第6話 罪と番い
「いやーここは可愛い子が多いね」
焔は手酌で酒を飲むと誰にともなく口を開いた。
薄暗かった紫陽の部屋は、今は昼かと思うほど明るく照らされていた。そして真ん中には卓が置かれ、刺身や菓子などが並べられている。その卓の前に腰を下ろして笑顔を見せる焔に対し、雨月は隅の方で気だるそうに片膝を抱えていた。
「もっと早くこの店にきとけばよかった」
ちらりと雨月に視線を送り、焔は再び盃を傾ける。紫陽は黙って焔と向かい合わせに座っている事しかできなかった。焔と出会った時と同じように、周りを炎で囲まれているからである。
「ねえ雨月。何か僕に言うことあるんじゃないの?」
「……どうして無意味に遊女を殺していく?」
雨月の冷たい視線と声を浴びてもなお、焔は気にする風もなく飄々と口を開く。
「お腹が空くからさ。人間が朝・昼・晩と食べるように、僕も血を吸ってるだけ」
「俺たちはそんなに必要ないはずだ」
「そうだね。必要ない。人間一人分の血なんて、吸うと二か月は持つね」
「なら何で……」
焔の目がすっと細められた。先ほどまでの笑みは消え、無表情になる。
「どうしようもないからさ」
手にしていた盃を放り投げ、焔は懐から煙管を取り出した。その先端にぽっと灯がともる。すうっと一息吸うと、ふわりと煙を吐き出す。しばしの沈黙。
「雨月。お前、片牙になったって本当?」
カンッと煙管を卓に置き、焔は雨月を見る。雨月は何も言わない。ただすっと焔から目を逸らした。
「本当なんだ?だから紫陽ちゃんも助けられないんだね」
自分の名前が出た事で、紫陽はビクッと反応する。
「可哀想に。こんなに怯えてるのに……」
焔は手を伸ばし、紫陽の頬に触れる。
「嫌っ……!」
ひやりとした感触に、思わず紫陽は顔をそむける。
「逃げないで」
紫陽の周りを囲んでいる炎の勢いが増す。
「っ……!」
雨月が腰を上げ、紫陽に手を伸ばす。が、炎に阻まれて触ることが出来ない。
「雨月、僕に紫陽をちょーだい」
そう言うと、焔は身を乗り出し紫陽に口付けた。
氷のような唇。
紫陽は目を見開き、突き放そうと両手を伸ばした。肌が焼け、袖に炎が燃え移り……
じゅおっ
冷たい感触と共に、紫陽は後ろに引き倒された。しかし倒れ込んだのは雨月の腕の中。
「う、雨月……」
上目遣いで見上げると、雨月は今まで見た事が無い鋭い目で焔を睨んでいる。紫陽は次いで自分の両腕を見た。赤くなり、多少ひりつくがひどい火傷ではない。袖も、裾の方が焦げているだけだ。
「なんだ、まだ力残ってるじゃん」
焔は両手を頭の後ろで組み、体を元に戻す。
「じゃ、今夜は別の娘をいただこうかな」
「今夜はこの店の娘、全員買ってるからね~」と、焔は伸びをして立ち上がる。
「驟雨楼の人たちには手を出さないで!」
紫陽は身を乗り出そうとするが、雨月に背中から腕を回されているのでそうもいかない。
「さすがに殺しはしないよ。ただ体は頂いちゃうけどね」
はははと笑うと、焔はひらひらと手を振って出て行った。その背中が見えなくなった途端、紫陽の体にずっしりと体重がかけられる。
「ちょっ、雨月」
耳に荒い息がかかる。どうしたのかと、紫陽が首を巡らせた時だった。
首筋に鈍い痛みが走る。
雨月の牙が白い肌に立っていた。しかしすぐに離れてしまう。
「雨月……っ!」
紫陽は名を呼ぶが、聞こえないのか雨月は体を離そうとしない。その上、回している腕に力が籠められる。そして再び牙が、今度は違う個所に突き立てられた。
「つっ……」
しかし深くは刺さらず離れていく。
「はぁっ……」
雨月の熱い吐息が首筋にかかる。切羽詰まったような息遣い。噛んだ跡を、湿った舌がなぞる。
反対側の首筋に、今までより深く牙が差し込まれ……
「ああっ……!」
今までとは違う痛みに、紫陽はたまらず声を上げ首を逸らす。しかしそれも一瞬の事で、紫陽の体は脱力してだらりとうなだれる。
「紫陽……!」
はっと雨月が息を飲む気配がした。紫陽は掠れた声で雨月の名を口にする。すると雨月はそっと、壊れ物を扱うような手つきで紫陽の体を横たえさせた。
「……すまない」
前髪の隙間から覗く紫色の瞳は、酷く申し訳なさそうに歪んでいる。しかしそんな様子とは裏腹に、口元には赤い一筋。雨月はそれをぺろりと舌で拭うと、紫陽の首筋に手をやる。
「雨月、大丈夫?」
紫陽はぼんやりと問う。ずくずくと疼く首筋に、ひんやりとした感触が心地よい。
雨月は目を見開くと、すぐにぎゅっと眉間に皺をよせ手を離す。
「心配などしなくていい」
冷たくそう言い放ち、雨月は先ほどと同じく隅で片膝を抱く。
紫陽はのろのろと上体を起こし、首筋に手をやった。虫刺されの様にぷっくりとふくらんだ噛み跡。熱を持ったそれは、触れると微かに湿っている。自身の汗か、雨月の唾液か。
「力を使い過ぎた。すまない」
紫陽は顔を向け、ゆっくりと首を振る。
「助けてくれてありがとう、雨月」
自然と柔らかい笑みが浮かぶ。それとは対照的に、雨月の顔には苦渋に満ちた表情が。
「雨月?」
紫陽は手を伸ばすが、冷たく跳ね除けられた。
「そういえば、まだ話してないな。俺の罪」
雨月の口が、笑みを形作ろうと歪む。しかし上手くいかず、本人は気づいていないのか、泣き笑いのような表情になってしまっている。
「俺の罪は屍姦だ」
思ってもいなかった単語に、紫陽は目を見開いた。
言葉が出てこない。跳ね除けられた手が、ぱたりと畳の上に落ちた。
「吸血鬼の屍姦とは、死体から血を吸う事だ。それは最大の禁忌とされている。それを破ったから、俺は片牙になった」
雨月はいつの間にか気だるそうに障子に寄りかかっていた。開け放された障子の外には満月。
「片牙になった吸血鬼は血を吸えなくなる。力も段々と使えなくなる。太陽の光にも当たれなくなる」
そう言いながら、指を折っていく。
「血を吸えない吸血鬼は死に向かうだけ。飢えるだけだからな」
雨月は、最後に拳を握ってそう言った。
静寂が流れる。満月を背にした雨月はただじっと紫陽を見ている。何か反応しなければと思うが、何も浮かばないし動けない。
「……死ぬ?」
数瞬なのか数分なのか、紫陽がやっと口を動かして出した言葉だった。
「そう。骨も残さぬ塵となって」
気が付けば、雨月を掻き抱いていた。
人肌の温もりを感じられない冷たい体。
紫陽はぎゅっと腕に力を入れる。そんな紫陽の背中に、そっと腕が回された。
無音の抱擁。
どれくらいそうしていたのだろう。雨月の腕が離れる。それとともに、紫陽も体を離す。
「焔を止めるまで生きなくては」
「止める……?」
「ああ、あいつは悲しみに囚われている。自分より先に老いていく者、死んでいく者によって。享楽的に日々を過ごし、無節操に吸血を行う……だから」
「……分かったわ」
紫陽は雨月の目を見た。今は黒曜石の様な瞳。
「それまでは一緒にいてあげる」
女として生まれて初めて、紫陽は自ら口付けた……
空が白み始めた頃。雨月は蝙蝠の姿になって出て行った。
紫陽は、蝙蝠が飛び立っていった空を見上げる。
「おはよう。雨月はもう出て行っちゃったんだ?」
振り返ると、焔が柱に背を預けて立っていた。はだけた胸元に散る赤い跡と白粉の匂い。紫陽は眉を寄せる。
「朝から嫌な顔しないでよ。まぁそんなに噛みつかれたら気分も悪いか」
苦笑しながら焔が背を離す。紫陽は思わず身構えてしまう。
「みんな起きてるし、襲わないよ」
すっと紫陽に近づくと、焔はしゃがみ込みしげしげと首元を眺める。
「やっぱり片牙だ。なのに強い力を使っちゃったから飢えたんだね」
そう言う焔の目には、どこか悲しみの色が浮かんでいる。
「馬鹿だね雨月は。やっと『番い』に出会えたのにね」
「『番い』?」
「ああ、きいてないんだ?」
なーんだと、焔は拍子抜けした声を出す。そして瞳を紅く光らせると、じっと紫陽を見つめ続ける。
「黙ってないで教えて」
「『ちゃあむ』。日本語では『魅了』って意味なんだけど、それが効かない人間。吸血鬼はその人間と契る」
「君は効かないよね」と焔は微笑む。
確かに雨月の瞳が紫に光った時、それを見た人たちは雨月の言いなりになっていた。しかし自分は何とも無かった。
「私が、効かない人間なのね」
「そうだよ。僕たちが求めてやまない『番い』」
焔の手が伸び、紫陽の頬に触れる。紫陽は顔を逸らすことも逃げる事もせず、真っ直ぐに焔を見つめる。
「『番い』としか夫婦になれないからね。『番い』の血を吸い尽くすと、吸われた『番い』は同じ吸血鬼として生きることになる。そして子をなすこともできる」
つつっと氷の様な指が輪郭をなぞる。
「瞳の色も同じに変わる。ねぇ、紅くなりたくない?」
「なりたくないわ」
紫陽はきっぱりと言い切った。
「じゃあ紫になりたかった?」
「……教えて。雨月はどうして罪を犯したのか」
焔の問いには答えず、代わりに疑問を口にする。
「罪だと分かっていながら、どうして雨月は……」
「お客様。そろそろお帰りになって下さい」
階下から、下男の催促の声が聞こえてきた。焔は手をひっこめると「よいしょっ」と立ち上がる。
「話は……」
「また今夜……って訳にはいかないよね。雨月が来ちゃうから。うーん、そうだなぁ……正午にお茶屋さんでっていうのはどう?」
「下男たちに魅了の力は使わないの?」
昨夜も、力ではなく金で驟雨楼の遊女全員を買っていた。
「僕は自分の力で虜にしたいのさ」
うーんと伸びをし、焔は踵を返す。そして茶屋の名前を告げると、ひらひらと手を振りながら出て行った。
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