第3話 大江山の鬼
夕刻を告げるカラスの鳴き声で目が覚めた。障子が開けられており、橙色に染まった空を鳥の群れが飛んでいく。他の遊女たちも起きだしたようで、控えめな物音が聞こえてくる。
はっと首筋に手を伸ばすが新しい吸血の跡はなく、ほっと胸をなでおろす。
そうしていると、ふすまの前に人が座る気配がした。そして「
紫陽は慌てて布団をたたむと鏡台の前に座り、どうぞと答えた。
すっとふすまが開かれ明が入ってくる。紫陽はこの時間が好きである。
静かに優しく髪に触れる、男にしては繊細な指。その指がふと止まった。
「どうかしました?」
鏡越しに問いかける。
「首筋に……」
ドキリと紫陽の心臓が跳ねる。
普通、髪結いの仕事をしている者は遊女の体については口にしない。それは明も知っているし普段は言わない。
という事は、明も血を失った遊女のことを知っているのだろう。
「ああ、虫刺されです」
一つしかないでしょう? と首筋に手をやりながら言う。
「知ってらっしゃるんですか」
意外だという声音。
「遊女たちが怖がらないよう、公にはされてないのですが……」
「偶然行商人から聞いたの」
「そうですか」と答え、再び指を動かす。
「それにしても本当になんなのでしょうね。流行病なのか、新種の虫なのか。人だとしたらさらに恐ろしいですね」
紫陽は言葉に引っかかるものを感じた。
「流行病?」
そう。流行っているというのだ。
「私が聞いた話だと吉原の遊女だけだと……」
「亡くなったのはその方だけです。が、ほかにも同じような跡がある遊女たちが貧血で倒れていて」
吉原の遊女たちばかりがそうなっているので、中には吉原から出たいと女将に訴える者もいるそうだ。
「しかし病や虫だとしたら、そのうち外にも広まりそうですね」
「だから十分気を付けてください」と付け加え、最後にぽんと肩に手を置く。
「出来ました」
紫陽は首を動かし左右を確認すると礼を述べた。
「では失礼いたします」
来た時と同じように廊下に座って頭を下げ、その姿がふすまによって遮られた。と同時に、紫陽の背後に気配が立った。
「誰っ!?」
ばっと振り返ると、そこには雨月の姿。
「雨月……いつの間に?」
「障子を閉められていなくてよかったよ」
ふぅと息をつき、雨月は首を回す。
「どうやって入ってきたの?」
「変化して」
あまりにもさらっと答えが返ってきたので、紫陽は聞き流してしまうところだった。
「変化?」
雨月は「そう」と頷く。すると雨月の体が黒い霧のようなものに覆われる。
紫陽が目を見張っていると、霧が薄れていき、雨月の代わりに一匹の
「あの蝙蝠!」
指さし、大きな声で言ってから慌てて口を押える。
するとまたしても霧が出てきて、晴れると雨月の姿があった。
「どういうからくりなの?」
ばっと身を乗り出して紫陽が問うと、遠くを見るような眼差しになり、「二百年生きてたら、いつの間にか出来るようになっていた」と暗い笑みを浮かべた。
「……今夜、貴方の話を聞かせてくれるって言ったわね」
「ああ」
雨月が頷いた時である。
「あと少しで
階下から下男の声が響いてきた。
紫陽は口元をきゅっと結ぶと一度目を閉じ、
「今から仕事でございます。すぐに出て行って下さいまし」
と雨月に告げ、豪華な
「俺の話には興味が無い?」
「ええ。私は遊女です。金を払わない客など相手にはできません」
きっぱりと言い、雨月に背を向け紅を引くとすっと立ち上がる。
「吸血鬼よりお金か」
そう言って、雨月は自嘲気味に笑う。
「君は遊女の鑑だな」
肩越しに振り返ると、紫陽は「当たり前でございます」と冷たく言い放ち廊下へ進み出た。
「そこのお兄さん、ちょっと寄ってかない?」
甘い白粉の香りと猫なで声に満ちた
紫陽も妖艶な笑みを貼りつかせる。
「
隣に座る
「そうそう。変な客に買われることが多いしね」
他の遊女が賛同する。
そんな中、紫陽は明の話を思い出していた。
もし、人の手によるものだとしたら、犯人は雨月なのだろうか。「吸血鬼」。蝙蝠に変化するのも手品か奇術なのではないか。自分は変な客にからかわれているだけなのでは……
「紫陽」
野太い声に、紫陽は思考から引き戻される。
昨夜の男が立っていた。いつものように、嗜虐心に満ちた笑みを浮かべて。
紫陽は心の中で溜息を吐き出すと同時に、最上の笑顔で男の名を口にする。
男が暖簾をくぐり中に消えると同時に、「紫陽さん、お呼びです」と下男が呼びに来た。
「またアイツ……」
「私じゃなくてよかったぁ~」
囁きあう声を背に、紫陽は半籬を出ようと一歩踏み出した時である。
「紫陽」
非常識なと思った。
半籬から出ていこうとしている遊女というのは、客がついたということである。遊郭に通う客なら知っていなくてはならない。それなのに声をかけるとは。
他の遊女がざわめいている。それでも無視して出ていこうとすると、椿に裾を引っ張られた。
「紫陽、めちゃくちゃいい男だよ」
頬を赤く染め、声の方を向いて息せき切って言う。
「もう椿ったら……」
ちらりと振り返った紫陽は、驚きに目を見開いた後、眉間にしわを寄せ怪訝な目つきになる。
「雨月……」
「何々? 知ってる人?」
椿は紫陽と雨月を好奇の目で交互に見ている。
「紫陽さん、お早く」
下男がせかす。早くしないとあの男が怒り出すだろう。そうなるとどんなことをされるのか分からない。
「はい、今すぐ」
雨月から視線を外し、足早に中に入る。
「何してる。遅いじゃないか」
怒気に顔を赤らめた男が紫陽の手をつかむ。そしてそのまま力任せに引っ張っていく。
「いくら?」
階段に足をかけていた二人の背中に声がかかる。
いつの間にか中に入ってきていた雨月が、口元に笑みを浮かべる。
「すみません、お客様。紫陽さんはあちらのお方が……」
「これでどう?」
ズボンのポケットから何枚かの札を出し、ひらひらと振る。
「ふざけるな!遊郭の礼儀も知らん若造が!」
「女性の扱いも知らないあんたが何を言う」
その言葉にカッとなった男は、紫陽を突き飛ばすと階段を下りて雨月の胸ぐらをつかもうとした。しかしその手は、反対に雨月に掴まれる。
あの白い手の、どこにそんな力があるんだろう……と、階段に座り込んだまま紫陽は見ていた。下男もどうしてよいのやらとあたふたするだけ。
「は、放せ!」
「これでいいですね?」
男の鼻先に札を突き付け、雨月はにっこりとほほ笑んだ。そして男の手に札を握らせる。
「下男さん、交渉成立したのでいいですね?」
いきなり振り向かれた下男は「ひっ」と息をのみ、こくりと頷く。
「女将さんも」
騒ぎを聞きつけ、いつの間にか出てきていた女将も渋々といった感じで頷く。
それを確認すると、雨月は軽くて首をひねって男を放り投げた。「軽く」見えたのに、男は下男を巻き込んで転がる。
「行こうか、紫陽」
あっけにとられていた紫陽の前に手が差し出される。
「紫陽」
顔を上げると、雨月が見下ろしていた。
紫陽はそっと雨月の手を取り立ち上がる。
ひやりとした手だった。
「とりあえずこれで今日の寝床も確保できたっと」
部屋に入るなり、どっかと腰を下ろし雨月は伸びをする。
そんな雨月を見ながら、紫陽は小さく溜息をつき隣に腰を下ろす。
「さて、雨月の好きなようにして下さいませ」
初めての客にはいつもこうしてきた。三つ指をついて頭を下げる。しばらくそうした後、紫陽は顔を上げて雨月を見た。
薄暗い室内。揺らめく灯りに照らされた雨月の顔は、妖艶さと哀しみが入り混じった表情をしていた。
思わず紫陽の胸が高鳴る。
紫色に輝く瞳に見詰められ、紫陽はもぞりと足を動かした。
「じゃあ、俺の話をしようか」
ふっと視線を外し、雨月は口を開く。
「で、ではお酒でも……」
慌てて立ち上がりかけた紫陽の腕を雨月がとめる。
「そんなものは必要ない。知りたいんだろ、俺のこと」
いつの間にか小雨が降りだしていた。
「平安時代って知ってる?」
紫陽はええと頷く。自分は平安貴族の末裔だとかなんとかいう客から教えてもらった。
「俺はその時代に産まれた。まぁそこら辺は関係ないから割愛しようか。元服を迎え、宮中で武官として仕えることになった」
雨月はからりと障子を開ける。雨の匂いと冷えた夜気が二人の間を通り抜けていく。すぅっと息を吸い目を閉じた後、雨月は外を見ながら続きを語る。
「武官として様々な任をこなして武勲を挙げ、女房達からちやほやされていた頃だった。ある話が持ち上がってきた」
「大江山の鬼」と雨月は言った。紫陽は思わず「鬼ぃ!?」と素っ頓狂な声を上げる。その声に雨月は振り返り、
「そう、鬼」
口元からちらりとのぞいた一本の牙が鈍くきらめいた。
「大江山に入った人たちが次々と行方不明、もしくは奇妙な死体となって発見された」
紫陽はある予感に捕らわれて口を開いた。
「もしかして、その死体は……」
「体中の血を抜かれて干からびていた」
紫陽の続きを引き継いだ雨月は、どこか暗い目をして話す。
「帝はふれを出した。『大江山に住まう鬼を退治した者には褒美をとらせる』と」
何人もの武官、腕に自信のある農民、はたまた罪人までもが鬼退治に勇んでいった。しかし生きて戻ってきた者たちはいなかった。
「業を煮やした帝は、ついに自分自身で行くと言い出した」
当然周りの者は引き止めた。万が一、帝に何かあったら一大事である。大臣たちは帝を説得し始めた。しかし頑固な帝は考えを改めなかった。
「そこで俺たちに声がかかった」
武官の中でそこそこ腕が立った雨月他数名が、帝の護衛に着くことになった。
「断らなかったの?」
紫陽が口を挟む。雨月は鼻で笑った。
「自分より身分が上の者に逆らうという事は、自分の人生を駄目にすることと同じだった」
「君もこの遊郭の女将には逆らえない。逆らおうとは思わないだろう?」と言われ、紫陽は頷く。
それを見てから雨月は話を続ける。
「俺ともう一人、
大江山に着き、帝は早速鬼を探し始めた。元から乗り気ではなかった雨月と焔は、渋々援護を務めていた。
ふと気が付くと、二人は帝の姿を見失っていた。
「その時にはもうすでに妖術にかかっていたんだろうな」
いくら渋々だったとはいえ、帝の護衛である。そう簡単に見失う事は無い。
二人は慌てた。周りを見ると、従者の姿も消えている。
ふいに明度が落ちた。太陽が陰った暗さではなく、色彩そのものが暗くなったように感じられた。
二人は腰に差していた刀を抜き、背中合わせに身構える。
静寂。
不思議なことに、鳥獣の鳴き声すら聞こえない。風も止み、まるで時が止まってしまったように感じた。
雨月が唾を飲み込んだ時である。
ざあっと生暖かい風が吹いた。思わず手で目を庇い、手を下ろすとそこには一人の女が立っていた。
「闇を凝縮したような女だった」
雨月は紫陽の頭から簪を抜き取った。明の手によって美しく整えられていた髪がはらりと崩れる。
「珍しい黒い単に、漆黒の髪を結いもせずに垂らしていた」
紫陽の肩に零れた髪をすくいあげる。
「俺たちは息をのんだ」
漆黒の髪に縁どられた肌は抜けるように白く、瞳は月色に輝いていた。
そのいでたちは異様でありながら美しかった。人外の美であった。
「我を打ちに来たか」
女は紅い唇を笑みの形に開き、二人を見た。
「そなたが大江山に巣食う鬼か」
刀を握り直し、雨月は焔の隣に立つ。
「いかにも。しかし趣も何も無い名よな」
ふっと女は鼻で笑うと、一歩足を踏み出した。優雅な足さばきで、足音一つたたない。
雨月は動けなかった。
「見惚れていたのかもしれないし、怖かったからかもしれない」
今となっては覚えてないけれどと自嘲気味に笑う。
紫陽は何も言う事が出来ず、ただ話の続きを待った。
動けない雨月をよそに、焔が動いた。雄叫びと共に女に斬りかかっていく。
「焔っ!」
雨月が叫んだが、焔は止まらず、刀が女に振り下ろされた……と雨月には見えた。
しかし刀はむなしく空を切っただけだった。
勢いづいた焔は前のめりに体勢を崩す。
その体に、白い手が回された。背中から抱き着くように回された手の先には女の姿。
「なっ……!?」
焔が驚きの声を上げる。身をよじって抜け出そうとするが、女だとは思えない強い力によって締め付けられる。
「焔を離せ!」
雨月は刀を正面に構え、女を睨んだ。
女はそんな雨月を見て口の端を上げる。
「我が怖ろしいのか? 震えておる」
そこで初めて、雨月は自分が震えていることに気づいた。正面に構えた刀が震えて定まっていない。
「我を打ちに来たにしては可愛いことよ……まぁ良い。そこで黙って見ておれ」
じきにお主も……と言いながら、女は焔の首筋に口付けた。
びくりと焔の体が跳ねる。その様子を楽しむように、女は月色の瞳で焔を見つめた後、大きく口を開け噛みついた。
焔はもちろん、雨月も大きく目を見開く。
ぐじゅる……という粘性の音とともに、女の喉が上下し始める。
雨月は声も出すことが出来ず、ただ立ち尽くしていた。いつの間にか構えていた両手は下がっている。
そんな様子の雨月を横目で観ながら、女は首筋から口を離した。口元から真っ赤な血が零れ落ちる。
既に焔は目を閉じ、ぐったりと女に体を預けていた。
「ふむ、なかなか美味なり」
ぺろりと零れた血を舌でなめとり女は頷く。そして雨月の方に顔を向け、妖艶に微笑んだ。
月色の瞳が輝く。からんと雨月の手から刀が落ちた。それすら気づかず、雨月は女から目が離せなかった。
どさりと音がしたかと思うと、背中にひやりとした女の気配。
「なっ……!」
そこでやっと雨月は我に返った。先ほどまで女が立っていた場所には焔が倒れている。
慌てて離れようとしたが遅かった。
氷の様な腕が雨月の体へと絡みつく。
「お……鬼めっ!」
雨月は震える声で叫ぶ。女が笑う気配がし、冷たい指先が雨月の顎に触れる。首をのけぞらして避けようとしたが、強い力で抑え込まれた。
「さて。お前はどんな血なんだろうねぇ……」
うっとりとした、夢見るような甘い声が耳元で囁かれる。そして次の瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。それとともにあの血をすする音。雨月はもはや声を出すこともできず、体にも力が入らない。
意識が遠のく。
ただ噛まれている首筋だけが熱い。
「我と同じ時を生きよ」
女の囁きと共に、雨月の瞼は落ちた……
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