精霊と話す者
焼魚圭
精霊と話す者
白い校舎、木が張り付けられた床、固められた壁にはめられた景色の壁となる窓。ただ決められた様式に沿って事務的に創り上げられた学校という名の建築物。
特筆するような面白みも何ひとつとして持ち合わせていない景色、少しホコリっぽい学び舎の廊下と壁で隔てられ仕切られた教室。その壁の際の席に座って少女は授業を受けていた。と言えども教師の話す難解で高尚な言葉の内容は一切耳に入れる事も無く、流れ続ける声を子守唄にして浅い眠りに時を費やすだけの日々。親が出す金をドブに捨てる様を体現した贅沢な睡眠だった。
静かに寝息を立ててただ眠り続けるだけの少女。きっと不愉快に思う人物がいるだろう。大人も子どもも関係なしに同じ思いを知らずの内に共有している。そのはずなのに周りの生徒も教師も少女を叱る事も無ければ追い出す事も無い。
少女から滲み出て汚染するように空気を塗り替えてしまう雰囲気。不快で近寄ることすらままならない、そんな少女。それを感じているのか近付きたがる人物などこの場に誰一人として居合わせていなかった。つまるところ、何をするでもなく触れないことが重要なのだという判断が手早く下されていたというだけの話。
授業の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。教師は授業を閉じる挨拶をして速足に飛び出していった。生徒たちは肩の力を抜いて談笑を始める。流行り物なのだろうか廃り物の成りかけだろうか。それがどのような話題であれども少女は特に耳に入れるつもりもなかった。
しかしながら少女、金手 刹菜は目を開いた。耳に入る声が、そこからぶつけるように辺りにぶちまけられる感情のひとつひとつが刹菜の耳を叩いていた。眠りを妨げられては起きるしかない。起きたとは言えどただただ沈黙を貫き続けるだけで誰とも仲良く過ごすつもりなどなかった。
刹菜は人々が顔を歪めて声もなく訴えて来ることを今日もしっかりと心に刻んで繰り返し続けていた。顔の雰囲気や表情の動き方に声の色と話し方、周囲にまき散らす言葉の流れや動き、それらに合わせ取られる挙動。刹菜の全てが周囲に不快感を与えている。人の身にして人と相容れない。同じ生き物として完成された欠陥だった。
それは昔からの周囲の反応でわかり切ってきた事実。何をしても否定される。正しくとも否定され、間違えていても間違いだとすら教えてはくれない。そんな刹菜が手探りでこっそりと見つけた対処方法。何もしない事。それこそが最も良い選択肢となる事はまず間違いなかった。
両親は仕事で出かけることが多く、もはや居ないと見ても差し支えの無い状態、幼い頃からある手段を用いることでようやく話し相手にも困らなくなるという有り様だった。両親ともに家に帰ってきた時こそは可愛がってくれるものの、普段いないのならば寂しさを紛らわせるには不十分。大好きな両親と話が出来る時に思う存分話して甘えてみせるだけのことだった。
他の人々は殆ど口のひとつも利いてくれないというケチ臭さの塊となってしまう。言葉は交わしても減るものでもないと主張して関わろうとしたことはあったものの、想いは躱され刹菜の気持ちは減るものだという事実を形にして見せつけられていた。愛されない事が普通であるという現実を見せつけられた。残酷な運命というものをこの人生の中でいつでもどこでも何度でも、良いとは言い難い頭に突き付けられていた。
刹菜が話しかけた相手は殆ど例外なく同じ行動を取っていた。お決まりにでもなっているのだろうか、裏で打ち合わせでもしていたのだろうか。嫌悪感を、異なる顔を同じ貌に染めて目を向けてくる人々を見つめ続けていた。馬鹿でも分かるほどに表情を歪めて見下してくるのはやはり人として下劣で下等だと数字に表すことすら出来ない値を付けられてしまっているのだろうか。彼らは本心を隠す余裕すら残していないのだ。全て決められたパターンに嵌まっていて、同じように動く表情たち。面白みがないことこの上ない、これこそが刹菜の本心、真実の声だった。
冬の乾いた空気によって冷めきってしまった現実に脳の髄まで冷やされ凍り付いてしまおうかといった心を抱きながら窓の外の景色を見つめていた。枯れ切ってすっかりと元気を失った木々はわずかな葉を揺らしていた。きっと弱り切ったざわめきが誰彼構わず鳴り響いてこの世にいるのだと言葉にしているだろう。
誰からも避けられてしまうものの、木々のようにざわめいても両親以外に、たまに家に帰って来る人物以外に仲良くしてくれるヒトがいなかったとしても、刹菜には話し相手がいないわけではなかった。
ひとりでは過ごすことも厳しく寂しいと日々感じるか弱い心の持ち主はその相手に会えるまでの時間の空白の中で心を強く鳴らしていた。今夜が待ち遠しくてたまらなくて、想うだけで呼吸が鼓動が血の流れが早まって行く。人生という時間の流れに身を置く中で、今という長くて退屈な時間を更に長めて必要以上に負担をかけながら色を宿さない瞳で眺めて。
いつのことになるだろうか、どれだけの時を経たように感じられるだろうか。訪れるはずの夜に想いを馳せながら待ちわびる。その時を快適に過ごしたいが為に次の授業もまた、興奮する魂を無理やり抑えながら、我慢という文字を叩きつけながら睡眠時間へと変えていった。刹菜は普通科高校に身を置く生徒の身にして完全に不勉強な夜型の人間へと成り果てていた。
☆
冷気の止まらぬ明るい闇の中、輝く月の周りにはくぐもった光の円が描かれていた。
そんな夜の寂しさを見せない明るい暗闇の中を震えながら歩く。刹菜の吐く息は白く、上がっていくと共に闇を照らす灯りに透けて消えて行った。湯気のような煙が示す通り、震える身体が示す通りの気温に刹菜の目に映る景色はわずかに霞んでいた。寒さに温度を奪い取られて痛みを発する指、薄く細く弱々しくなり行く感覚を無視して一歩一歩確実に踏み出し続ける。
彼女は近所の山を目指していた。日中は子どもたちの遊び場で家族のピクニックにちょうど良い山、しかしながら夜の世界の中では死した者どもがよく現れては奇々怪々なる現象を引き起こすという噂の場所だった。おまけに自殺者が訪れるという闇の側面を持ち合わせ、暗い道は想像を絶する恐怖感を呼び起こしてそれもまた心霊スポットとしての存在を強く訴えかけるという恐怖の循環を作り上げてしまっていた。
そんな山の中、山に入ったと言ってもいいのか分からないようなアスファルトで舗装された蛇のようにうねる道路が伸びて巡る森の中、その中でも非常に手前の方のダムの溜め池が心霊スポットとしての噂の主な発信源だという。
刹菜にとって用のある場所はそう言った人々の口によって蓄積されてきたような噂などではなかった。森の中に大きく切り開かれた公園、それこそが彼女の目指す場所への最も安全な入り口。夜を覆う寒さは身と心に厳しい凍てつきを運び込む。染み込んで、擦り込んで、心情と一体化しようと企んで、想いを支配しようと大きくなり続けていた。冷えた足は熱にも似た軽い痛みを訴える。こうした感覚に目を細めて沸き立つ刺々しい想いを薄っすらとこの世に現わしては白い吐息に変えながら歩き続ける。
やがてたどり着いた長い道路、アスファルトで舗装された道を時たま車が走り、木々を目に入れる気の欠片も感じさせないスピードで駆け抜けて行く。車はそれぞれに制限速度などと言う偉い集団の決めたものを見て見ぬふりして通り過ぎていく。偉い人たちの取り決めによって創り上げられた道路を走る車、それを守ることしか出来ない鉄の塊が与えられた道を走って行く姿にため息を吐くばかりだった。どれだけルールを犯すことをひとつの娯楽としていたとしても、幾つのルールを破って得意げになったとしても、所詮は決められた道を進むだけの滑稽な悪者なのだから。
外は凍えて仕方がない、歩いているだけでも暗闇の目隠しと寒気による孤独は当然のこと、聞こえてくる自然の音から得る計り知れない疎外感に身を蝕まれていた。しかしそれでも会いたい、そんな願望は湧いて溢れて止まらない。彼女は完全にある存在に依存してしまっていた。
明るい闇、それはベッドタウンの証、人間という存在が勝手気ままに手を加えて創り上げた輝きにて闇に付けた手垢。
どこまでも明るい闇に染めてしまおうとする人工の明かりではあったものの流石に森まで届くことはなかった。一寸先すら、指先の届く範囲でさえその瞳に形のひとつも映すことなく無尽蔵の暗黒がそこには広がっていた。そんな中、心を恐怖に震わせながらも目的を胸の中で幾度となく呟きながら歩みを進める。足元の見えない恐怖、所々に立てられた頼りない灯りがどこまでも頼りになる様、早くあの存在に会いたいと絶え間なく渇望して煮えたぎる想い。ただひとりの少女の身体の中を様々な感情が巡っては息づかいから地を踏む感触、見えないはずの暗闇に大きな絵画を作り出しその姿を現していた。
それからそこまで遠いはずのない距離に対して気の遠くなる時間を掛けたという錯覚を這わせ駆けることでどうにかポールの整列とそれらを繋ぐ鎖を目にすることが出来た。目的地の溜め池へと続く公園。その駐車場の入り口をふさぐ鎖を跨いで乗り越えて公園の中へと入って行く。
電灯の明かりが妙に多く感じられる公園を歩きながら刹菜は疑問をつかみ取っていた。閉園時間というものが有るにも拘わらず、そこにはいられないという門限が定められているにも拘わらず、灯りが多いという。
毎度のように疑問を抱えてしまう景色を見回しながら足を進め、木々に囲まれたため池へと続く道を辿り続けた。ため池はダムと繋がっているらしいが刹菜には全く用が無い。そんなダムを見たことが無く、これからも目にすることなどないであろう。
それから少し歩くことでようやくたどり着いたそこ。月の映る暗いため池をその目に映して刹菜は胸に手を当てる。
大きく息を吸い、想いを込めて世界へと、暗い昏いため池へと向けて幻想を呼び起こす音を奏でる。静かな空気を伝って流れる音色、刹菜の口によって作られた音は自然の中に自然と染み込んでいく。
闇に染まりきって静まりながら月を映すだけだったため池は薄緑の光を放つ。光はやがてため池全体へと広がり闇を薄緑で覆い尽くしていく。声の広がりと共に広がる光は薄緑の草原を水面に浮かび上がらせた。その後、大量に沈む草木までもが薄緑の光を放ち、白い粒が空を漂い始める。ため池は鏡面の地面となり、表面には草が、木が、蝶が、白い妖精たちが現れ、不思議に輝く神秘的な水面の草原に愉快な空気感を築き上げた。
刹菜は人間には分からないその言葉を歌い上げ続ける。妖精や小さな竜、水面を舞う蝶には全てが伝わっているのだろうか、みな揃いも揃って刹菜の周囲へと寄っていく。
光り輝く美しき異形の動きを目にして刹菜の足は光の精霊たちの元へ、溜め池の方へと一歩、また一歩、踏み出されて行く。
誰にも止められることなく進み続けた足はやがて地面から水面へと踏み出した。その鏡面の中に沈むこともなく波紋をつくり、刹菜という少女の歩行を受け入れた。
刹菜は薄らと輝く水の草原を歩いていた。
小さな竜は刹菜の周りを飛び回る。蝶は水面に神秘の輝きを与えながら咲き誇る花に留まって羽を閉じている。舞い続ける輝きは雪のようにもみえた。
刹菜はいつも、このような生き物たちと話して過ごしていた。
今日は人の世ではどのような事が起こったものか、人ならざる者の世ではどのような事が起こったのだろうか。答えては問いかけて、竜の頭を撫でては疲れ果てたニヤけ面をこの水面に咲かせた。
☆
刹菜はカーテンを開いた。開かれたカーテンの向こうに側には窓がそびえている。そんなガラスの壁をすり抜け入り込む日差しは纏められたカーテンの端からわずかにはみ出したレースのカーテンをすり抜けて刹菜の元へと届いて薄明るく照らしている。窓の向こうに広がる透き通る空の向こうには果たしてどのような運命の数々が島となって浮かんでいるのだろう。
刹菜はそんな空の海の浅瀬を見届けて満足の証のニヤけを顔に浮かべて、急いで制服に着替えてカバンを手に取り下の階へと降りて行く。時間としては余裕はあったものの、あまりその場で立ち尽くしていては閉じようとしている瞼の誘惑、昨夜の疲れの後味に負けてしまいそうだった。
ソファに座り新聞を読んでいた母親は刹菜が部屋に入って来ると共に新聞をテーブルに置いて微笑みを見せながら顔を上げた。その目は刹菜ただひとりを見ていた。その親しさは親というより友だちを想わせる。思わず刹菜は手を振りながら食卓に着いて食パンを慌てて食べ、喉に詰まらせて咳き込みながらもどうにか飲み込み、コーヒーに牛乳を注いで一気に飲み干した。その姿を見て女は柔らかな笑みを見せながらその手を振っていた。
続いて素早くドアを開いて外へと出て、学校へと向かった。眠気に身を任せるように朧と鮮明の意識をうつらうつらと移ろいながら歩き続ける。大して真面目に受けるつもりもない授業を聞き流して出席という結果を作りに行くために。
降り注ぐ淡い光は刹菜のニヤけ面を軽く照らして母親のような優しさで包み込んで見守っていた。その瞳の中に散る光は世界に虹を作り上げているようでどこまでも愛おしくて、離れたくなくて。
やがて学校に着くと深呼吸を何度か行い、気持ちを切り替える。母や自然、精霊などに見せる表情の甘みは微塵も露わにすることなく一段とわざとらしいニヤけを化粧の代わりにして自らを道化の糸を繰って演じてみせる。
今日もまた、仲間外れを一日中余すことなく味わうのだから。
☆
今日もまた寒くて暗い景色の中へと身を投じる。闇は何も見通すことの出来ない独自の空間を繰り広げていた。刹菜はそんな闇の中に身を溶かすように隠しては例によって森のため池へと向かっていた。ため池の近くへ、さらに近くへ、もうすぐそこへ。
歩みを進める刹菜は目的地の目と鼻の先まで来たその時、先客の存在に気が付いて足を止めた。
闇の中でもひと際濃くて黒い闇、純粋な闇が溜め池を飲み込むように覆っては微かな緑の輝きを散らせていた。
理解などしたく無かった。
だが、分かってしまった。
ため池にいた精霊たちを、薄く輝く小さな命たちを噛み千切り引き裂いては儚い欠片へと変貌させていた。
何者だろうか、分からない。
だが分かっている。
少なくとも、目の前のそれは敵であり大きな脅威。刹菜の幻想の夢の時を明確で不明な悪夢へと変えては現実を突きつける者。
刹菜はその捉えることの叶わない姿を、その存在の行いを目にしてただひたすら恐怖に怯えることしか出来なかった。
握りしめていた拳は力なくほどけては命が抜け落ちる様そのものを体現しながらぶらりと下がる。命が宿っている事には変わりがないのにもかかわらず何ひとつ同情無しに潰されて行く。ただただ自由を満喫していただけの小さな命たちが奪われていく。
静寂の暗闇の中、心だけがうるさく鳴り響いていた。そんな心情に押されて刹菜は振り返り、走り出した。
恐怖は心臓の鼓動を激しく打ち鳴らし、焦りは彼女から冷静の二文字を奪い去ってはますます湧いて増えて行く。心を恐怖に支配されて行動など選んでいる暇はない。命が惜しい、まだ死にたくない。
姿を見られたら変わり果てた友だちと同じ道を歩むだろう。
焦燥感に支配された心から出た想いは身体を竦ませるも、己を何度も叩いては生きるための手段を強行する。止めてはならない、異常がその身を生かしてくれるのならば平常を取り戻す余裕さえ作ることなくただ一心に駆け続ける。
家に帰って慌てて布団を被り蹲る。あの謎の存在に言わせれば恐らくは獲物を呼び出す導き手。リーダーともボスとも呼ぶことの出来る刹菜のことを追って来ないか、それだけが心配で仕方が無かった。
☆
恐怖の夜が明けて数日を経て、刹菜は再びあの溜め池を訪れた。仲間たちの死に様は今でも鮮明に瞼に焼き付いたままだったものの、ここまで行かずにはいられなかった。
次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、月の浮かぶ空の下で悲しみに打ちひしがれながら毎日のように池で精霊と話す例の歌を溜め池にて奏で続ける。本来ならば無感情で響かせなければならないその歌だったものの、悲哀の色をその響きに込めてしまう。
あの日のことを思い出していた。薄緑の輝きを持つ儚い命たちが月の輝きさえ凍ってしまう寒空の下で生き生きと飛び回っていた日々、その全てを食いちぎったあの純粋な闇のことを。その正体は分からない。如何なる姿を持っているのかそれすら分からないものの、決して知りたいとも思えなかった。出来れば二度と会うこともなく永遠に悲しみを滲ませてそのままでいたい。こればかりはことが進むということが新たな苦しみを生むことしかないのだと分かり切っていた。
歌声の中に恐怖の情が混ざり合う。あの闇は間違いなく刹菜にとっては脅威そのもの。突如現れたことは驚異で存在そのものは脅威。復讐する勇気すらないのであれば出会わないことが一番。それは分かっていた。
もう決して戻ってくることのない精霊たち、その姿を。薄緑の輝きを薄っすらと放つあの日の幻影を想いながら心の中を打ち付ける荒波に身を任せてもう戻ってくることのない仲間たちと話すための魔法を、人という生き物には本来は意味が理解できない音を歌にしてただただ静寂の冬空で響かせ続けるだけだった。
セカイへと流され続ける歌声は、夜のみなもに吸い込まれる音は落ち着きを取り戻し始めていた。心の荒波はさざ波へと抑えられ、波ひとつない静かな池の鏡面に同調を始めていた。
そうして落ち着いた心持ちで歌い続けること十分は経過しただろうか、それとももっとずっと長い時間、厳しい寒さの中に身を晒し続けていただろうか。
静寂を保ち続けていた闇を思わせる黒い鏡面、月明かりだけを映し出す曖昧な鏡が揺れ始めた。静寂の中に、平静の中に生まれた揺れが幾重にも重なり、大人しかった水に慌ただしい波を立て始める。やがて波を起こすモノが底から噴き出す泡たちなのだと、内側から静寂を脅かすモノがいるのだと刹菜は遅れながらに認識を得た。
やがて池の中心より、何かが上がってきた。夜の色をした水とそうした空気の色ですら染め上げることの叶わない気泡や衝動の混ざった水の柱。
刹菜は喜びを顔に表すも、それは時を待たずして凍り付いた。
池より這い上がるそれはおおよそ人間という存在では受け入れることの出来ないような穢れの象徴の姿をしていた。腐敗したヒトの形を持った何か。身体は青白く、所々が黒ずんでいて体の一部には人類への冒涜を想わせる欠損が見受けられる。
刹菜はこのため池で吸い込んでしまった二度目の恐怖に思考を揺らされる。以前は動くことさえ出来ないような大きくて重々しい恐怖感、今回のものは秒数を置くこともなく叫び散らして走り出してしまうような種のもの。
恐怖にも色があるということを身を持って叩き込まれた瞬間だった。
心臓を打ち付ける鼓動は加速していく。うるさくて心をも揺さぶるそれによって刹菜の心情は支配されて行った。血の流れは速く、吸う息は苦しく、警鐘を鳴らし続ける脳はとめどなく一色の感情を巡らせ続ける。体の隅々にまで行き渡る緊張は、心の中を余すことなく満たし続ける寒気は、吐き気を生み出しては刹那に刹菜の心地に悪質な布を掛ける。
ため池はいつになく速く遠ざかって行くものの、ヒトならざるモノはゆっくりと不自由を引き摺りながら進むだけではあったものの、いつに日か追いつかれてしまいそうな、今にも捕らえられてしまいそうな、そんな不安を循環させて身体に浸透していく。
刹菜の視界に入り込む異形の景色が新たな危機感を塗り付ける。木々の隙間からヒトのカタチを持つ者たちが、腐敗した死者たちがぞろぞろと現れる。後ろから、横から、次から次へと増えていく彼らを数える暇も度胸も無くただただ駆け抜けることしか出来なかった。
脚が発する痛みも寒さによって奪われて中途半端にしか残されていない感覚による警告も悉く無視して命を捨てないように命をも捨て去る覚悟を決めて足を動かし続けてやがて森から抜け出して行く。
息を切らしながら走り、森は遠ざかる様を確かめる余裕すら持たないまま止まることを知らずに走り続ける。苦しくて、冷たさと渇きによって肺は焼き付くような痛みを発していたものの、それでも足をとめずに走り続ける。
危険な場所から逃げ出せたその後も恐怖は弱まることもなくひたすら心を煽り、足を止めるという簡単な行動も、少し休むという単純な思考すらも忘却の彼方へと追い出していた。
慣れているはずの道、合っていることは確認するまでもなく分かっているはずなのにそれでも不安が胸の中で騒ぎ立てる帰り道を経て、ようやく見えた家のドア。その安全圏を前にして立ち尽くし膝に手を付いて首を垂れて闇に染められた地に目を向ける。吸っても吸っても身体が求める空気を充分に得られることなく、足りないことにもどかしさを感じていた。
疲れが癒されるまで待つこともなくドアを開いて家へと身を滑り込ませて、部屋へと駆け込んだ。
あの恐怖体験が再び脳裏を巡り、体を震わせながら縮み上がった心と同調しながら蹲る。体を縮め恐怖という感情の操り人形となって震えつづけ、まともに眠る事も出来なかった。
刹菜はもう夜にあの森には行かない、あのため池には二度と足を運ぶことはない。そう誓った。
あのような恐ろしい出来事もおぞましい存在も、もう一度たりとも見たくない、二度と会いたくない、そうひしひしと感じさせられていた。
精霊と話す者 焼魚圭 @salmon777
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