銀色
「弦くん弦くん! 見て見て!」
まるで散歩用のリードを手にした飼い主の姿を認めたときの犬のように、『うれしい』だけの感情を溢れさせながら駆け寄ってきた彼女の手には、僕たちがまだ付き合い始めたばかりの頃に買った置き時計が握られていた。
鳩時計の形をしたそれは、定刻がくるとハトの代わりにペンギンが飛び出して時刻を教えてくれるという、なんとも珍妙で彼女好みの代物であった。
大学を卒業したばかりの彼女が、それまで以上に僕の部屋に入り浸るようになった当時、いちばん最初に持ち込まれたのもこの置き時計だったように記憶している。
ただ、残念なことに数年前のある日、それはとつぜん故障してしまった。
今や背から電池を抜き取られ物言わぬオブジェと成り果てたその元時計は、電話機が置かれた台の片隅に、ちょこんと飾られたままになっていたはずだ。
「流風ちゃんそれ。そんなに気に入ってくれてたなら、また同じやつ買ってあげようか?」
実は数日前に仕事の途中で立ち寄った大型商業施設で、偶然同じ時計が売られているのを見かけていたのだ。
「ううん、いらない」
それは思ってもいなかった返答だった。
「だって――ほら!」
彼女は得意げな顔でそう言い放つと、手にした時計の背面をカチャカチャと操作する。
そして、次の瞬間。
『クルッポ』
時計の正面の小窓が左右にパカっと開き、中からずんぐりとした体型のペンギンがハトの鳴き声をあげながら飛び出してくる。
「え? 直ったの?」
「ううん。治ったんじゃなくって治したの」
「直した?」
「うん。さっきお掃除をしている時にもしかしたらって思って、一度バラバラにしてからもう一度組み立ててみたら、ほら」
『クルッポ』
なんて彼女らしい修理方法なのだろう。
たったそれだけのことで、何事もなかったかのように動き出したこの時計もこの時計だが。
「……でもね」
「うん?」
梅雨明けの青空のようだった彼女の表情がわずかに曇る。
「これ」
そう言って僕の顔の前に突き出した手の上には、銀色の小さな金属が三本ばかり乗っていた。
「ネジ、余っちゃったの」
「あはははっ」
それはまるで悪さをした子供が自らの罪を親に告白した時のようで、とにかくその微笑ましくすらある光景に思わず声を出して笑ってしまう。
「もう! これでもがんばったんだからね!」
「ごめんごめん。動いてるんだったらいいんじゃない? でもそのネジ、一応とっておくね」
頬を膨らませたままの彼女からネジを受け取り寝室へと向かい、ベッド脇のナイトテーブルの引き出しの奥に仕舞い込む。
代わりにひとつ下の引き出しから小さな箱を取り出すと、それを手にして彼女のもとへと戻った。
彼女は直ったばかりの時計を胸に抱え、大層ご満悦な様子でソファーに座っていた。
その横に腰掛けると、先ほどの箱を開きながら彼女に話しかける。
「流風ちゃん。さっきのネジの代わりにこれ、あげるよ」
「え、なあに?」
彼女の左手をそっと引き寄せ、少女のように細い薬指に銀色の輪をはめ込む。
一年も前に購入し、彼女に気づかれぬよう密かに隠し持っていた五号サイズのリングは、時計のネジと同じような色こそしていたが、その輝きと値段は比べようもない。
形のいい唇を『え』の形であけたまま硬直する彼女の手をそっと握り、
「その時計みたいにこれからもずっと、君と同じ
自らの手元に落としていた視線をゆっくりと上げた彼女の、その宝石のような大きな瞳をしっかりと見据えながら、僕は尚も言葉を続けた。
「流風ちゃん、結婚してほしい」
「……うん。私も……私も弦くんと結婚したい」
◇
それからも僕たちは、ずっとずっと幸せであり続けた。
新居は彼女の希望もあって、海の見える高台の住宅地に白い壁の一戸建てを購入した。
通勤時間とローンの期間はそれぞれ一時間と十年ほど伸びてしまったが、自宅の最寄り駅を降りた途端に香ってくる潮風は、彼女と出会ったあの日の思い出をいつでも呼び覚ましてくれた。
それだけでももう、ここをふたりの巣に選んで本当によかったと思えた。
◇ ◇
僕と彼女が一緒になってから四年。
その日は珍しく残業がなかった。
普段より二時間も早く帰宅の途に就いた僕は、滅多に乗ることのない時間帯の電車に揺れていた。
車窓から射し込む夕日にオレンジ色に染め上げられた車内では、制服に身を包んだ学生たちが皆、その手元に向かって視線を落している。
かつては僕も電車で学校に通っていたのだが、その当時は今ほど日常生活がスマホに依存してはいなかった。
だからだろうか。
すぐ眼前にこんなにも美しい夕焼けの景色が広がっているというのに、彼ら彼女らはなんて勿体のない時間の使い方をしているのだろう。
自然とそんなことを思ってしまった自分は、もはや完膚なきまでにオッサンなのかもしれない。
そのことに少しだけ落胆したが、それもまた生きている以上は仕方のないことだった。
潮の匂いのする風を全身に受けながら駅から十分歩き、ようやく愛する人が待つ我が家へと帰ってきた。
「ただいまー」
靴を揃えてから玄関の框を跨ぎ、リビングに妻の姿を探すも見当たらない。
「あれ? 流風ちゃん帰ったよー」
浴室や寝室とあちこちを探し回ったが、けっきょく家のどこにも愛妻の姿を見つけることはできなかった。
家にいないとなれば、恐らくは買い物にでも出掛けているのだろう。
だとしたら十中八九、いつものスーパーマーケットにいるはずだ。
こっそり車で迎えに行って驚かせようか?
その帰りに海にでも寄って、デートをするのもいいかもしれない。
うん、そうしよう。
手ぶらでというわけにもいかないので、通勤カバンから財布とスマホを取り出そうとした、その時だった。
手にした途端に震えだしたスマホに、「ひゃっ!」と情けない声を上げてしまう。
取り落としそうになったそれを持ち直して画面を覗き込むと、そこには『桜木流風』の名前が表示されていた。
「もしもし流風ちゃん?」
『あ、弦くん。お仕事中にごめんなさい』
「ううん。今日は定時であがって、ちょうど家についたところだよ」
『あ……そうなんだ。じゃあ、ごめんなさい。車で迎えにきてもらってもいい?』
「もちろん。それでどこにいるの?」
『駅前にあるレディースクリニックなんだけど、場所ってわかる?』
50キロ制限の道路をそれにも満たない速度で走る。
「四か月だって」
「……」
「弦くん?」
「あ……ごめん」
いつもより心なしか顔色の優れない彼女だったが、その表情は幸せに満ち溢れているように見えた。
車は国道を離れ県道に分け入ると、潮風の香りを辿るように自宅へと向かう道をまっすぐに進んだ。
「赤ちゃんの名前なんだけど、もう決めちゃったんだ」
「え、もう?」
「うん。本当はもっと、ずっと前から考えてたんだけどね」
「そっか。それで、なんていう名前?」
「うん。まだ男の子か女の子かわからないけど、
「ゆみ?」
「うん。弦くんみたいに優しくて素敵な人になって欲しいから。だから、弓がいいなって」
突如としてゲリラ豪雨にでも遭遇したように視界がゆらゆらと揺らぎ、慌ててブレーキを踏んでしまう。
ちょうど道路の脇にちょっとしたスペースを見つけ、いそいそと車を止めると彼女のほうに向き直る。
「流風ちゃんがその名前でいいのなら……うん。僕もそれでいい」
「弦くん、ありがとう」
彼女はバッグから真っ白なハンカチを取り出すと、涙で濡れた僕の頬を優しく拭ってくれる。
「僕のほうこそ、本当にありがとう。愛してるよ、流風ちゃん」
「うん、知ってたよ。だってそれ、私も同じだから」
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