そのままそそくさと片付けを始めてしまった。
もう少し、あのままが良かった。
そんなことを考えながら、僕は彼女と一緒に片付けを始める。
ふいに、まだ少しのぬくもりが残っている服を見ると、しっかりと握られていたのか、僕の服にはしわが付いていた。
「そうだ、蓮」
片付けの途中、彼女は僕の方を向かずに、話しかけてきた。それは何でもない、たわいのない話だと思って、僕も作業の片手間に、返事をする。
「何?」
「あのさ、今日も一緒に寝ようよ」
思ってもいなかった、彼女からの誘い。願ってもいない事だった。
一晩中、彼女のそばにいられること。
僕はそれが、嬉しかった。
「あー、いいよ」
嬉しさを、ほんのちょっと覆い隠して、僕は平静を装って、返事をする。
すると彼女も、のんびりと手を動かしながら。
「ん、じゃあそういうことでね、よろしく」
とだけ言ってきたので、僕はさっきと同じように、言葉を返す。
「うん」
言い終わって、少し反省した。
これはちょっと、素っ気なさすぎたかな。
けど、あんまり気にしてなさそうだし。
「よーし」
彼女の方から、ぱんと軽い音が聞こえる。何かを叩いたような音だった。
「じゃあお風呂入ってくるよ、覗かないでね?」
「え、あ、うん」
僕がぼんやりしている間に、気づけば彼女はもう作業を終えていた。
そしてそのまま僕に向かって、からかうように一声だけをかけると、さっさとお風呂に行ってしまう。
僕はそう予測してたし、実際彼女なら、そうすると思っていた、けれど。
「...あー」
彼女は、そうしなかった。
「え?」
「...蓮、やっぱりさ、手伝うよ」
「へ?」
彼女はそのまま、僕の隣まで来て、半ば無理やりに、僕のぶんの作業をやろうとしてきた。
明らかに、妙だった。
さっき言ったこととやっていることが合ってないし、何より彼女は、普段は、こんなに無理やりなことをしてきたりしない。
「...どうしたの、急に」
あんまりにも分かんなくて、なんだか不安でつい、僕はそう口走っていた。
そんな僕に対して、彼女はただ、笑顔で。
「いやぁ、蓮があんまりにものんびりしてたからさ、つい」
とだけ、言ってくれた。
でも、それでは僕は、まったくもって納得ができなかった。
説明しているようで、大事なところがわからない。
僕に芽生えた不安の芽は、むしろ大きくなった気がする。
「...そっか」
でも、彼女のそれを誤魔化しだと決めつけて、問い詰めるなんてことを、僕ができるはずもなく、僕はただ、彼女の好意を黙って受け入れる。
それから、まぁ二人で黙々とやっていると作業自体はすぐに終わった。
やっと一息つける、ということで僕はどっかりとソファに座って、そして声をかける。
しれっと横に座ってきていた、彼女に向かって。
「友梨佳、ありがと」
「ん?いいよ別に、私が勝手にやったことだし」
「あーそう?てかさ、風呂はいいの?」
「ん、あー...」
変な間が空いた。そんなにおかしなことは聞いていないはずなのに。
「んじゃあ、入ってくるよ、待っててね」
「ん、わかった」
そう言って友梨佳は、そのままそそくさとお風呂場へ行ってしまう。
どこか急いでいるような、焦っているようなその様子を、僕はどうにも変だと感じていた。
彼女は、今は焦ってお風呂へ行った、けれどさっきまではやけにのんびりというか、悠長な様子だったし、それに僕の手伝いを終えてお風呂に入るつもりだったんなら、なんであんな妙な間があったのか。
そりゃあ、ただの気まぐれだと言えばそれまでだ。だけど僕は、そうと断じるのは何か違う、気まぐれとは別のものがある。
特に筋道立った理由があるわけじゃないけれど、僕にはそうとしか思えなかった。
それからしばらくの間、僕はずっと、彼女に感じた違和感について考えていた。というより、それで頭がいっぱいで、他のことが何にも入ってこなかった。
そんな僕の思考を止めたのは、お風呂場から聞こえてきた、彼女のくぐもった声だった。
「蓮ー!また着替え忘れちゃった、取ってー!」
びっくりした。
ていうか、また?何かこの前もこんなことあったような。
友梨佳って、こんなにうっかり屋だったっけ。
「あーうん、わかった」
もしかしてこれも、何か関係していたりするんだろうか。彼女の服を漁りながら、そんなことを僕は考えていた。
それから、僕は脱衣所にぽんと着替えを置いて、『置いといたよ』と声をかけると。
「ありがとー」
と、友梨佳は。
何の躊躇もなく、風呂場のドアを少しだけ開けて、僕にそう言ってきた。
そして、わずかに開かれたそれから僕の目に飛び込んでくるのは、浴室の中、それも。
生まれたままの、彼女の姿。
柔らかい光に照らされて、はっきりと像を結んでいるそれを。
僕は唖然と、見つめていた。
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