第3話 あきちゃんのこと
もう子供は無理かもしれない。
そんな予感があった美和ちゃんは、夫氏と結婚する前に子供のことについても話あった。夫氏は子供云々よりも美和ちゃんの意向を確認しておきたかったようだ。
子供が出来ない場合、不妊治療はするのかしないのか、するのであればいつからか。
美和ちゃんはやっぱり子供が欲しいと思っていた。夫氏も同じ気持ちだった。なので、何回かチャレンジしてダメだったら不妊治療をしよう、ということで落ち着いた。
そんなこんなで、あれよあれよと両家への挨拶を済ませ、あれよあれよと式を挙げ、ドタバタが終わってようやく一息ついた時、美和ちゃんは生理が遅れていることに気づいた。
そう。美和ちゃんは妊娠していたのである。
なーんだ。結局うまくいくんじゃん。
美和ちゃんもそう思った——が、それは第一子に限ってのことだった。
その後、美和ちゃんは三回妊娠して三回流産した。どれも初期の流産だった。
流産はそれほど珍しい話ではない。若くても、受精卵に問題があれば流産する。ただ歳を取るとその確率が上がるというだけの話だ。妊娠すれば無事に出産できるなんてのは幻想なのだ。当たり前に子供を持てるなんて思ってはいけない。若くても子供を授からない人もいる。子作りしようとしてそれに気付くなんてこともザラな世界なのだ。
美和ちゃんと夫氏が第二子を諦めた頃、案の定、日本政府は不妊治療の保険適用の検討に入った。年齢の上限は四十三歳。妥当な判断だと思ったが、またしても氷河期世代には遅すぎる対応である。
本当にこれの繰り返しだな……。
美和ちゃんは遠い目でそのニュースを見ていた。
もちろん、恩恵を受ける人間は沢山いる。なので出生率の向上については若い者に任せることにして、美和ちゃんはこれ以上考えるのをやめた。
子育てが想像以上に辛すぎて、それどころではなかったのだ。
喋ることも出来ず、泣いて飲んで排出する以外は、寝るか、芋虫のように手足を動かしているかの赤ん坊と二人きり。産後のダメージが癒えない体で、頻回授乳に耐えなければならない。どこもかしこも痛すぎる。
それでも、美和ちゃんの子どもはよく寝る子だったのでまだ救いはあった。子供と一緒に寝れば三時間くらいは続けて寝ることができたからだ。
本当に、この時期の女性の話はどれもこれも悲惨な体験ばかりで、ろくな話を聞かない。産後鬱だって、そりゃそうだろう。ズタボロの体で寝ることすら満足に出来ず、痛みしかない体に鞭打ち、ホルモンバランス狂いまくりの上に「子供は可愛いもの」「無償の愛を注ぐ対象」という既成概念に縛られながら命を削らなければならないのだ。
「子どもを可愛いと思えなかった」
「私はこの子の奴隷だと思った」
「泣き止まない子供を何時間も抱っこして、このまま手を離したら楽になれると思って、自分のやばさに気づいた」
そんな言葉を口にする母親は意外に多い。
育児の実情を知る母親は共感こそすれ、否定は出来ないだろう。
では何故母親が子育てをしているか、と言えば愛情だったり義務だったり、使命だったり、つまりはそんなとこだ。
母親たちは二律背反の世界を行ったり来たりしながら時に癒され、時に戦っている。
美和ちゃんは子供を出産した瞬間に、子供が自分の管理から外れて一つの個体になったと感じた。臍の緒で繋がっていない彼女はもう個人であり、完全に別の生物だ。つい先ほどまで胎の中で猫の子のように動いていたのに、とてもとても不思議な体験だった。
そして、世界中の子供が可愛く見えて仕方なかった。子供を守るよう何らかの脳内物質が出ていたのかもしれないが、自分の子はもちろん、生物の種別を問わずテレビに映るありとあらゆる子供たちが異常なくらい可愛く見えた。
身体の苦痛と脳の変化はプラマイゼロだった。でなけりゃ、陣痛以上に苦痛だった頻回授乳に耐えられるわけがない。
あきちゃんと名付けられたその子供はスクスクと成長した。言葉の爆発期が到来し、少しずつ人間らしさを備えつつあるあきちゃんは、イヤイヤ期の最中、はらぺこあおむしの歌を熱唱している。
「しゅいよーび、しゅいよーび。りんごをいーちゅつにたべました。それでーも。やっぱーりおなかはぺーこぺこー」
文字を読めるわけではないし、保育園で流れていた歌を覚えたのか、月火飛び越え水曜日から始まるはらぺこあおむしである。
いきなりリンゴを五個も食べるなんて微笑ましい限りではないか。
「しゅいよーび、しゅいよーび。なーしをいーちゅつにたべました。それでーも。やっぱーりおなかはぺーこぺこー」
あらら。また水曜日。そして梨も五つ食べるのね。
「しゅいよーび、しゅいよーび。しゅーももをいーちゅつにたべました。それでーも。あおむしはたべたいもののなんでしょぉー」
……えーっと……水曜日多くね?
不動産屋はシャッター閉まりっぱなしだな。
そんな心が通じたのかは定かではない。ページをめくったあきちゃんはいきなり沈黙した。
「木曜日は何食べるの?」
美和ちゃんが尋ねと、
「いちごをよーっちゅにたべました」
いきなりの軌道修正である。
そして、あおむしの爆食が始まると、あきちゃんは更に熱の込もった声で歌い始めた。
「ちょこれとけーきと、あいすくむーと、ぴくるしゅと、ちーずとさーらとぺろぺろきゃでぃとさくらのぱい……」
サラミがさーらになっているし、さくらんぼパイが何か違う食べ物になっているが、まぁ良しとしよう。
「そーせー」
ジが足りん。
「かぷけー」
キも足りん。
「それからしゅいかですすすってー!」
すは多すぎる。
かくして青虫は腹痛の後、立派な蝶へと変貌を遂げた。
あんたもとっとと大きくなって、せめて着替えぐらいは自分で出来るようにらなってくれ。
美和ちゃんはご機嫌なあきちゃんを眺めながら切に願うのであった。
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