第4話 紅い瞳の男
「次に目が覚めた時、俺は吸血鬼になっていた」
雨はいつの間にかやみ、冷やされた風が流れ込んでくる。
「やはり貴方が……」
「犯人」という代わりに、紫陽はぶるっと震える。
「残念だが俺ではない」
雨月は鼻を鳴らして紫陽を見る。
「でも血を吸うのは……」
「見ろ」
ずいっと雨月が顔を寄せ、口を開く。
いきなりの事に、小さく悲鳴を上げ、後ろに手をつく紫陽。しかし、雨月の歯を見て驚いた。
「牙が……!」
そこには、灯りを受けて鈍く輝く牙が生えていた。片方だけに。
「片牙では血は吸えない」
そっと紫陽の首筋に手をやる。そこには以前、雨月によってつけられた虫刺されのような跡。
「生気を少量吸えるだけだ」
そう言う雨月の顔は、少し哀愁を帯びていた。
「じゃあ犯人は雨月ではない……?」
「ああ」と頷き、雨月は体を離す。
紫陽はほっと胸をなでおろす。そして安心した自分に驚く。
(何をほっとしているの。犯人ではなかったとしても、雨月が妖だという事は変わらないわ)
気持ちを切り替えるように一つ息を吸うと、紫陽は訊ねた。
「雨月でなければ犯人は誰?」
答えは大体想像できる。雨月が考えるそぶりなので、紫陽は自ら答えを口にした。
「打ち損じた大江山の鬼なんじゃない?」
何人もの武官を殺めてきた鬼である。生き延びていても不思議ではない。
殺めて……? ふと紫陽は自分の考えに疑問を持つ。
「ねえ、どうして雨月は生きているの? いえ、もしかしたら他の武官たちも吸血鬼として生きているかも……」
だとしたら犯人は誰かなど分かるはずもない。
しかし雨月は首を振った。
「生きて……いや、変化させられたのは俺と焔だけだ」
『お主たちは見目麗しい。我はその美しさを残したかった』
そう言って女は鈴が鳴るようにころころと笑った……
「鬼自身がそう言った。だから他の者はなっていない」
頭に浮かんだ女の笑い声を振り払い、雨月は言った。
「だとしたら、その鬼か焔という人?」
雨月は眉間にしわを寄せ、口を閉じた。紫陽は雨月の返答を待つ。
「……女は……いや、鬼は……」
雨月が苦々しく口を開いた時である。室内が夕暮れ色に染まった。
「何っ!?」
紫陽は開け放された障子から身を乗り出す。
遠くの長屋が密集している辺りから火が上っている。
「火事だわ!」
そう言うと障子から離れ、鏡台から巾着や小物を取り出す。
「雨月も逃げる準備を……」
遠いとはいえ、同じ塀に囲まれているのである。消化が遅れれば火はこちらまで迫ってくる。まして塀に燃え移れば逃げ出すこともできなくなる。
他の部屋からも騒がしい物音と、遊女や客たちの声がする。
しかし雨月は落ち着いていた。
「こちらまではこない」
夕暮れ色に染まった雨月の顔は、どこか険しさをにじませている。
カーンカーンと半鐘の音が響く中、通りにはすでに何人もの遊女や客が出てきている。
「お客様。皆様念のためにお逃げください!」
下男が階下から声を張り上げている。
紫陽は雨月を見、そして外を見た。
火はまだ勢いを衰えても、消えてもいない。
「どうして分かるの?」
早く行かなければ、門のところで押し合いになってしまう。
「あの炎は普通じゃない」
険しい雰囲気の中に、少しだけ嫌悪のようなものが混じっていたように紫陽は感じた。
その時、夕暮れ色が一瞬、昼間のように白くなる。
まぶしさに目を閉じると同時に、ばぁんと轟音が耳を貫いた。
「きゃっ!」
紫陽は思わず耳をふさぎしゃがみ込む。
しかし音はすぐにやんだ。
恐る恐る目を開けると、室内はいつもの暗さに戻っていた。
外に見えていた火も消えている。
「消えた……の?」
通りに出ていた者も、さっきとは別の喧騒に包まれている。
「どういうこと……?」
あれだけ燃え盛っていた火が一瞬のうちに消えることがあるのだろうか。しかも爆発して。
紫陽は答えを求めるように雨月を見る。しかし雨月は口を開かず、すっと立ち上がった。
「雨月、私も連れて行って」
遊女のなれの果てともいうべき長屋女郎。最底辺の遊女が住むこの界隈は、黒く濁ったドブ川の横に建っており、いつもは鼻をつく異臭が漂っている。しかし今は焼け焦げた家屋の臭いが充満していた。
じゃりっと雨月の靴が炭と化した木材の破片を踏む。野次馬や長屋女郎たちは雨月の目を見ると、何事もなかったかのように散っていった。
そしてあたりが静まり返り二人きり。
「こんなことってあるの?」
焼けていたのは一軒だけ。綺麗に全焼しているが、隣接する家には焦げ跡ひとつない。
紫陽の呟きを無視し、雨月は歩を進める。呆然と眺める紫陽の耳に足音だけが響く。が、ふと足音が止まった。
見ると、雨月は真ん中に立ち、何かを見下ろしている。紫陽も恐る恐る歩を進め、雨月の横に立つ。
木などが焼けた臭いの中に、今まで嗅いだことがない異臭が混じっていることに気付く。しかし目を凝らしてみても、世闇にまぎれていて何が焼けていたのか、雨月が何を見ているのか分からない。
雨月が腰を落として何かを、焦げた木材のようなものを拾い上げた。よく見ると長く、先に大きな塊が……
「ひっ!!」
紫陽は正体に気づき息を飲んだ。
それは黒く焼け焦げ炭化した人であった。
雨月は焼死体の手を取って眺めていたが、片方の手を死体の首筋にやる。
「雨月……」
紫陽はしゃがんでいる雨月の背中に手を置く。するとそれを機にしたように、雨月は立ち上がった。
「焔……」
ぽつりと雨月の口からこぼれた名前。それは紫陽にも聞き覚えがあった。
雨月の昔話に出てきた名前。雨月とともに鬼退治に赴き、鬼に吸血された人……
「もしかして」
紫陽の言葉の続きを雨月が引き取った。
「焔の仕業だ。俺と同じ吸血鬼になった……」
「最初見た時から変わった客だとは思ってたけど……」
女将が金を数えながら言う。
眉間に皺を寄せてはいるが、口元は緩んでいる。
あの後、雨月は紫陽ともに驟雨楼に戻り、女将に金を渡した。
破格の金は、雨月が紫陽の「居続け」として渡したものだ。
そして雨月は「また夜に」と言って去って行った。
「こんな場末の遊女に『居続け』するなんて、本当に変わった客だよ」
数え終わった女将が、いそいそと金をしまいながら紫陽に視線を向ける。
「まぁいい男でよかったね、見た目は。でも大概そういう男に限って変な行為を要求されるんだよ」
ふんと鼻で笑い、「部屋に戻りな」と冷たく言う。
紫陽は「はい」とだけ答えると、階段を上って部屋へと戻った。
部屋に入り、後ろ手に襖を閉める。そしてそのままずるずると腰を落とす。
雨月が平安時代の人だった。
大江山の鬼という女に吸血鬼にされた。
同じく吸血鬼にされた焔という男性。彼が事件の犯人……
様々な思いが頭の中を巡る。夢物語のようだ。
紫陽は一つ頭を振ると簪かんざしを抜き取り鏡台へにじり寄る。
なんだか疲れた。色々なことが判明して。でも雨月ではなかった。
あれ?何で安心しているんだろう……
段々と瞼が落ちてくる。
紫陽は鏡台に突っ伏して深い眠りへと落ちていった。
ざわめき。食器がぶつかる音。微かにとどいてくる香ばしい匂いに、紫陽の鼻がピクリと動く。
「ん……」
瞼をこすりながら上体を起こす。うーんと伸びをしてから、紫陽は慌てて立ち上がる。
朝食が始まっていた。
「珍しく遅かったね、紫陽」
椿が最後の一口を頬張りながら言う。
「もうご飯ないってよ。まぁ、昨夜あんな火事があれば寝過ごしても仕方ないけど」
「本当に凄かったよね~。ま、こっちまで燃え広がらなくてよかった」
他の遊女が茶をすすりながら椿に便乗する。
「爆発したときはどうなるかと思ったけど。誰か火薬でも仕掛けてたのかって」
さてと、と椿が立ち上がり伸びをする。
「一眠りでもしようかな」
「あんたはどっかで食べといでよ」と紫陽に言い残し、椿は階段の方へと消えていった。それを機に他の遊女たちもばらばらと動き始める。
紫陽も外へ向けて歩き出した。
「いらっしゃいませ」
暖簾をくぐると年老いた店主の声と美味しそうな香りが紫陽を迎える。
空いている席を探すために、店内に視線を巡らせた時であった。
「紫陽さん」
声の方を見ると、明がこちらに向かって小さく手を振っている。
「明さん。珍しいですね」
髪結いをしている明がこの時間にいるのは珍しい。大抵は家で食べてくる。
「ええ、ちょっと。紫陽さんは食べそびれたんですか?」
前に座る紫陽を見ながら、明は苦笑混じりに問う。
「お恥ずかしながら寝過ごしてしまって……」
子供じみた理由に、紫陽は頬を染めながら言う。
「昨夜の火事ですね」
明は神妙な顔つきで言葉を続ける。
「長屋の一軒が全焼。お一人が焼死体で発見されたそうですね……」
紫陽も神妙な顔で頷く。
ふと明が首を傾げ、不思議そうな顔になる。
「紫陽さん、貴女は……」
「はい、お待ちどう」
明の言葉に被さるように品が届けられた。
「ありがとうございます。それで明さん、私がどうか?」
店員に礼を述べ、紫陽は明に向き直る。しかし明は「いえ、何でもないです」と微笑み、再び箸を動かし出したので、それ以上追及する事も出来ず、同じく箸を動かした。
「紫陽さん、今日はどんな髪型にしましょう」
茶碗から顔を上げると明と目が合った。明は穏やかに微笑んでいる。
「明さんにお任せします。明さん腕前なら安心ですから」
明に見詰められるとどうしても鼓動が早くなる。紫陽はそれを悟られないようにそっと胸に手をやる。
「そう言っていただけると嬉しいですね。紫陽さんの髪はとても触り心地良いですから……」
はたと明の声が止まる。そしてみるみる顔が赤く染まった。
紫陽も明の言葉を思い出して赤面する。
「し、失礼ですよね。すみません……」
「いえ、謝らないで下さい。私も明さんに髪を触られるの好きですからっ!」
うなだれて謝る明とは対照的に、紫陽は箸を強く握りしめて勢い込む。
「え?」
顔を上げた明と目が合う。途端に、自分が何を言ったのか理解した紫陽の顔は真っ赤に染まった。
「あ、あの、私、戻りますねっ! ゆっくり休みたいので!」
「ではまた後で」
笑いを含んだ明の声を背に受けながら、紫陽は会計を済ませ外へ出る。胸元で巾着を握りしめる手は震えていた。
「ああ……馬鹿」
自然と口から言葉が零れる。
勢いだったとはいえ、どうしてあんなことを言ったのか。確かに好きだけど、向こうは仕事で触れているだけで……
「遊女が恋しても不毛なだけ」
今度は意識して口にする。
しかも雨月という吸血鬼に、「居続け」として買われたんだし……
「雨月……か」
今はどこにいるんだろう。帰ったら寝ていたりして。
そんな事を思いながら紫陽が歩いていると、角を曲がってきた人物とぶつかった。
「す、すみません」
慌てて謝る。他の遊郭の遊女、しかも格上ならば大変失礼なことになってしまう。
「あの……」
何の反応も帰ってこないので、紫陽は下げていた顔を上げた。
目の前には一人の男が立っている。金糸銀糸で龍や花が刺繍された派手な着流し姿。そして口には煙管。
「何?」
男は鋭い目で紫陽を眺めると冷たく言い放つ。
「いえ、ぶつかってしまって申し訳ございません」
紫陽はしおらしく頭を下げた。
身なりからして金持ちのようだ。もしこの男が驟雨楼に通ってくれるようになれば……
しかし男は紫陽を頭からつま先まで眺めると、「ふん」と鼻を鳴らし足を踏み出す。
そのまま通り過ぎるのかと思いきや、男は紫陽の横でぴたりと足を止めた。
どうしたのかと思い、男に視線を向ける。
「あんた……」
「何でしょう?」
今まで無表情だった男の顔が笑みを形作る。先ほどまでの冷たさとは正反対の、人懐っこい笑顔。
紫陽は言い知れぬ恐怖を感じ、一歩男から離れる。
しかし男は笑顔のまま開いた距離を詰め、紫陽の耳元に口を寄せ囁いた。
「あんた、雨月の食糧だね」
そのままぺろりと首筋を舐める。
「ひっ……」
ぞわりと悪寒が走り、紫陽は身をよじるように男から逃れた。その拍子にバランスを崩し尻もちをついてしまう。
そんな紫陽を見下ろして男は声に出して笑った。
「そんなに怯えないでよ」
男の目が紅く光る。その途端、座り込んだ紫陽の周りに火が点った。
「きゃっ……!」
「あー動くと着物に燃え移っちゃうよ」
人懐っこい笑顔を浮かべたまま、男は一歩足を踏み出す。
「ほ、焔……あなたが……あなたの仕業でしょ!」
紫陽は震える声で、しかしキッと男を睨みつける。
「僕の名前を知っててくれるなんて嬉しいな」
男、焔は紫陽の前にしゃがむと手を伸ばし、紫陽の顎を掴んだ。その笑顔からは想像できない強い力。紫陽はごくりと唾を飲む。白い喉が上下に動く。焔の視線がそこに集中するのを感じた。
「ああ……噛んでみたいな」
うっとりとした目つきで、焔は唇を舐める。唇の間から白い牙が覗く。
「この白い肌に牙が立つ瞬間は最高だろうね。きっと同衾の時より気持ち良いかもしれない。
紫陽は焔の異常さに、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。気付かぬうちに歯がカチカチとなり、目に涙が浮かんでいた。
「大丈夫。体の隅々まで一滴も残さず飲み干してあげる。痛いのは挿入する時だけだよ……」
笑んだ目のまま、焔がゆっくり口を開く。熱い息が首筋にかかり……
「紫陽さんっ!」
ぱっと紫陽を取り囲んでいた炎が消える。焔の目がすぅっと冷めていく。
「大丈夫ですか?」
駆け寄ってきたのは明だった。紫陽と焔を交互に見る。
「あ、だ、大丈夫です。ちょっと立ちくらみしちゃって……」
紫陽は焔の手を振り払い立ち上がろうとするが、腰が抜けてしまって立てない。
「つかまって下さい」
明が差し出した手を掴み、紫陽はなんとか立ち上がる。
「あー、つまんない」
しゃがんだまま、焔が明に視線を向けた。
「君は?」
焔の派手な姿に、明は眉を寄せる。
「僕は雨月のお友達さ。じゃ、またね食糧ちゃん」
ゆっくり立ち上がると、焔はひらひらと手を振りながら去って行った。
「何だ?あいつは」
「焔……」
「え?」
明が紫陽に視線を向ける。その距離が近い事に、紫陽ははっと我に返った。
「あ、ご、ごめんなさい」
明の袖を強く握っていたことに気付き、紫陽は慌てて手を離す。しかし手の震えはなかなか治まってくれない。
「大丈夫ですよ」
落ち着いた声と、温かい手が紫陽を包む。紫陽は明の優しさに身をゆだねてしまいそうになるが、ぐっと拳を握ると笑顔を浮かべた。
「ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありませんでした。ではまた後で」
一息にそう言うと、すっと明から体を離し頭を下げる。明は何か言いたそうに口を開いたが、逡巡ののち何も言わずに閉じた。そして頭を下げると背を向け歩き去っていく。
「助けて下さってありがとうございました」
紫陽はその背に向かって告げると、先ほどまで座り込んでいた地面に目をやった。
何の変哲もない地面。炎の跡など見当たらない。
雨月が蝙蝠に変化できるように、焔は火を操ることが出来る……?
焔の紅い瞳が脳裏によみがえる。
紫陽はぶるっと身震いすると足早にその場を後にした。
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