第5話 銀の簪
驟雨楼に帰り着くと、紫陽は換気の為に開けていた障子を全て閉めた。そうでもしないと、あの紅い目がどこかから見ているようで落ち着かない。
今、雨月がいてくれたら……と、紫陽は動きを止めた。障子を閉めても昼の光は室内に入り込んでいる。
「あの人はどうして外にいたの……?」
雨月は室内にいても日の光を嫌っていた。なのに焔は平気で外にいた。同じ吸血鬼なのに何故。
「雨月、早く来て……」
紫陽はぎゅっと自分の腕を抱いた。
「こんにちは。あれから眠れましたか?」
夕刻前、仕事道具を携え明がやってきた。
「ええ、少し……今日は遅かったですね」
実はまったく眠れていないのだが、紫陽は笑顔で答える。目を閉じれば、あの紅い目が暗闇に浮かんでくるのだ。
そんな紫陽に気が付いたのか、明は苦笑を浮かべると紫陽の肩に手を置いた。
「気を楽にして下さい。でないと美しく結えませんからね」
紫陽さんの為にも、紫陽さんを買って下さるお客様の為にも……と、明は優しく肩を揉む。
「私、居続けになったので大丈夫ですよ」
明に気を使わせまいとして、紫陽は告げる。
「そうですか。良かったですね。どんな方なんですか?」
普通、髪結いは遊女の客については口出しをしない。明は特にそうだった。何故今回に限って訊くのだろう。紫陽は疑問に思ったが、問い返すわけにもいかず名前だけ答えた。
「雨月というお人です」
「雨月とはまた風流な名前ですね」
私なんて明という単純な名前ですのにと、明は大げさに嘆く。紫陽はそんな明がおかしくてくすりと笑ってしまう。
「少しは楽になりましたか?」
「え? は、はいっ!」
「では結わせていただきますね」
紫陽は鏡越しに明の指さばきを見つめた。
「その雨月さん……はどんな髪型がお好きなんですか?」
明に見とれていた紫陽は我に返る。
「ど、どんな髪型? え、え~っと……」
雨月とは体を重ねた事は無い。口付けさえもしたことが無い。それもそうだ、雨月とはただ吸血鬼と……吸血鬼とどういう関係になるのだろう。人間? 遊女? ……食糧?
ズキン
「ああ、すみません。難しい質問でしたね」
紫陽の戸惑いを察したのか、明が申し訳なさそうに頭を下げる。
「いえ、昨日居続けになったばかりなので……」
胸に手を当てながら紫陽は答えた。
何だろう。この胸の痛みは。悲しいような、切ないような痛み。
「出来ました……どうしたんですか?」
「何でも……今日も綺麗にして下さってありがとうございます」
一つ首を振ると、紫陽は鏡越しに微笑む。明も微笑み返してくれる。
「あ、そうだ。お祝い……と言っては変ですが」
そう言って、明は一本の簪かんざしを紫陽の髪に差した。
「こんな高価な物、いただけません!」
夕日に反射して、きらきらと美しく輝いているのは銀の簪である。銀箔を張り付けたのではなく、ずっしりとした重みを感じる本物である。
「重くて気になりますか?」
「いえ、そうではなくて……」
「では貰って下さい。それに……」
明はすっと紫陽の耳元に口を寄せて囁く。
「いざという時にはそれで身を守って下さい。」
「え?」
紫陽は明を振り返るが、柔らかい笑みを浮かべた顔しかなかった。どう問えばいいのか迷っていると、明はぽんと紫陽の頭に手を置き立ち上がる。
「また明日、参ります」
「待って!」
出て行こうとする背に、紫陽は手を伸ばす。しかし襖を開け一礼した明は、そのまま去って行った。
紫陽は伸ばしていた手を頭にやる。冷たい感触。それを握り、髪から引き抜く。
見た目は普通の簪である。紫陽はためつすがめつ眺めるが、どこも変な個所は無い。
「皆さん、もうすぐ時間でございます」
下男の声に、紫陽は手にしている簪を挿し直す。そしてしゃんと背筋を伸ばし正座をする。
会うのは雨月しかいないのにと紫陽は苦笑する。
どうしても遊女としての誇りが気を抜くことを許さない。
階下へ降りていく他の遊女の足音を聞きながら、紫陽は昼の出来事をどう話そうかと整理する。
ぎしぎしと階段が軋む音。
紫陽は三つ指をついて頭を下げる。からりと襖が開くと同時にゆっくり頭を上げ、
「ようこそお越しくださいました」
紫陽は微笑んだ。
「……本当に遊女の鑑だな」
呆れたような表情で、雨月は紫陽を見下ろす。
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
そんな紫陽に溜息をつき、雨月は後ろ手に襖を閉めるとどかっと腰を下ろす。
「何か飲みます?」
疲れた様子の雨月に近寄る。すると雨月はいきなり紫陽の手を取り引き寄せた。
近くで見る雨月はうっすらと汗をかいている。息も、いつもより少し上がっているようだ。
「吸血鬼が飲むものは一つだけだ……」
そう言って紫陽の首筋に顔を近づけた雨月は、はっと息を飲んだ。
「どうかしました?」
「焔……っ!」
体を離され、紫陽は雨月と目が合う。雨月の瞳には、何か怒りのようなものが含まれている。
「焔に会ったのか?」
「え、ええ」
「いつ? どこで!?」
雨月の気迫に押され、紫陽は昼の出来事を話した。
「ここまで……」
話を聞き終えた雨月は、紫陽から手を離すと頭を抱える。
「ねぇ、どうしてあの人は昼でも外を歩けるの?」
紫陽は質問を口にする。雨月は前髪の間から上目遣いで紫陽を見ると口元を歪めた。それは自嘲的な笑み。
「焔は完全で、俺は不完全だからさ」
「それ、どういう意味なの? ちゃんときかせて」
紫陽は姿勢を正し、じっと雨月の顔を見つめる。雨月は一度紫陽から目を逸らしたが、意を決したように顔を上げ、目を合わせた。
「俺が罪を犯したから片牙になった。片牙は人間でも吸血鬼でもない中途半端な生き物だ」
「何の罪を……?」
吸血鬼は人の血を吸うものだ。それだけでも紫陽には十分罪だと思う。だとしたら、あの焔も片牙にならなくてはいけないだろう。では、それを凌ぐ罪とは……?
「それは……」
雨月がゆっくりと口を開いた時だった。
「きゃーっ!!」
階下から遊女たちの声が上がった。悲鳴ではなく、女特有の黄色い声である。
「あんた、正気かい!?」
女将の心配そうな、それでいて不審げな声が続く。
「どうしたのかしら」
気になった紫陽が襖に手を掛けた時であった。
「まだ上にいるでしょ?」
聞き覚えのある声が階段を上がってくる。紫陽と雨月は二人してぴくりと体を動かした。
紫陽は恐怖の為に。雨月は警戒の為に。
「ここかな?」
がらりと襖が開かれる。紫陽の視界に派手な模様が飛び込んできた。
「こんばんは。紫陽ちゃん。そして久しぶり、雨月」
焔はにっこりほほ笑んだ。
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