第2話 片牙

 東の空が白み、各遊女部屋の戸が開く音がする。

 一夜を過ごした客を送る為である。

 紫雨しよう雨月うげつに視線を向けた。まだすうすうと眠っている。

 その寝顔があまりにも気持ち良さそうなので、紫陽は起こそうかどうしようか躊躇う。

 しかしこのまま置いておくわけにはいかない。女将に見つかれば大目玉である。

「もう起きて下さいまし」

 恐る恐る肩に手を伸ばし揺する。

 雨月はとても珍しい格好をしていた。

 西洋人が着ているシャツを身に着けているが、色は白ではなく水色。しかも赤や青といった花が描かれている。シャツのボタンは上二つ開けられており、黒いズボンに裾を入れることもせずだらしない。

 目立って仕方ないだろうなと思いつつ、紫陽は揺さぶり続ける。

「ん……」

 微かな呻きと共に、雨月が細く目を開けた。

「早くお帰り下さいませ」

 雨月から眠気を追い払おうと、紫陽は窓の障子を明け放した。

「閉めてくれっ!」

 先ほどまで眠たそうにしていた雨月からのいきなりの恫喝どうかつに、紫陽の体はビクリと跳ねる。

 見ると、雨月は体を丸め、腕で顔を庇っていた。

「そ、そんなに眩しいですか? まだ日が昇り始めたばかりなのに……」

 そう言いながらも、雨月の様子が気になり障子を閉める。

 閉められたのを確認すると、雨月は恐る恐るといった風に腕を下ろす。しかしその目はまだ眩しそうだ。

「目は覚めました? 遊郭の掟ぐらいはご存知でしょう? 早くお帰りになって下さいまし」

「帰らない」

 廊下側の障子に歩を進めていた紫陽は驚いて立ち止まる。

「何をおっしゃっているのか分かっておりますか?」

 本当に変な客ばかりが来る。小さく溜息をつき、雨月の方を見る事無く廊下の障子を音高く開け放つ。

 それでも雨月が動く様子が無いと分かると、紫陽は振り返ってキッと睨んだ。

 しかし、睨むために険しく細められた目は、次の瞬間驚きに見開かれた。

 薄暗い室内の隅から雨月がこちらを見ている。

 夜道で出会った犬や猫のように瞳を光らせて。

 しかし犬猫と違い、雨月の瞳は紫色に光っていた。

「その目は……」

「これは……」

 雨月が口を開いた時、廊下から足音が聞こえてきた。

「紫陽、あんた何うるさくしてんの」

 足音の主は、紫陽の部屋の前で足を止め仁王立ちになる。

椿つばき……」

 紫陽は振り返り友人の名を呼ぶ。

「どうしたの? いつもはとっとと客を送り出してるあんたが。例の客が起きないとか?」

 そう言いながら椿は紫陽の肩越しに室内を覗き込んでくる。

「あら!」

 雨月と目が合った椿はポッと頬を赤らめ、ささっと襟元などをただす。

「ここら辺じゃ見ない格好だねぇ。名前は何て言うの?」

 遠慮する事も無くずかずかと紫陽の部屋に上がり込み、雨月の前に立つ。

 雨月は椿を見上げると、口元に笑みを浮かべ名乗った。

「雨月か。良い名前」

 椿は、雨月の顎を掴むといきなり口付けた。

 しかしすぐさま雨月を突き放す。

「あんた、それは……」

 またしても雨月の瞳が光る。

 すると椿は急に踵を返し、すたすたと部屋から出て行った。

「やれやれ、これでゆっくり眠れる」

 一つあくびをすると、雨月は両手を頭の後ろで組み寝転がる。

「雨月……あなたの目は何?」

 訝しげな表情で問う紫陽に、雨月は寝転んだまま目も開けずに「元・人間」とだけ短く答えた。

「元?」

「後で……とにかく寝かせて。あ、絶対に障子は開けるな」

 そう言うと再び寝息を立て始めた。

「まったく……」

 紫陽は盛大に溜息をつく。と、同時に階下から「朝飯だよっ」という女将の声が聞こえてきた。

 貴重な御飯をくいっぱぐれるわけにはいかない。

 仕方なく雨月に布団を掛け下りて行った。




 一枚板の卓が中央にでんと置かれた食堂には、すでに多くの遊女が集まっていた。

 客に見せるしとやかな仕草などは無く、各々あぐらをかいたり片膝を立てて談笑している。

 紫陽は椿の姿を探し、その隣に座った。

「おはよ、紫陽」

 眠そうにあくびをしながら、椿は紫陽に湯呑を渡す。

「あ、ありがとう」

 変だ。

 絶対に雨月について訊かれると思っていた。

 しかし椿はいつもの様に気だるそうに箸を動かしている。

 まるでさっきまで自室で過ごしていたかのように。

 紫陽もあえて雨月の話をしなかった。椿が忘れているにしろ黙っているにしろ、女将や他の遊女に知られると面倒だと思ったのだ。

 騒がしい朝食が終わると、自由時間である。

 夕方には髪結いがやってくる。それまで各々寝るもよし、買い物へ行くもよし。

 しかし、雨月がいるまま外へ出る事も、寝る事も出来ない。

 叩き出そうにも、今の時間まで男がいたと知られれば怒られるのは分かっている。

 さてどうしようかと、紫陽は足取り重く自室へと戻った。




 雨月は大きな体を猫のように丸めて眠っている。

 小さく溜息をつき、紫陽は鏡台の前に腰を下ろし簪かんざしを抜いていく。

 はらりはらりと肩に落ちる髪をぞんざいに手櫛で梳きながら、紫陽は引き出しから一つの巾着を取り出した。

 揺らすと、中からは小銭がぶつかり合う音。

 その音が耳に入ったのか、雨月が小さく呻く。

「雨月?」

 起きたのかと、振り返って様子を見る。

 雨月は汗を浮かべうなされていた。

「大丈夫?」

 起こして水でも飲ませた方がいいのだろうかと肩に手を掛ける。

 その手をいきなり掴まれた。氷のように冷たい手に驚く。

「え?」

 そのまま強く引き寄せられる。

 首筋に、生暖かい息がかかる。

 そしてチクリと針で刺されたような痛みが走った。

「痛っ……!?」

 紫陽が反射的に突き放すより早く、雨月に突き飛ばされる。

「何を……っ」

 あまりの強さに、打ち付けた尻をさすりながら雨月を見た目は、ぎょっと見開かれた。

 閉められた障子によってぼんやりと差し込む日の光。

 それによって鈍くきらめく紫の瞳と、口元から覗く片方だけの牙。そしてその先に付着している赤いもの。

 紫陽は首筋に手をやる。

 さっきまでは無かった、虫刺されの様な小さなものが出来ていた。

「吸血鬼。そう呼ばれるらしい」

 雨月は汗を拭い、一つ息をつく。

「……人間じゃないのね」

 震えそうになる声をぐっと我慢し紫陽は問う。

 その問いに対し、雨月はふっと鼻で自嘲気味に笑うと、左の牙に触れる。

「片牙だから半分人間……かな」

「どういう事?」

 眉をひそめる紫陽に、雨月は再び寝転がり言った。

「その話は長くなるからまた今夜。それまで君は好きなように過ごしておいで」

 俺の事は気にするなと言い残し、雨月は頭から布団をかぶる。

 紫陽は巾着を拾い上げると、足早に外に向かった。




「吸血鬼ぃ!?」

 濡れた髪をぎゅっと絞りながら、椿はカラカラと笑う。

 行きつけの風呂屋で熱い湯に浸かった紫陽は、とりあえず頭の中を落ち着かせていた。

 そこで偶然椿に出会い、雨月の話をしてみたのである。

 しかし椿は今朝の事を忘れていた。むしろ雨月という人物に出会っていないと言う。

「確か人の生き血を吸う妖怪でしょ。で? その吸血鬼の雨月っていう男がいるって?」

 紫陽は首筋を見せる。椿はまじまじと見つめた後、苦笑しながら「虫刺されじゃない」と言った。

 紫陽を見る目が、心なしか気の毒そうになっている。

「あんた疲れてるんじゃない? 早く休みなよ」

 反論を待たずにそう言うと、椿はそそくさと風呂屋を出て行った。

 仕方なく紫陽も腰を上げ風呂屋を出る。しかしすぐに部屋に戻る気も起きず、通りをぶらぶらと歩く。

 この時間になると、ほとんどの遊女は休むために自分のくるわに戻っているために人通りは少ない。それに合わせて、店や行商人も商売を終える。

 紫陽はそんな行商人たちの横を通り過ぎようとした。その時、片付けながら交わされていた会話が耳に入ってきた。

「吉原の……っていう遊女だろ。可哀想になぁ。まだ下手人は見つかってないんだろ?」

「下手人っていうか、あれは人間業じゃないだろ」

「まぁ、血が抜かれて干からびてたっていうからな」

 紫陽の足が止まる。

 それに気が付いたのか、一人が紫陽に苦笑を向ける。

「すまないねぇ。物騒な話して。同じ立場のもんとしていい気分じゃないだろう」

「いえ……初耳です。どういう事なんですか?」

 興味を持ったのが意外だったのか、二人顔を見合わせる。

「つい先日、吉原で死体が見つかったんだよ……」

 行商人は手を止め語りだした。




 吉原の中では下流に位置するとある遊郭ゆうかく

 その遊女は、客もつかないお茶ひきだった。

 しかし気にやむ事は無く、遊女たちからは好かれる性格をしていたという。

 それが先日、朝が来ても姿が見えない。昨日もお茶ひきだったので、客の相手をしていて寝過ごしているわけではない。

 まぁそのうち起きてくるだろうという事で、朝食の時間になっても誰も呼びには行かなかった。

 そうしていると自由時間になり、みんなその遊女の事は忘れてしまっていた。

 夕方、髪結いの者がやってくるまでは。

 仕事前のいつもの風景。通いの髪結いがやってきて、遊女たちの髪を結う。その髪結いが例の遊女の部屋を訪れた。ふすまの前で声を掛けるが返事が無い。この時間に部屋にいないのは珍しい。仕置き部屋に入っているのなら別だが。

 掟を破る人ではないのだが。首を傾げながらもう一度声を掛けた。

 その時、カタンと小さな音がした。

 もしかして体調でも崩していて声も出せないのかもしれない。

 髪結いは急いでふすまを引き開けた。

 夕日で赤く染まった部屋。開けられたままの障子。

 そこに寄りかかっている、艶やかな着物を着た遊女。

 しかし遊女の体は、何年も外に捨て置かれていたように白く干からびていた。

 番所の者たちが来て、この異様な死体の検分が行われた。

 死因は失血死。体中の血が無くなっていた。

 しかし大きな傷は無く、見つかったのは首筋に二つ並んだ、少し大きな虫刺されの跡だったという……




「人の血を吸う大きな虫なんて聞いたこともないし、人間の仕業としてもなぁ……」

「妖しげな外法でも使ったんじゃないか」

 まぁ気を付けなよと言い残し、行商人たちは大門へと去って行った。

 紫陽は首筋に震える手をやる。『失血』『虫刺され』そして『吸血鬼』……

 しかし紫陽が戻る場所は驟雨楼しゅううろうにしかない。

 ぎゅっと巾着を握りしめ、紫陽は帰途についた。




 ふすまを開けると、出てくるときと変わらずに雨月は布団にくるまっていた。

 小さく唾を飲み込み、紫陽は障子側に腰を下ろす。そして意を決したように一度口元を引き結ぶと名前を呼んだ。

「雨月」

 答えるようにのっそりと雨月は目だけをだす。

「まだ明るいじゃないか……」

 と言うと、再び隠れてしまう。

「吉原で遊女を殺したのは貴方?」

 紫陽の問いに、だらけていた雨月の雰囲気が変わった。

 ぴんと糸を張ったような緊張感。

 やがて、「違う」と返ってきた。

「吸血鬼なのに?」

 紫陽はそろりと障子に手を伸ばす。眩しいのが苦手なようだから、襲ってきたらすぐに開けてやろうという魂胆である。

 しかし雨月は襲い掛かってこなかった。上体を起こし、ただじっと紫陽を見つめる。紫に光る瞳で。

 そして微かに首を振ると再び横になる。

「ちょっと……」

 雨月の態度に業を煮やし、紫陽は思わず雨月に近寄ってしまった。

 雨月の手が伸び紫陽の腕をつかんだ。ひやりとした感触に、紫陽は手を振りほどこうとするが、それより早く布団の中へと引き込まれる。

 襲われる……っ!

 ぎゅっと目を閉じ、身を固くした紫陽だったが、首筋に痛みが走る事は無く、布団の温もりに包まれた。

 恐る恐る目を開ける。目の前には雨月の胸があった。

 寝息に合わせて規則正しく上下する胸に、紫陽はそっと耳を傾けてみる。

 鼓動は聞こえなかった。

 紫陽は心臓があるだろう場所に手を添えてみる。やはり鼓動は感じられず、ただシャツ越しに肌の冷たさが伝わってきて、紫陽は改めて人間じゃないなと思った。

 それをなんだか悲しく感じながら、紫陽は眠りに落ちていった。

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