嫌な吐き気と頭痛で目が覚めた。二日酔いの頭でゆっくりと体を起こすと、電気がつけっぱなしで、空き缶やら食べかけのおつまみが無造作に置いてある部屋に、窓から朝の白い光が差し込んでいる。

ガンガンと鈍い痛みが響いている頭が、忘れていればいいのに勝手に昨日の夜のことを思い出す。

結局、昨日感じたものが本当のことだったのか、それとも酔っぱらっていたせいだったのかはわからないままだった。ただ、実体のない空虚な恐怖心だけがべったりと胸の奥に張り付いていた。

それを振り払うようにベッドから起き上がって、吐き気と頭痛に苛まれながら顔を洗いに洗面所に向かう途中で気が付いた。そういえば、昨日は風呂に入り損ねた。まぁ、もういいか、今からシャワーを浴びようと思い、僕は荷物の中から着替えを取り出し、シャワールームに入る。

シャワーを浴び終え着替えた僕は、ドライヤーもせずに洗面所から出ると、ちょうど目が覚めて、起き上がったであろう友梨佳と目が合った。彼女の目は、お酒のせいか真っ赤に充血していて、痛そうに頭を押さえていた。

「あっ...おはよ」

「...おはよう」

互いに昨日のことを気まずいと思っているのか、ぎこちない挨拶を交わす。

僕はどうするべきなんだろう。どうすれば、友梨佳とまた、昨日の昼とかみたいに、楽しく過ごせるようになるんだろう。

そんなことを考えていたら、友梨佳は僕と入れ違いに洗面所の方に行ってしまった。あいさつから、僕らが言葉を交わすことはなかった。いつもだったら、何か喋るはずなのに。

彼女もシャワーを浴びているのか、洗面所からは激しく水の流れる音が響いていた。僕はそれを聞きながら、二日酔いの頭で必死に友梨佳の事を考えていた。

ていうかそもそも、なんで彼女は現れたんだっけと思い、僕は今までずっと放置していたものを、ひとつづつ洗い出す。

確か、彼女の葬式が終わって、そしてしばらくぼうっとしてたら、急に彼女が来た。それから僕の家で過ごして、テレビ見てたら旅行に行く話になって、一緒に荷造りして、ここに来た。

そして、周りの人の対応は普通だった。それじゃあ、考えられるのは。

幽霊か、生き返り?

そして生き返りなら、(もし昨日のことが本当だったらだけど)昨日みたいなことは起こらないはず。だったら残るのは。

嫌だ、そんなの。と思った次の瞬間。

唐突に胃の奥がシェイクされて、それが全部奥からせりあがってくるような感覚がした。

僕は一目散にトイレに駆け込んで、口を開き、上がってきたものを全部出す。ありがたいことに、この部屋のトイレは洗面所とは別の所にあった。

「うっ...げ...おぇ...げっ...」

水っぽい何かが喉を這いあがってきて、目を開けてられない。勝手に涙が出てくる。

水くらいしか出てこないのに吐いて、吐いて、吐き終わると、水を流し、ぐったりしたままトイレから出る。もう、あんまり考えるのはよそう。やっぱり僕は、何も考えたくない。彼女がいてくれる。それだけでいいや。

だけど、友梨佳には謝ろう。詳しいことは何も言えないけど、彼女とは一緒に居たいから。いや、でもそんなの、虫が良すぎるだろうか。

「あっ...蓮」

トイレから出ると、ドアが開けっぱなしの洗面所の中で、友梨佳がドライヤーで髪を乾かしていた。吐いた音を聞かれたのだろうか、彼女は心配そうに僕を見てきてくれた。でもそのおかげで、少しだけ落ち着いた。

「ねぇ、友梨佳」

僕は意を決して、彼女に話しかける。頭痛も吐き気も、少しだけ収まってきた。

「どうしたの?」

友梨佳はドライヤーを止めて、まだ半乾きの髪を揺らして僕の目を見てくる。大丈夫、彼女なら、きっと許してくれる。許してくれる、はず。

僕は彼女に思いを伝えるために口を開く。でも言葉が上手く紡げない。しかし後には引けず、何とか言葉を形にする。

「あのさ...昨日のこと、ごめん、ちょっと...その...混乱しちゃって」

しどろもどろになりながらも、必死で言い訳を述べる。

「いいよ、私もさ、昨日は酔いすぎててさ、急にあんなことしちゃって、ごめん」

友梨佳は驚くほどあっさりと僕を許してくれ、そして僕に謝ってきた。彼女は何もしていない、全部、僕が悪いのに。

それでも友梨佳は、僕を許してくれた。詳しい理由は何も言えなくても、僕を許してくれた。

僕は少し戸惑いつつ「いいよ」と答えると、彼女は。

「蓮、あとで朝ごはん食べにいこうよ」

「あ、うん」

彼女はまたかちっとドライヤーの電気を入れ、髪を乾かすのを再開する。僕は彼女の後ろを通り過ぎ、またベッドに座る。僕はまだ、よかったという奇妙な安堵感に包まれていた。

しばらくすると、ふんわりと髪をセットした友梨佳が出てきて、僕に『行こう』と告げる。僕はそれに応じ、鍵を持って彼女についていく。

すたすたと静かなホテルの廊下を歩く友梨佳はまっすぐに前を向き続けていて、僕の方を一度も振り返らなかった。

朝食はバイキング形式の食べ放題だったが、僕も友梨佳も二日酔いのせいであんまり沢山食べる気にはなっておらず、僕は味噌汁とだし巻き、彼女は味噌汁と少しのお茶漬けと、二人とも胃に優しいものを選んでいた。ていうか、今の状態では重いものは食べれない。多分吐いてしまう。

「いただきます」

「いただきます」

二人でいっせいに、これを待ちわびていたかのように僕らは味噌汁をすする。出汁がよく効いていて少ししょっぱいけれど、どこかあったかく安心する。そんな味噌汁が、二日酔いでぐったりした体によく沁みる。二日酔いの朝の味噌汁って、なんでこんなに心と体に沁みるんだろう。

僕は思わずため息をつき、『うまぁ...』とつぶやいていた。それを聞かれていたのか、友梨佳は多分僕に向かって『美味しいよね』とつぶやいた。何気ない一言だったけれど、それを聞いてなんだか少し安心した。

味噌汁を飲み、だし巻き卵を食べ、少し水を飲む。そうしているとそもそも多くは取っていなかったことから、目の前の料理はすぐになくなった。でも沢山食べるような気分でもなかったから、もう食事は終わりにして、暖かいコーヒーを取りに行こうとする。あ、そうだ。

「友梨佳、コーヒー取りに行ってくるけど、何か要る?」

僕は友梨佳に話しかける。彼女はお茶漬けをちまちま食べていた。

「んー、じゃあ紅茶欲しいな、あったかいやつ」

「わかった」

僕は席を立って飲み物類が置いてある所へ行くと、まずコーヒーメーカーでコーヒーを入れて、それから紅茶を淹れた。淹れたばかりのコーヒーの匂いと紅茶の花みたいな香りが混じったものをこうも近距離で嗅ぐと、どうもむせかえりそうになる。僕は紅茶があんまり好きではなかった。

「おまたせ」

僕は友梨佳の目の前に湯気の立った紅茶を置く、彼女は僕が行っている間にもう朝食を食べ終わっていたらしく、テーブルの上には空の器だけが置いてあって、彼女はぽつんと何もせずに座っていた。

僕はそのまま席に座って、コーヒーを一口飲む。インスタントじゃない、ちゃんとしたコーヒーは、いつもより香りが鮮明に感じられた。

それから僕と友梨佳は雑談を交えながら、今日の予定を確認する。まず今は朝7時半で、9時になったらホテルを出て、アニメの聖地巡礼をする。それからお昼を食べたり、自由に過ごす。適当すぎないか、と思うかもしれないが、そもそも修学旅行でもないので、そんなにピッチリ予定は詰めてない。

「んじゃ、そろそろ部屋戻ろっか、ここってお皿置きっぱなしでいいんだよね?」

「よかったと思うよ」

友梨佳は空になったマグカップをかちっと置き、そのまま席を立って部屋に向かう。部屋に向かっている時、彼女はやっぱりずっと前を向いて、僕の方を見てはくれなかった。

部屋に帰ってまず目についたのは、昨日の宴会で出たごみだった。落ち着いてみてみると、さすがにこれはひどい。片付けないと。

「片付けよっか」

友梨佳はふっとほほ笑んで、荷物からゴミ袋を取り出した。僕もテーブルのごみを分別して、彼女がゴミ袋を開いて持ってくると、種類ごとに入れる。

「ねぇ、蓮」

片付けていたら、急に彼女が口を開く。

僕は空き缶をまとめてゴミ袋に入れた。缶はなぜか少しべたついていた。

「何?」

「...いや、今日も飲むかなー、って」

少しぎこちなく、彼女はなんでもない雑談を吹っ掛ける。でもなんだか、取ってつけたような話題のように思えた。何かを言おうとして、やっぱりやめたような。

いや、詮索はよそう。

「んー、まぁ今日はほどほどに飲もうと思ってるよ、二日酔いしない程度に」

「なるほど、わかった」

それで会話は終わりになった。彼女はきゅっとゴミ袋を結んで、テーブルのそばに置く。これで昨日出したゴミはもう全部捨て終えた。

そして僕たちは出発の時間までをのんびりとして過ごした。さっと準備を終わらすとその後は基本ずっとスマホをいじったり、していて、特に何でもない時間だった。ただ一つ引っかかった事と言えば、ほんの少しだけ、僕たちの間での会話が少ないように思った。それだけが気がかりだった。

やっぱり、許されていないのかな。いや、それはそうか。突き飛ばしたりして、なんの説明もしない。そりゃあ、許されなくても不思議じゃない。

でも、本当に何も言えないんだ。仕方がないとは言えないし、僕のエゴだって分かってるけれど、もし彼女が知ってしまって、僕らの仲が変わってしまうのは、怖い。

それからしばらくして、出発の時間になった。鍵と荷物を持って、しっかりと戸締りをし、ホテルから出る。電車に乗って、そこからバスに乗り換えた先にあるアニメの聖地、そこに向かうために、僕らはまず駅へ向かった。

駅の周辺には昨日と同じように沢山の人でごった返していた。僕らはそれを通り抜けてなんとかICカードで改札を通り抜け、目的の電車に乗るが、電車の中もやっぱり、満員というほどではないが人が結構な数いた。

しかし、電車が一つ一つ駅を進むにつれて乗っている人は少なくなっていき、僕らが電車を降りるころには、乗客はぽつぽつとしかいなくなっていた。聖地が目的であの電車に乗った人は、あんまりいなさそうだ。

そこから僕らはまたバスに揺られて、目的地へと向かう。これを降りて少し歩いたらすぐに聖地だ。朝のもやもやした気分はまだ残っているけれど、聖地に近づいてきたと思うと、心躍る気持ちが勝手に湧いてくる。そういえば前の旅行では、ここには来れなかったっけ。

「あのさ、蓮」

小さな声で、だけれどはっきりと、友梨佳は僕の名前を呼んだ。ホテルを出てからというもの、僕と彼女との会話はいつもより少なかった。それもあって、話しかけてきてくれる。そんな些細なことが普段より嬉しく感じた。

「ん、何?」

「向こう着いたらさ、あのシーンを再現した写真撮ろうよ、三脚持ってきたんだ」

といって友梨佳はカバンをぽんぽんと叩く。彼女は優しく微笑んでいた。

「いいね、撮ろうか」

それを見て、僕も思わず頬を緩ませる。到着がさらに待ち遠しく感じた。

それからしばらくそのアニメについて喋りながらバスに乗って、目的地に到着する。降りる人は僕ら以外では2人しかいなく、その2人も地元の人、といった感じだったので、多分聖地巡礼が目的の人は僕ら以外いないのだろう。

降りたバス停から少し歩くと、そこはもう目的地だった。

ぱっと見ではただの広めの公園、だけれどすでに、何回も見た事のある景色があった。ここは僕らが大好きなアニメでよく出てきた場所で、この公園だけでもいくつもの聖地がある。

やっぱり僕はこういう時は、どうしようもなくテンションが上がってしまう。そしてそれは友梨佳も同じで、彼女も僕の横で嬉しそうにきょろきょろ辺りを見渡していた。

「うおー、完全にまんまだ!」

弾んだ声で彼女は声をあげる。ああ、もう大丈夫なんだな、と思った僕は、上がったテンションのまま。

「だよねだよね、まずは写真撮ろうよ」

朝の気まずさはどこへ行ったのか、僕らは何事もなかったかのように色んな角度で撮ったり、好きなポーズで撮ったり、シーンの再現とかもした。そして満足すると、彼女と喋りながら次の場所へ向かった。

次の場所でも僕らはいくつものアングルで写真を撮ったり、好きなシーンの再現を撮ったりしながら、喋っていた。もう気まずさは、どこかに行っていた。

アニメの聖地自体は公園の中の5か所くらいしかなかったけれど、この巡礼が終わるころには、朝10時前くらいに着いたのがもう昼の1時くらいになっていた。同じところでずっと写真を撮ったり、普通に公園で遊んだり(大人でも遊べるアスレチックがあって、つい遊んでしまった)、一回行ったところをぐるぐるともう一回行ったりしていたのが原因だろう。しかし後悔はしていない。

まぁこれくらい回ったらもう満足なので、僕らは昼ごはんを食べに行く。でも特にアニメゆかりのご飯屋はないので、とりあえずマップを検索して、その辺にあった定食屋に行くことにした。僕らはマップに従い歩き始める。

「えっ」

歩いていると、唐突に友梨佳が声を上げた。あまりに突然のことで、僕は「どうしたの?」と聞くのが少しだけ遅れた。

「いや、あそこ見てよ」

友梨佳が指をさした先には、なんの変哲もない電信柱があった。いや、すごく目を細めてよく見ると下に何か置いてある。

「花だ」

近づいて見てみると、そこにぽつりと置かれてあったのは、まだ新しい菊の花だった。

菊の花。死者に手向ける花。僕はそれを見て、いろいろ察した。きっと、ここで。

ふと、思い出したくないことも思い出した。そういえば。彼女も。

いや、よそう。僕は考えに蓋をして、逃げ道を探すように友梨佳の方を向くと、彼女と目が合い、そして。

「手、合わせようよ」

「あ、うん」

彼女の言われるがままに、僕らは手を合わせて、電信柱に向かって祈る。正直、誰かを弔っているという実感は無く、僕はただなんとなく手を合わせているだけだった。

数秒ほど祈って、また僕らは先へ進み始める。

「ねぇねぇ蓮」

少し進み、きっとあの電信柱も遠くに行ってしまったであろう頃、友梨佳が口を開いた。

「何?」

「あのさ、さっきの電柱あったじゃん」

「あったけど、どうしたの?」

「いや何か、あれの横にさ、立ってたんだよね、男の子が」

「えっ」

ぐるりと振り向いて、さっきの電信柱を確認する。けれどそんな男の子は、影も形も見つからなかった。

「やっぱり、見えない?いやー、何か私だけ見えてるっぽくてさぁ、とうとう霊感に目覚めちゃったのかなーって」

「...そうだね」

いや待て。そもそも友梨佳がそんな心霊体験をしたなんて話はされたことがない。じゃあ今さっきのはどういうことだ。考えられるのは。本当にいきなり霊感に目覚めたか、もしくは。

彼女がだから?

ていうかそもそも、なんで友梨佳は皆に見えるんだ?わからない。なぜだ。

僕は歩きながらうんうんと考えるが、結局答えは出ずじまいのまま、定食屋にはたどり着いたので、躊躇なく中へ入る。

「それにしても、人少なかったよね」

席に座り、頼んだ料理を待っている時、僕はふいにそんなことを口走った。特にたいした意味はなく、理由を強いて言うなら、考えを紛らわせたかったんだと思う。

「まー、結構マイナーだからね、私も好きな人あんまり見たことないし」

「僕も、ファンと現実で話したのは友梨佳が初めてだよ」

「なつかしー、高2の冬休みだっけ?」

彼女は気楽そうに頬杖をついていた。

「そうだよ、あの日が初めて会った日」

あの日、僕と友梨佳は出会った。僕が初対面の人とあんなに沢山喋ったのは、人生で初めてだった。たぶん、これからもないと思う。

「初対面じゃなかったでしょ」

「え、そうだっけ」

「うん、クラスで何回か顔は合わしてたよ、だから私も会ってすぐ蓮ってわかったし」

「よく僕みたいなのを覚えてたね」

「クラスメイトの顔と名前くらいは覚えるよ」

「僕全然覚えてない」

「なんてこったい」

そんなふうに話してしばらくすると、料理が運ばれてくる。大き目のお皿に盛られた定食が、テーブルを埋める。二人用のそれは、二個の定食がちょうどすっぽりと収まる大きさだった。

「来た来た、いただきまーす」

「あ、いただきます」

とりあえず僕は箸を持って、添え物のキャベツの千切りを一口食べると。しみ込んだ生姜焼きソースの味がした。

「ていうかさ、午後ってどこで何する?そういえばあんまり決めてなかったけどさ」

「んー、まぁ無難に観光とかでいいんじゃない?」

「無難だねー、だとしてもどこ行くよ、この辺何にもないし...あ、そうだ」

友梨佳は何かいいことでも思いついたみたいに顔をぱぁっと明るくさせ、スマホを取り出して何かを入力している。

「ここ行こうよ、見てみて」

彼女が見せてきた画面に映し出されていたのは、ここから電車で1時間ちょい行ったところにある神社だった。さらによく見てみると、どうやらそこは社会現象にもなった、大ヒット少年漫画の聖地でもあるらしかった。こんなとこがあるとは、知らなかった。

「へー、いいねここ、行ってみようか」

「うんうん、ちょっと時間かかるから、早めに出発しなきゃね」

僕らはご飯を食べるスピードを速め、ささっと食べ終わるとすぐに支払いを済ませ、そして店を出るやいなやバス停まで直行した。

それから僕らはバスに乗り込み、バスに揺られながら駅へ向かい、そして電車に乗って、目的の神社へと向かう。

神社へは、電車を乗り換えて、それからバスに乗ってたどり着いた。思ったより時間がかかったらしいけれど、体感的には結構すぐに着いた。鬱蒼とした森に囲まれた山道の向こうに参道が見える。太陽はまだ高く、周りはぜんぜん明るい中、そこだけがなんだか薄暗い。だけれど、観光客は結構いるので不気味さとかは特に感じない。

そして僕らも他の参拝者と同じようにお参りをしに参道を上っている...のだが、やっぱり山の上の神社で、森に囲まれているだけあって、坂がだいぶ急だし蒸し暑い。べたべたした汗がふき出してくるし、息も切れてきた。

「ほらほら蓮何してるの、頑張って頑張って」

よろよろと歩く僕の数メートル先で、彼女は励ますように声をかけてきた。いや、やっぱりこれは多分煽ってる。

「頑張ってるよ...僕は君みたいに運動が得意じゃないんだ」

「知ってるよ、昨日の海での惨劇を見たら誰でもわかる」

「確かにそうだ、ということでさ、ちょっと休憩していかない?」

「早、まだ半分も来てなくない?ていうかどこで休憩する?」

どこで、と聞かれて、僕は暑さと酸素不足な脳みそで考える。確かに、どこで休憩すればいいんだろう。ベンチもないし、この辺に座れそうなところはない。

僕が頭を悩ませていると、それを見かねたのか友梨佳が口を開いて、『あ、そうだ』と言った。

「多分ベンチがあるとこ知ってるよ」

「お、どこどこ?」

僕は期待に胸を膨らませる。とりあえず僕はいま、疲れていた。どこでもいいから休憩がしたかった。

「上の神社」

「登れと?今疲れているのに?」

「そうだよ」

結局いい感じの場所はなかったので、休憩は無しで山を登った。なんとか無事にたどり着けはしたけれど、その代わりにかつてないほど疲れた。昨日と言い今日といい運動量がすごい。

「つっ...つかれた...座る...」

棒のようになった足を引きずり、僕は近くにあったベンチに腰掛ける。普段はベンチなんて見向きもしないのだが、この状況のベンチはさながらオアシスのようだった。

「お疲れお疲れ、はいこれどーぞ」

「うひゃぁ!?」

友梨佳はベンチでぐったりと座っている僕の頬に、ふいに冷えたスポーツドリンクを押し付けてきた。唐突に頬に訪れた冷たい感覚に、僕は思わず女の子みたいな悲鳴を上げてしまう。

「そんなびっくりするとは」

彼女は大声に驚かされた様子だった。いや、驚かされたのは僕の方なんだけど?

「...不意打ちはびっくりするでしょ」

「ごめんごめん、ほんの出来心だったんだって...よいしょ」

と、友梨佳は笑いながら僕の隣に座ってくる。彼女は僕と違ってぜんぜん疲れてはいない様子だった。

「のどかでいいねぇ」

「ね、何か人もあんまりいないし」

この神社は某鬼を滅する少年漫画の聖地...ではある。きっとここもブームの真っただ中には沢山の人でごった返していただろう。でもそれもとうに過ぎ去り、今来ているのは多分、地元の人か遅めにハマったファンか、時間を持て余した旅行者くらいなので、僕らは堂々とベンチでのんびりすることができた。

「たまにはこんなのんびりしたデートも悪くないなぁ」

「デートじゃなくて旅行だけどね」

「あんまり変わんないでしょ...てか、蓮と出かける時っていっつも騒がしいとこ行ってる気がしない?」

友梨佳はほほ笑みながらスポーツドリンクを一口飲んだ。

考えてみれば、確かに。昨日も然りだし、その前も、いっつもアニメイトとか、コミケとか、やたら人がいっぱいいるとこに行ってる気がする。

「まぁ、そうだね」

「君の性格的にはあんまり好きじゃなさそうなのにね、ていうか最初会った時もそうじゃなかった?」

最初。

友梨佳との、初対面。映画館での、あの出来事。

――『このアニメ、好きなの?』

「...そういえば、そうだね」

思えば、僕が自分から人に話しかけたのは、あの日が初めてだったと思う。初めて自分から人に話しかけ、そして初めて人とちゃんとした関係を築いた。

今まで、誰とも上手く関係が築けなかった、築こうとしなかった僕の、初めての友人であり、恋人。

きっと、世界でたった一人の、僕を理解してくれる人。

僕は、改めて思う。

友梨佳と、ずっと一緒に過ごしたい。できれば、こんな日々がずっと続いてほしい。彼女がいれば、他の人はどうでもいい。そう思えるくらいの人。

「んじゃ、そろそろ行く?」

「え?ああ、じゃあ行く」

そんな僕をよそに、彼女はベンチから立ち上がって本殿の方まで行こうと提案してきた。まぁ、ずっと座ってるのも悪くはないけど、彼女も退屈するだろうし、そろそろ行くか。

それから僕らは本殿まで行くと、そこには何人かの参拝者がいたが、案の定人数は少なかった。それはどうでもいいとして、とりあえずお参りをしに賽銭箱が置いてある所へ向かい、それの前に立つ。

「二礼二拍手一礼だっけ?」

「確かそうだったと思うよ」

「ん、わかった」

僕らはお賽銭箱に5円玉を投げ入れ、本殿の奥にいるのかどうかわからない神様を拝む。

その儀式は10秒程度で終了した、いつもなんとなくやっているが、こういうのに果たして意味はあるんだろうか、と思う。でも一応、お願いはしておいた。自分勝手な願いだと分かっているけど、願いって大体そういうものだろう。

「蓮、何願ったの?...あ、こういうのって言っちゃ駄目なんだっけ」

「僕は別に言ってもいいよ、気になる?」

「んー...いや、いいや、せっかく願ったんなら叶った方がいいじゃん」

なるほど、そういうもんか。と、納得する。確かに願ったなら、叶った方がいいに決まってる。僕のこの願いも、絶対に叶った方がいい。

友梨佳と、これからも一緒でいられますように。

それから僕らはお守りやらを見たり、境内を適当に散策していたら、おみくじを引ける所を見つけた。新年でもないのにおみくじを引くのはどうだろう、と思ったが、せっかくなので引くことになった。お金を払って、がしゃがしゃとくじを引いて、紙をもらう。

「蓮ー、どうだった?私小吉、なんかびみょい」

おみくじを手に持った友梨佳が近づいてくる。僕はまだ中をみていなかったので『いや、まだ見てない』と言い、彼女の目の前でおみくじを開ける。まぁきっと、そんなに悪いことは書かれていないだろう。だってちゃんとお参りしたから。

「あっ...」

「ああ...うん、どんまい」

凶だった。しかも要約すると『やることなすこと大体思い通りにいきません』なんて書いてある。ちくしょうめ、馬鹿にしやがって。

それから僕は彼女の勧めでおみくじを結んでからまた境内の散策を再開したが、それも神社が小さいせいですぐに終わったので、山を下りて帰ることにした。また疲れそうなので降りるのは億劫だったけど、夕方で多少涼しくなっていたのと下り坂なのが相まって行きよりはだいぶ楽に降りることができた。

そして帰りの電車に乗って、しばらく電車に揺られていたら僕らは目的の駅までたどり着いたので、電車から降りたが、ここからどこの改札を出ればいいのかわからなくなって、壁に掛けられていた駅の地図をみる。

ざわめいている雑踏の中、僕らは立ち止まっていた。周りの声なんかまったく耳に入ってこない。入ってこないはずだった。

「友梨...え...は...?」

小さく、しかしはっきりと聞こえた。いつもは聞き流せるはずの声が、しっかりと耳に入ってきた。その声には、聞き覚えがあった。

僕らは反射的に、その声の方向を向き、目まぐるしく動く人込みの中、そこだけ時間が止まっているみたいにそこに佇んでいる人を見る。

背が高く、スレンダーなその体躯。体のラインを強調するかのようなその衣服、肩まで届きそうなその茶髪。すべてに見覚えがあった。

彼女の名前は吉本美琴よしもとみこと、友梨佳の無二の親友であり、僕ともかすかな親睦がある人物で...いや、今そんなことはどうでもいい。とにかく、この状況をなんとかしなくては。

やばい、どうしよう、まずい。

危機感と焦りだけが頭の中をぐるぐると巡るが、それだけだ。何の意味も成さない。

そうこうしている間に、友梨佳が口を開いた。何にも知らない、明るく無邪気な声色で。

「えーっ!?|美琴ちゃん!?何でこんなとこにいるの!?」

「え、や、帰省...てか...へ...?いや、なんで?」

美琴さんは、明らかに戸惑っていた。それはそうだ、こんな状況、戸惑わない方がどうかしている。

「...美琴ちゃん?どうかしたの?」

「いや...どうかって...え...?友梨佳...あんた...」

まずい、まずいまずい。このままだと、がバレるのは時間の問題だ。もしそうなったら、彼女はどうなってしまう?泣く?怒る?

どうなるのかは想像もつかない、けれど良い方向にはきっと転がることはない。

いや、そんなのは後だ。

「――ッ!」

僕は友梨佳の手を掴んで、走り出した。とにかく何かしなくちゃ、逃げ出さなくちゃと思って、走った。遠くへ、どこかへと。

「痛っ!?蓮!?何!?」

「はっちょ...友梨佳!」

彼女の名前を叫びながら追いかけてくる美琴さんを振り払おうと、とにかく無我夢中で走る。彼女を掴んでいるはずの僕の右手には重い物を引っ張っている感覚はなく、まるでキャリーケースを引くような軽い感触だけがあった。

鼓動が早くなる、息が苦しくなって、視界が狭くなる。今まで目を背けていたものが一気に現れたような気がして、混乱が収まらない。

とにかくぐるぐると走っていると、プラットホームに出た。するとそこには都合よく電車が止まっていたので後先考えず、逃げ場を求めてその電車に飛び乗ると、その数秒後にドアが閉まった。間一髪、間に合った。

息を切らしながら窓の外を見ると、美琴さんが動いているこの電車を追いかけながら、口を動かして何かを叫んでいたが、聞こえなかったし、多分聞かない方がいい、というより、聞きたくなかった。

「...」

僕はふと振り返り、友梨佳の顔を見る。

彼女は、僕が今まで見た事のないような表情をしていた。普段の彼女の、明るい鷹揚な表情とは全く違うもの。悲しさと怒りが混じった、そんな表情。

「ぁ...」

それを見て、僕は初めて理解した。

僕は友梨佳を、彼女の心を、傷つけていたんだ。他でもない、誰のせいでもない、僕が。

「ごっ...ごめん...」

謝りの言葉を発しても、彼女は何も言ってくれなかった。ただずっと同じ表情で、下を向いていた。その表情を見ただけで、胸が締め付けられる。整っていたはずの呼吸がどんどん小刻みになっていき、いなくなってしまいたい。そんな思いで頭がいっぱいになる。

どうしよう、どうしようと考えていると、電車が止まり、ドアが開く。すると、彼女は何も言わずに電車から出、僕もそれを追いかける。

とにかく謝らなきゃ、どうしたら、許してもらえる?

「蓮」

彼女はまったく抑揚のない声で、僕の名前を呼んだ。

「...何?」

鼓動がバクバクとうるさい。

「なんでさ...あんなことしたの?」

友梨佳は決して、僕の方を振り向かなかった。

「いや...それは...」

理由は、ある。それでも。

「『ごめん、言えない』って言うつもり?家みたいに、ホテルの時みたいに」

まるで見透かされたようにそう言われて、ギクっと心臓が飛び跳ねる感覚を覚えた。

友梨佳は、僕のことを許てなんていなかったんだ。ずっとずっと、我慢してただけ。僕の気を遣って、全部心の奥底に閉じ込めて、表に出さないでいただけ。

「えっと...」

答えあぐねた。どうすれば、どう答えれば、彼女は納得してくれるのかがわからなくて。どうすれば、核心に触れずにやり過ごせる?そんなことを考えていると、友梨佳は僕の方を振り向く。

彼女は、泣いていた。目に涙を浮かべ、今までたまってきたものを全部爆発させるように、人目もはばからず大声で、まくしたてるように。

「何かあるならさ...言ってくれなきゃ!私だって納得できるわけないじゃん!家の時も!ホテルの時も!君は『言えない』ばっかりで!私には何にも知らせてくれない!」

その一言一言に込められた感情が、驚くほどにすっと頭の中に入ってきて、そして僕の腹の底で、どす黒い何かがせりあがってくるのを感じた。

なんだよ、確かにそうかもだけれど、僕にだって、事情はあるのに、なんで。

「うるさいな!僕の事情なんて!僕の気持ちなんて!何にもわかってないくせに!」

ああ、目の前が真っ赤になる。感情むき出しの言葉があふれてきて、それらが全部友梨佳に向かって口から出て行く。

「はぁ!?私にだって気持ちも事情もあるよ!なのに君は自分の事ばっかり!私の事だって考えてよ!」

「だから!仕方ないんだってば!君の事だって考えてるよ!」

怒鳴れば怒鳴るほど、どす黒いものは段々色濃く存在を増していって、頭の中がぐちゃぐちゃになる。わけもわからないけど、とにかく感情のままに怒鳴り散らかす。

「何が仕方ないの!何にも言ってくれなくて!自分の事ばっかりな癖に!私の事を考えてるとか!前はそんなんじゃなかったのに!もういい!蓮なんて...大っ嫌い!」

友梨佳はそう言い捨て、走り出した。茫然としていて、僕にはそれを止めることはできなかった。

友梨佳の姿が見えなくなった。ホームに取り残された僕は、さっきの彼女の言葉を反すうしていた。もう、頭はすっかり冷静になっていた。

――大っ嫌い。

友梨佳からそんな言葉を聞いたのは初めてだった。というより、人にそんなことを言われること自体が初めてだった。

僕は本当に、嫌われたのか?ただの勢いで口走っただけじゃないのか?その答えを探すために、今までの言動を思い出した。

――うるさいな、何にもわかってないくせに。

――仕方ないんだってば、君の事だって考えてるよ。

あっ。

本当に、嫌われたんだ。こんな最低な言葉を投げかけて、友梨佳の気持ちを踏みにじった。

全部、僕が悪いじゃん。

そう自覚すると、一気に心の中に寒気のようなものが湧き出てきて、僕の口はやがて寒さの中暖を求めるように一つの言葉を紡ぐ。

「...ごめん」

か細く吐き出したその言葉を、聞く人は誰ひとりとしていなかった。

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