第4話 すっかり馴染んでいた

 一ヶ月後。


 私はすっかり、アレジア地区に馴染んでいた。


 朝起きて屋敷の掃除と洗濯、食事を済ませたら、午前中は地区のあちこちから集めてきた資料をまとめる。先代子爵が亡くなってからのワインの出荷に関する資料、クレイトン卿の会社との取引に使われた帳簿、地区内外の商取引と出入りする商人の照会などを中心に行う。


 隣領の郵便局に頼んで、臨時の回収便を出してもらい、一日一回は屋敷前のポスト代わりの木箱に入った手紙を取りに来てくれるようになった。それまでは皆、隣領まで郵便の受け取りに行ったりしていたようだ。


 とにかく、アレジア地区は名目上ズムウォルト子爵領なので、他領にもそれに準じた扱いをしてもらわなくてはならない。そのために、商人たちへ不正をしてちょろまかしていた税金の徴収を督促したり、他地域より不当に値上げをしていた物資の過払金請求をしたり、クレイトン卿が来るまでにそういった面倒ごとを清算しておこうと私は決めた。


 最初、私がワインの工場こうばに出向いて資料を見せてほしいと頼んだとき、つたないながらも文字の読み書き計算ができる経理担当の農夫は怪訝そうな顔をしていた。


「どうしてそんなことを? 昔の生産額なんて大雑把だし、今更何に使うんだ?」


 それに対して、私は自分なりに丁寧に説明した。


「それ自体がどうこうというわけではなくて、他の数字と合わせて考えたときに、ここはおかしいな、と分かることが重要なのです。たとえば、悪徳商人に騙されてしまったときの被害算出や、ブドウが不作だったときの対処法と効果が分かったりします。基本的に、アレジア地区の方々が損をしないよう、今の生活を守れるように使います。なので、見せていただけませんか?」


 経理担当の農夫は少し考えてから、許可を出してくれた。


「ふーむ、なるほど。分かった、ノートとかはそこにあるから、自由に見てってくれ」

「そこ……えぇ?」


 そこ、とは工場こうばに入ってすぐ横のサイドチェストにしか見えない棚のことだった。まさか紙の資料がこんなところに乱雑に置かれているとは思わず、私は一旦屋敷で預かって、経理担当の農夫とともに清書し直すことにした。その劣化具合たるや、何度も触れているとボロボロに砕けてしまいそうなほどだ。


 そのほかにも、ラースの様子を見に、という名目で私は何度も工場こうばを訪れた。


「ラース、馴染んでいるわね」

「おかげさまでね。いや本当、肉体労働ですよ」

「御者の仕事があればまた呼ぶわ。それまでここで働いていてね」

「はいはい、まったく……」


 どのみち、御者がラースの本業というわけでもない。馬の扱いができるからと任されただけの仕事だ。貴族の家にあるまじき雇い方だが、いなくなる娘に気遣いも何も無駄だとばかりのやり口に、私はこうも思った。


「お父様がこんなことを許すとも思えないから、家の中はおそらく執事たちにやりたい放題されているんでしょうね……差分で浮かせたお金を着服している可能性だってあるわ」


 つまり、フィオレ侯爵は私の出立に際してある程度お金を使わせていいと許可を出していただろうが、執事たちがボロ馬車を押し付け、そのへんにいた若者を安価に雇って私を追い出し、余った金を自分たちの懐に入れていたと思われる。


 まあ、もう出てしまった家のことなど、私に関与できるわけでもなし。気付いても放っておくしかなかった。


 ラースに工場こうばを案内されて分かったのは、工場こうば内は二つの区画に分かれているということだ。


 一つは工場こうばの主屋にある醸造所。貨物の積み込みができる広い前庭を有し、建物の中は醗酵用の大桶が並んでいた。熟成は地下室で行うようで、今の時期、外では熟成用ワイン樽を作る作業が行われていて、木を叩く心地いい音がしている。


 もう一つは、収穫したブドウを陰干しするための干し場だ。主屋の影になる場所に、風通しのいい窓の多い小屋がある。何段もの棚の網の上に干しブドウがこれでもかと並び、それを使ってアレジアワインを作るようだ。ここで枝や茎の除去、選別も行うため、主屋と同じくらい人の出入りがある。


「ねえラース、干しブドウからワインってできるのかしら?」

「できるらしいですよ。甘くて美味しくなるとか」

「へえ……私はまだ飲めないけど、そういうものもあるのね」


 新しい世界の情報に、私はすぐのめり込んだ。今までは家の中で大人しくしている淑女としての教育、とは名ばかりのマナーや刺繍、ダンス、女性向けの簡単な小説を読むための時間くらいしかなかった。


 それが、屋敷の外ではまったく違うことばかりをやって、学んで、歩いて、知っていく。料理だって卵一つの目玉焼きから、掃除は頑張って繕った雑巾を水に浸すところから、それに、粗末な紙に万年筆で計算式や数字を書くことが紙の繊維に引っかかってしょうがないことも初めて知った。


 あらゆることが、こんなにも大変だとは私は知らなかった。アレジア地区の人々が入れ替わり立ち替わりやってきて、「困ったことはないか?」、「食べ物を持ってきた」、「お茶はどう?」などと毎日声をかけてくれる。


 最初は警戒されているのかとも思った。しかし、違った。


 それが判明したのは、私がフライパンを持ち上げてこう言った瞬間だった。


「これは飾りですか? 何かのお祭りの……?」


 浅型の鉄製フライパンを、てっきりアレジア地区だけで使われているものとばかり思った私の言葉を、キッチンの整理整頓や道具の補充に来ていた女性たちが戸惑いながら受け止めた。


「フィーヌ、それは料理の……あー……焼く道具だよ」

「ほら、目玉焼きとか作るの!」

「これで!? どうやって!?」


 私のその反応を見て、その場にいた私を除く女性たち全員が「そこからかぁ……」という雰囲気に包まれていたことは、大変印象に残っているし、今でも恥ずかしい。


 井戸水を汲むのは分かる、庭師のやり方を見ていたからだ。だが、料理など貴族の女性はしない。掃除も、洗濯も、書き物に粗末な道具を使うことがまずありえない。


 それから毎日、手の空いた女性たちがその日鶏が産んだ卵を持ち寄って、私に目玉焼きを焼かせる特訓が始まった。その場にいる人数分、目玉焼きを焼くのだ。余った卵はお菓子にする。とにかく私は、皆に迷惑をかけるのが申し訳なくて、料理を教わることを『選んだ』。


 そうして、瞬く間にアレジア地区の全域に私の噂が広まり、こう認識されていたのだ。


「グウィオンの花嫁はいいところのお嬢様で、放っておくと危なっかしいからしっかり見ておくこと」

「何でも自分でもやりたがるからちゃんと最後まで教えること。教えれば意外と何でもできる」

「井戸に落ちないようくれぐれも見張っておくこと。自分の体重の軽さを分かってない」


 最後の認識については、私が何かと井戸周りでうろちょろしていたからそうなったらしい。


 まるで手のかかる子どものように思われているが、それはそれでありがたいことだ。そう思って、無知を晒した恥ずかしい気持ち——思えばこれは、勝手に見下されたと傲慢に思っていたのかもしれない——を抑え込んで、毎日色々な人に色々なことを教わっている。


 それが一ヶ月も続けば、だんだん慣れてくるし、理解してくる。


 彼らはセラフィーヌという令嬢のことは知っていても、私が貴族であることは知らないし、結婚相手を決めるくじ引きのようなもので来た、ということも知らない。


 そのことは、私ももう、あまり気にしなくなった。バルフォリア公爵家に嫁いだ姉マルグレーテのことも、生家フィオレ侯爵家のことも、私には金輪際関係ないのだと、はたと気付いてしまったのだ。


 だから——アレジア地区の農夫たち、女性たち、その子どもたちや老人たち、彼らが見るセラフィーヌという令嬢は、今の私の正真正銘ありのままの姿なのだ、と。


 クレイトン卿の花嫁という関係性以外、何の尊称も、家名もついていないセラフィーヌは、「放っておくと危なっかしくて」、「何でも自分でやりたがって」、「教えれば意外と何でもできる」し、でも「井戸に落ちそうで見張っておく」ような十五歳の少女なのだ。


 それでいいのではないか。


 それでもいいのなら。


 そう思えたら、ストンと腑に落ちた。


 それ以来、私はアレジア地区の代理官セラフィーヌこと『フィーヌ』になった。


 なので、私はアレジア地区の工場こうばにクレイトン卿グウィオンがやってくると伝え聞き、一瞬「誰だっけ」と呆けてしまうほど現地生活に馴染んでいた。

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