第3話 選んだら得られた結果は
西に高い連峰を望む丘陵地帯は、まるで楽園だった。
広がるブドウ畑はずらりと並び、切り揃えられた木々が綺麗に整列している。畑ごとに区切られた石垣と固められた黄土の乾いた土道は清潔そのもので、雑草や泥一つない。よく見ると、石垣のそばに側溝が掘られていて、真ん中が少し膨らんだ土道は雨が降ったとしてもスムーズに側溝へ流れていくのだ。
これほど考えて整備された村が、丘陵地帯のあちこちにある。風車や鐘楼のような高い建物はなく、素朴な木造の平屋は大きめに作られ、同じ造りでもいくつか住宅ではないであろう建物もあった。何かの
黙ってここにいるよりも、そこに行ってみよう。私は『選んだ』。
馬車の御者の席に向かって、私は窓を開けて叫ぶ。
「ラース、あの大きな
「承知しました、すぐ着きますよ」
御者のラースが馬へ鞭を入れる。これまでの道と違い、轍のない整った道を馬車は走る。
そして、ラースが言ったとおり、すぐに
馬車の車輪の音と蹄鉄の音が聞こえたのだろう。中から
私は停めた馬車を降り、被っていた麦わらとリボンでできた帽子を直し、チェック柄のドレスの裾を払って、彼らに一礼した。
「突然の訪問で驚かせてしまってごめんなさい。私、クレイトン卿よりズムウォルト子爵領の領地経営について一時的に任されました、セラフィーヌと申します」
できるだけ聞き取りやすいよう、大きな声を出したが、伝わっただろうか。
私のそんな心配をよそに、人々は驚き、何とも珍妙なことに、こんなことを口にした。
「え? 子爵家ってまだあったのか?」
「とっくの昔になくなったのかと」
「役人が来なくなってもう随分経つのになぁ」
アレジア地区の農夫たち、言いたい放題である。
とはいえ、何となく事情は察した。先代の子爵が亡くなってから、やはりこの領地は放置されていたのだ。そこは国や貴族側の理由があるのだろうが、放置された側の領地の民たちだってそのままではどうにも立ち行かない。だから、村々で集まって、共同体として生きていくお金を稼ぐためにもワインを作って——管理しやすいように地区という集団まで作った。
それを咎めもせず、把握もせず、放置していたのは本来の責任者であるズムウォルト子爵家や指摘すべき王国の役人らであって、彼らが『放置されたこと』を責められる謂れはない。うん、私もそのくらいは分かる。
なので、私もいきなり来て、彼らの主のように振る舞うつもりはない。
私は資料を持ってきて、免状をそっと農夫らへと見せる。
「こちら、王国からの代理官免状になります。とはいえ、皆様が困っていることがあれば私が手配や調査をするくらいで、あとはこの……地区の情報かしら、それをまとめたいと思っていますの。いかがかしら……?」
農夫たちは唸り、首を傾げ、悩んでいた。どうしていいものか、戸惑っている様子が見て取れる。
そこへ、一人の年老いた農夫が声を上げた。
「あ! ひょっとして、クレイトン卿ってあれか! グウィオンのことか!」
すると、他の農夫たちも「ああ!」と合点が行ったように頷いていく。
この人たち、私の結婚相手について知っている。そうと分かれば、私は農夫たちのほうへ一歩進み出て、さらに何かとっかかりになる情報はないかと耳をそばだてる。ところで時間が経つごとに
「何だ、グウィオンの知り合いならそうと言ってくれ。俺たちはあいつの会社にワインを卸してるんだ。そういえば、あいつ、前にこの土地の権利がどうこう言って調べてたな。そのこともあるのか」
「あ、おそらくそれですわ。そのグウィオン様と私、結婚することになりまして」
「結婚!?」
寝耳に水、祝いごとに敏感な田舎の農夫たちはざわめき、そのせいで余計に私をどうすべきかの意見のまとまりを失っていた。
「ということは……どういうことだ?」
「さあ? とりあえず、グウィオンが他の貴族や商人に買われる前に、この土地の権利を取ってきた、ってことだろ?」
なるほどなぁ、そんな感心した声がいくつか聞こえた。
私もさっぱり事情は知らないが、多分そういうことだと思う。クレイトン卿は国有数の資産家で、先祖代々大陸貿易で財を成した。だから会社くらい大から小まで腐るほど持っているだろうし、このアレジア地区の良質なワインをよそに取られないためにズムウォルト子爵の爵位を根回しして授与されるようにした、というのも十分に考えられそうだ。
私と二十人あまりの農夫たちの認識はおおよそ一致した。私はクレイトン卿ことグウィオンの身内、アレジア地区の農夫たちはグウィオンの取引先。つまり、どちらもグウィオンで繋がっている大切な関係だ、と。
ひときわ体格のいい、ついでに人のよさそうな農夫が話をまとめる。
「それならいいか。よし、お嬢さん、この道の先に元は役人の屋敷だったところがあるから、とりあえずそこに住んでくれ。グウィオンも宿として使ってたんだ。もし修繕が必要そうなら暇な若いのを送り込むよ」
「ありがとうございます。それと、ええと、グウィオン様は、こちらによく来られるのですか?」
「まあまあだな。来るときもあれば、めっきり来ないときもある。大体そういうときは他の国に出向いてたとか、商品の買い付けに時間がかかったとか言ってる」
「はあ、なるほど……早く来ていただけると助かりますけども」
「心配しなくてもそのうち来るだろう。それまでのんびりここで暮らすといい、ここは他の土地と違って穏やかで豊かだ」
その言葉に嘘がないことは、この丘陵地帯を少し見ただけで分かる。人々は身なりが清潔で、道はきちんと引かれ、
諸々安心した私は、お礼を言いがてら、私の後ろで様子を窺っていたラースについて、農夫たちに紹介、もとい要望する。
「あ、そうでした。皆様、こちらのラースに色々お手伝いをさせてあげてくださいな。早くこの土地に慣れないといけませんし、何より彼は他に行くあてがなくて雇っているものですから、手に職をつけさせてあげたいのです」
そんな話は聞いていない、と顔に書いているラースのことなどおかまいなしだ。だって、見知らぬ男性が近くをうろうろするのは、結婚前の淑女として避けたいもの。なので、ラースの身柄は農夫たちに預けたい。仕方ないのだ、仕方ない。
農夫たちは気持ちよく承諾してくれた。
「何だ、それくらいお安いご用だ。よろしくな、若いの!」
「え、ええ、よろしくお願いします」
「じゃあ、ブドウ畑の見回りからだ。その後は井戸の点検とガラス瓶の洗浄作業な」
「そんなに!?」
話を聞くかぎり、ラースに待ち受けているのは重労働だろうと予想される。頑張れ、ラース。
馬車と中の荷物は後で動かしてもらうとして、私は大事な荷物だけ持って、元役人の屋敷という場所へと独り、歩いて向かうことにした。ゆっくり丘陵の広がる地区を眺めていくこともできるし、女性の一人歩きも問題なさそうだから、気分転換にもなる。
貴重品を入れたバッグ一つを手に、私は歩き出す。
それもまた、私が『選んだ』ことだ。
牧歌的な風景は都市の中で育った私の目には新しく、見知らぬ土地だというのに怖さはなく、むしろ冒険心をそそられた。
考えてみれば、今の私は貴族令嬢ではない。来年には子爵夫人になるだろうが、その短い間は私はすっかり実家とも縁が切れた存在で、結婚相手のクレイトン卿からしてもまだ結婚式を挙げたわけではない。
何者でもない、ただのセラフィーヌ。それはそれで、私としては新鮮な気持ちだ。
ひょっとして、クレイトン卿がやってくるまでは、私はズムウォルト子爵領ことアレジア地区の代理官として、何かができるのでは?
誰にも奪われずに、何かを『選べる』のでは?
こんなにもワクワクするのは、久々だった。
なので、すっかり忘れていた。
元役人の屋敷という石造りの平屋は、今私一人で生活するには広すぎて、どうしていいか分からないということを。
おまけに放置ぶりもひどい。屋根や壁際には可愛らしい野花が、と現実逃避したくなるくらい、雑草に覆われている。クレイトン卿が滞在したのはおそらく数ヶ月は前だろう、ひと夏を越えれば雑草だって生え放題だ。
私は玄関先で、尻込みをしていた。
「このあたりで使用人を雇う、なんてまだできそうにないわね……一人でどうにかしないと」
口には出してみたものの、どこから手をつけるかさえ今の私には思いつかない。草むしりなんてやったことはない、庭師の仕事をそばで眺めていたくらいだ。
当然、まともに住めるようにするには、他のこともやらなくてはいけない。だが、その他のことは、私にできることだろうか? 料理、洗濯、掃除、最低限思いつくだけでも三つあるが、この荒れ放題の屋敷でできることとは思えない。
「グウィオン様、いついらしてくださるのかしら。はあ」
——いや、いない人に期待してもよくない。
私は覚悟を決めて、やれることをやることにした。
「掃除でもしましょう。うん、そうよ。その後は食事の準備ね、まずは生活を営まないと」
何度姉マルグレーテに好きなものを奪われてもへこたれない私だ、このくらいで絶望に打ちひしがれたりしない。
よし、と気合を入れたところで、背後から賑やかな声が聞こえていることに私は気付いた。
振り向けば、すぐそこに女性たち——私と変わらないくらい若い農家の娘から、年老いて腰の曲がった老女まで——がホウキや大きな編みかご片手に集団でやってきていたのだ。
水色のエプロンと三角巾を装備した先頭のふくよかな中年の女性が、ハキハキと私へ話しかけてくる。
「ごめんくださいまし! あらあら、綺麗なお嬢さんねぇ!」
「ど、どちら様ですか」
「ああ、全員この村の娘とババアだから気にしないで! この屋敷を使うんだろう? 一人じゃとても管理できないだろうから、総出で手伝いに来たよ!」
「うちの馬鹿亭主が「綺麗なお嬢さんが来たぞ!」しか言わないもんだからさ、とりあえず食べ物を持ってきたよ。都会と違って小料理屋も何もないからさ、お腹が空いただろう?」
集団は騒々しい。口々にきゃあきゃあと主張されてしまって気圧されたが、私はとにかく、手伝いという単語に反応した。
——一人でこんな屋敷を使えるようになんてできるわけないでしょう!
貴族令嬢だったらきっと見栄を張って、手伝いを拒んでいたかもしれない。でも、今の私はただのセラフィーヌだ。
私は精一杯、騒々しさに負けないよう、声を張る。
「はい! 一人じゃ何もできません! 皆様、手伝っていただけるととても助かります!」
その言葉を待っていたかのように、「行くよ、みんな!」と女性たちは屋敷内外にそれぞれ散っていく。窓という窓、ドアというドアを開け放し、ハタキで埃を払い落とし、一斉にホウキで掃いていく。圧巻の早さ、手際の良さだ。
私は邪魔にならないよう、まだ使える井戸の水汲みに従事していたが、すぐにバテて休んでいるよう言いふくめられた。「来たばっかりで疲れているんだから」、「お嬢さんなりにやればいいから」と屋敷近くの古い石ベンチでレーズンクッキーを頬張る仕事に就く。
屋敷のあちこちから活気ある声が響く。笑い声がして、楽しそうに彼女たちは掃除をして、時々やってきた農夫たちが大工道具を持ってトンテンカンと音を鳴らして。
なんとまあ、よそ者の私に親切にしてくれるのだろう。感激さえ覚える。
驚くべき、それでいて非常に助かる歓待ぶりに、私は自分の選択が間違っていなかったと少し報われた気がした。
私は今までずっと『選んできた』が、その結果を享受することはなかった。
その日は快晴の空が星空になっても屋敷は賑やかで、一日中私を歓迎して各家から持ち寄られた食事が振舞われていた。
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