青帝廻りて

守宮 靄

やがて春になるまで

 かつて大地はそのほとんどすべてが雪と氷に覆われていたから、ひとや獣は僅かに残る洞窟に潜み隠れるようにして細々と暮らしていた。厚い雲を隙間なく敷き詰めた空は来る日も来る日も同じ灰色で、吐き出す雪の濃淡を気まぐれに変えるだけであった。


 そんな時代、ひとりの少年がいた。まだ狩りに参加できぬほど幼かったが、誰よりも足が速かった。同じ洞窟に住む兄や妹、いとこたちとかけっこをして負けたことなどなかったし、鬼ごっこで捕まったこともなければ捕まえられない相手もいないのだった。

 ある日の少年は姉に頼まれた皮を裂いて紐を作る仕事をほっぽり出し、洞窟の外へと遊びに出かけた。その日の雪はちらちらと舞うだけで、毛皮の服や靴を纏っていれば凍える心配はなかった。誰よりも速く駆けることができ、そして誰よりも走ることが好きだった少年は、あてもなく駆け回り始めた。上気した頬にふわりと触れては溶けていく雪の感触が心地よかった。ただ不幸なことに、自分では分かっていなかったのだが、少年は途方もない方向音痴なのだった。


 自分の家である洞窟の近くを走り回っていたはずが、気づけば見知らぬ洞穴に迷い込んでしまっていた。しかしそこで怯えて引き返すような性質ではなかった少年は、意気揚々と冒険を続けた。ごつごつとした黒い岩でできた穴は狭く暗くなりながら下へ下へと潜っていく。天井で額を擦りそうになったので、四つん這いになってなお進む。鼻先の風景さえも見えないほどの闇のなか、手のひらにちくちくと苔が刺さる。これ以上狭くなってしまえばいくら小柄であるとはいえ穴につっかえて出られなくなってしまうかもしれない、そんな不安が頭をもたげたところで、唐突に目の前が開けた。


 少年の家よりも広いその空間は、不思議なことに外より冷えた空気で満たされていた。天井からは無数の氷柱つららがぶら下がっている。氷柱は地面からも立ち上がり、少年の行く手を阻む。氷柱たちは自ら淡い青の光を放ち、洞穴の中をぼんやりと照らしていた。生まれて初めて見る光景に口をあんぐり開けたまま見とれていた少年だったが、黒く沈む洞穴の奥の方から放たれる光を見つけた。尖った氷柱の先が頭に刺さらないように気をつけて、細い氷柱を手足でぽきぽき折りながら、光の方へと歩いていった。


 光の源は少女であった。氷柱と同じように透き通り、淡く発光している。立ったまま眠る少女の頭には幾本かの氷の杭が突き刺さり、足元もまた氷で固められていた。顔を寄せれば、滑らかに透ける頬の内側に青白い細かな泡の帯が走っているのが見て取れる。少女の身体はそのすべてが——少年のそれとはまるで違うしなやかな曲線をもつ胸や脇腹や脚、華奢な肩と腕、閉ざされた瞼の先に生え揃う長い睫毛の一本一本までもが、氷でできているのだった。眺めるだけでは我慢できなくなった少年は、少女の頭と足を固定する氷を拳で叩き割った。衝撃と冷たさで少年の拳は真っ赤になり、じわじわと痺れ、感覚が遠くなっていく。脳天に刺さる最後の氷柱を折ったそのとき、少女の身体は硬直したままぐらりと前へかしいだものだから、危うく少年は押し倒されてしまうところだった。受け止めた身体が発する冷気は毛皮の服越しに伝わり、少年は身震いした。熱い頬と冷たい頬が触れた状態でじっとしていると、熱は奪い奪われ分け与えられ等しい温度に近づいていく。氷が溶けて頬を濡らすのを感じながら、このままじっとしているのがとてももどかしいような、しかし許されるなら自分の頬が冷えきってしまうまでこのままでいたいような、うるさい鼓動に合わせてゆらゆらと揺れる気持ちを持て余していた。


 しばらくして、少女に変化が起こった。肩から指先まで一体となってかちこちに固まっていた腕の、肘と手首が動くようになった。それから足首、膝、股関節、腰、肩、首、と全身の関節が順々に関節としての役割を持ち始める。ぐったりとした身体はこれまでのように支えているのが難しく、どこかに腰掛けさせでもした方がいいかもしれないと思い始めた少年は、少女の頬から頬を離し、鼻が触れそうな距離でその透明な顔を見た。と、固く閉ざされている、いや閉ざされていたはずの瞼が痙攣し、ゆっくりと氷の針の睫毛が持ち上がった。透明な表情のなかで大きな瞳が青く鮮烈に発光していた。驚いた少年はうっかり身を離しかけ、しかし少女があらぬ方向によろめくのを見てまた抱きしめた。今度はゆっくりと慎重に身体を離し、少女の左右の肩から固い二の腕、尖った肘、細い前腕を手のひらで撫でながら半歩後退り、最後に冷たい両手を握った。少女はやや前屈みに両腕を差し出したまま、ぼんやりと自分の手を握る少年に目を向けている。少年がさらに一歩下がると、手を引かれた少女の右足は前へ出た。その動きはどこか不自然でぎこちなかったが、左足、右足、左、右とゆっくり繰り返すうちになめらかな歩みに近づいていった。少年が片手を離してしまっても、もうおかしな方向に倒れることはない。

 握ったままのもう片方を離してしまっても少女はそのまままっすぐ立っていられただろうが、そうしてしまうのが惜しかった少年は冷たすぎる手を強く強く握りしめ、同時にぎゅっと目を瞑った。すると冷たい手も痛いくらいに強く握り返してくるものだから、嬉しくなってぱっと顔を上げ少女の顔を見てみると、そこには何の色もないぼんやりとした表情だけがあって、何を期待していたわけでもないのにがっかりしてしまうのだった。


 少年は名残惜しい思いで手を離した。帰る家とそこで待つ家族がいるのを思い出したからだ。道が見える明るさのうちに帰り着かなければならない。

「また、朝になったら来るからね」

 少女の目をじっと見つめながら言うが、青く光る瞳は少年の顔など突き抜けてどこか遠くを見ているようだった。表情は変わらず虚ろで、伝わっているのかいないのかわからない。

「じゃあね」

 胸の前で手を振ると、少女も少し遅れて真似をした。反応が返ってくるだけでこんなに嬉しいのはどうしてだろうと思いながら彼は洞穴を這い出て、どこからか湧いて胸を満たすあたたかいものに突き動かされて走り出した。




 雲が厚すぎるため明暗以外で判別できない夜が明け、昨日より雪の多い薄灰色の朝がやってくると、少年は母や姉に仕事を言いつけられる前に家を抜け出した。昨日通った道を思い出しながらどうにかこうにかあの洞穴に再び辿り着き、さあ入ろうと覗き込んだら目の前に人影が蹲っていたのでびっくり仰天し、もう少しで腰を抜かすところだった。少女は洞穴の入口で膝を抱えていた。雲を透かす光と雪の乱反射が屯するそこでは全身から放たれる淡い光は打ち消されてしまっていたが、そのぶん肌の澄明さはいっそう引き立てられ、そして不思議なことに瞳の輝きは増しているのだった。

「待っててくれたの?」

 問うたときに少女が目を細め、口角を上げるのを見てまた胸が高鳴ったが、それは少年の表情の模倣であることに気づいて少し気恥ずかしくなった。手を差し出せば冷たく固い手が重ねられ、握って軽く引き上げると少女は立ち上がった。普段きょうだいたちと遊ぶときのようにそのまま駆け出そうとして思いとどまる。昨日歩き始めた少女が、いきなり少年と同じ速さで走れるわけがない。少年は少女の手を引きながら、ゆっくりと走る動作をしてみせた。最初のうちは腕を妙な様子で動かしてみたり脚を縺れさせたりしていた少女だが、少年の動きを真似するうちに走るという動作に慣れてきたらしい。ふたりは少しずつ脚の動きを早め、腕を大きく振り、少年だけが白い息を吐いて飛ぶように駆け回り始めた。


 目的地などなかったから、気の赴くままに走り続けた。足跡ひとつない雪原に二重破線を引いていった。氷の蓋が剝がれることのない湖を見た。手を握れば握り返してくれた。眠る獣の親子の巣を覗いた。まだ湯気の立つ肉を貪る黒い獣を遠くから眺めた。行進する巨大な獣が豆粒のように見えていた。走るふたりの歩幅とリズムは影よりも揃っていた。


 駆けながら何度も少女の顔を見た。少女は昨日の空虚な顔が嘘のように微笑み、透明な歯を見せて笑い、しまいには大きな口をあけて笑うのだった。その表情が自分の真似っこであることは分かっていたが、だからどうしたというのだろう。少年は楽しくて嬉しくて仕方なかったし、それはすぐに顔に出てしまうから、少女の笑みもいっそう深くなっていくのだった。

 ふたりは空が暗くなるまで駆け回った。あの洞穴の前で別れるとき、少年が手を振るのと同時に少女も手を振り始め、少年が微笑む前に笑った。少年は高揚感のまま、笑いながら走って帰途についた。




 その翌日の少女は異様な風体をしていた。昨日まではその透き通る裸体を惜しげもなく晒していたのに、今日は全身に赤茶色の物体を纏わせている。腕から腰から垂れ下がるそれは、洞窟に生える苔を剥がして貼り合わせたものなのだった。意図が分からず戸惑う少年をよそに、少女は満足そうな顔をしていた。どこか誇らしげに少年の胴を指差し、続いて身に纏う苔を手で引っ張る。ああ、これは。

「服、つくったの?」

 少女の仕草を鏡写しにするように毛皮の服を引っ張ると、少女の笑みは深くなった。つられて少年も微笑む。

「おんなじだね」

 実のところはちっとも『おんなじ』ではなかったのだが、それは些細な問題なのだ。真似して真似されて、少しずつ近寄り似通っていくのは、そうありたいと願うのは、今まさに繋いだ手の温度差が小さくなり溶けあって境がわからなくなっていくときと同じように幸福だった。

「行こう、今日は見せたいものがあるんだ」

 少女の手を引いて駆けだした。


 少年が見せたかったのは温かい泉であった。昨日の帰り道、迷子になっているときに偶然見つけたもの。その泉に手や足を突っ込んで温めていると、えも言われぬ心地良さに浸れるのだ。

 大粒で重い雪のなか、白い帽子を被る岩の狭間、もうもうと上がる湯気の中心にその泉はあった。少年はまず皮の靴を脱ぎ、両足を泉に浸してみせる。少女もまた興味津々といった様子で、透き通る裸足を白い蒸気の中に差し出し、泉へゆっくりと沈めた。青い瞳を見開いて驚いた顔をし、少年の方を向いてその顔を綻ばせ、そして。


 崩れた。


 ただの苔の塊は泉に落ち、ゆっくり拡散してばらばらに散っていく。あとに残ったのはそれだけだった。

 少年は咄嗟に声を上げようとして、呼ぶための名前も知らなかったことに初めて気がついた。泉を汚して広がっていく苔が脛に触れる前にそろそろと両足を引き上げ、裸足で雪を踏みながら数歩後退りした。そして、くるりと背を向けて弾かれたように走り出した。

 自責、悲しみ、後悔、恐怖、そして名づけられないままの感情すべてが少年の中で渦を巻き、内側から胸を掻きむしった。少年は泣き喚きながら、逃げるように、追い立てられるように走った。追い立てるものは胸の中にいたから逃げることなどできなかった。少年はこれまで生きてきたなかでいちばん速く走った。




 泣きながら走り続けた少年のはだは風に削られ、瘡蓋かさぶたで覆われていく。その瘡蓋さえもできる端から風で剥かれ続ければ、さらに厚い瘡蓋へ取って代わられる。二本足では追いつかなくなって、両腕を使って凍る大地を押しながらなおも駆ける。あまりに速く走ったために流線型へ変わった身体の鼻先から、いつの間にか生えていた尾の先端まですべてが瘡蓋で覆われ尽くし、それらが向かい風に飛ばされるようにして剥がれていったとき、少年の全身は硬く重い鱗で覆われていた。鱗で鎧われた身体は力強くも鈍重であったから、もどかしい思いで身体を揺すりながら走っていく。硬く厚く重い鱗までもが風に耐えかねてぼろぼろとまとめて剥がれ落ちたあと、その次に生えてきたのは羽のように軽く薄氷のように澄んだ鱗であった。軽くなった少年の身体は宙に浮く。長く長く引き伸ばされたその肉体をくねらせ、泳ぐように飛んでいく。悲しみや後悔は重い鱗とともに脱ぎ去り、今や一匹の龍となった少年は、失ったものを探すために駆けていた。




 厚く垂れ下がる雲を裂いて翔べば、雲は隠し持っていた雷の鉤爪で少年を襲った。掻かれ欠けた薄氷の鱗は砕けながら大地に降り注ぎ、雹となった。

 少年の速さ長大さを慕ったのは、世界の果ての凍らぬ海にてとぐろを巻いて惰眠を貪る東風こちの子らだった。東風らは龍の身に纏いつき、絡み合いながら飛んでいく。




 巻きつく東風の群れは龍の身と複雑に縒りあい、もはやふたつを区別することなどできない。大地を押し潰していた厚い雲はばらばらに引き裂かれて白い骸を晒し、陽光は瀑布のように天から落ちて大地を満たした。東風はるかぜを飲み込んだ龍の鼻先が掠めた土地の雪は溶け、氷は緩み、止まっていた水は山から谷へさらさらと流れ、柔らかな大地から草木の芽が萌える。様変わりした世界に戸惑いながらひとも獣も洞窟から這い出し、肺を光で満たしながら、今まで氷漬けにされていた土の匂いを生まれてはじめて嗅いだのだ。



 少年はいまや、春そのものとなっていた。





 泉に背を向け走り始めたあの日から幾劫の月日が過ぎた今もなお、少年は少女を探し続けている。すべての雪と氷を溶かし、埋もれ隠された大地を暴き、暖かな光のさす春へと変えていきながら。

 それゆえに何千何万何億回、春そのものとして大地をめぐったとて、永い時間の果てにふたたび氷洞に生まれつき、かつてふたりで駆けた銀世界を夢みて眠る氷柱の少女に巡り会える日は二度とこないということを、彼に伝えられる者はどこにもいない。

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