レギュラー満タン

 ピンポーン


 決算月と大口の取引が重なった今月の忙しさといえば、それこそ猫の手も借りたいほどの有り様であった。

 だからこそ、この土日は家から一歩も出ずに寝て過ごしてやろうと、そう目論んでいた。

 昨日の終業後にスーパーマーケットで二日分の食料つまみ飲料ビールを買い込んでから帰宅したのも、もちろんそのためだった。


 ピンポーン


 昨夜は録るだけ録って観ていなかったドラマや、積むだけ積んで読んでいなかった漫画を片っ端から消化しているうちに、気がつけば朝日が昇っていた。

 二十六の歳にもなって、やっていることはといえば学生時代と何も変わらないのだから、我がことながら残念としか言いようがない。


 ピンポーン


 時間にして八十秒、回数にして七回無視し続けたにもかかわらず、玄関のチャイムは鳴り止むことをしてくれなかった。

 そのチャイムの主は僕からすると、やっと訪れた安息の時間を妨げる憎むべき存在でしかない。

 たが、今がとっくに正午を回っていることを考慮に入れると、それはまったくの言い掛かりだという言説も否定できない。

「出るよ。出ますよ。出ればいいんでしょ」

 ようやく覚悟を決めると掛け布団を蹴飛ばし起き上がり、リビングの壁でインジケーターを赤く光らせるドアフォンと対峙する。


「はい。どちらさまでしょう?」

『あ、こんにちは』

 どうせ新聞か浄水器のセールスか何かだろうと踏んでいた手前、まるで鈴の音のようなソプラノボイスが返ってきたことに面食らってしまう。

『あの。私、相馬といいます。隣の部屋に引っ越してきました』

 相馬と名乗ったその女性は、ドアフォンの小さな画面の向こう側で深くお辞儀をする。

「あ……どうも。桜木です。こちらこそどうぞよろし――」

『あの!』

 私の挨拶は8文字を残して先方の悲鳴に近い声量によって遮られた。

「……どうかされました?」

『初対面なのに本当にごめんなさい。あの、助けてください』

 字面どおりの意味であれば、僕と彼女はまだ対面すらしていなかったのだが、助けてくれとはどうにも穏やかではない。

「……着替えるので少しだけ待ってください」


 ◇


「多分これで大丈夫だと思います」

 ダンボール箱の中に梱包資材を押し込みながら振り向くと、彼女は長い黒髪がフローリングの床につくほど頭を下げ、そしてこう言った。

「ありがとうございました。今夜どうしても観たいドラマがあったから。だから本当に助かりました」

 実際のところ僕がしたことといえば、たかだかテレビと壁とを数本のケーブルで繋いだだけだったのだが、たとえそんな程度であっても女性には困難な作業なのかもしれない。

 僕にとっての台所仕事が彼女にとっての配線作業だと思えば、それを想像するのは容易であった。

「いえ。お役に立てたのであれば何よりです」

 こんなにも喜んで貰えたのなら、叩き起こされた甲斐もあったというものだ。

「それじゃ僕はこれで。もしまた何かあったら呼んでください」

 軽作業を伴う用事だったせいか、うっかり町の水道屋のような言い草になってしまった。

 我が家と同じ造りの玄関で靴を履き、そそくさと他人の家から退散しようとした、その時だった。

「あの。だったらもうひとつだけいいですか?」

 呼び止められて振り返った僕の顔は、鏡を見るまでもなく『怪訝』を表現していたはずだ。

「なんでしょう?」

「あの。車のガソリンって、どうやって入れたらいいんでしょうか? 軽自動車だから軽油っていうのでいいんでしょうか?」

 まったく良くないです。


 ◇


「ここですか? 本当にここの穴であってますか?」

「大丈夫、合ってます。そこに先端をゆっくり奥まで――そうそう上手上手」

 彼女の軽自動車で最寄りのガソリンスタンドまで行くと、フューエルリッドの開け方から油種の選択方法、それに給油ノズルの取り扱いまでをも丁寧に教える。

 両手でしっかりと握ったノズルを慎重に給油口に挿し込んだ彼女は、給油レバーを握る寸前、まるで鳥が囀るような小さな声で「はいおくまんたん入ります」と口にした。

「……難しい言葉をご存知ですね」

「あ! ごめんなさい。お父さんの車でガソリンスタンドに行った時にお店の人がそう言ってたから……」

「なるほど」

 餓死寸前だった軽自動車の燃料タンクに、が勢いよく注ぎ込まれる。

 しばらくすると満タンを検知した給油機が、ガツンという大きな音を立てて給油を停止した。

 その音に驚いたのであろう。

 彼女はまるで小動物のように肩を細かく震わせながら、怯えた目をしてこちらに顔を向けた。

「そういう仕組みなので大丈夫です。これで満タンになったから、あとはその握っているスイッチみたいな部分を離してホースを元の場所に返してください」

 指示された通りにノズルを巣に戻した彼女に、今度はキャップの締め方と精算のやり方をレクチャーし、最後に給油機から排出されたレシートを切り取って手渡す。

「以上です。お疲れ様でした。次からはひとりで出来そうですか?」

 やや青みを帯びた溜息と一緒に吐き出した僕の問い掛けに対し、彼女は即座に「ぜんぜん自信ないです」と自信満々に答えたのだった。


 給油を終え二〇キロほど重くなった車に乗り込み、来た時とは逆方向にウインカーを出してガソリンスタンドをあとにする。

 せっかくの貴重な休日のその二時間あまりを、ほんのさっき隣人になったばかりのほぼ他人に捧げた気持ちは微妙だった。

 が、今後の付き合いもあるし、何よりこんな程度のことで人助けができたのであれば、それはもしかしたら浪費した時間に見合う価値はあったのかもしれない。

 と、無理やり自分に言い聞かせる。

 休日の国道は思いのほか空いていた。

 昨夜のニュースで見知った顔の天気予報士が、『この三連休は絶好の観光日和になるでしょう』と笑顔で話していたのを思い出す。

 普段の週末以上に静かなこの光景は、果たして住人たちが行楽に出掛けたことによって作り出されたものなのだろうか。

 今に始まったことではないが、年々夏と冬との気温差が大きくなっているような気がする。

 それゆえに、そのどちらでもなく過ごしやすい季節が尊い存在に感じられ、僕はとりわけ春よりも秋のほうが好きだった。

 ただ、こうして交通量の乏しい郊外の道路をドライブするというシチュエーションに限っていえば、少し物悲しい雰囲気のある秋よりも、緑の息吹を感じる今の季節のほうが好ましくも思えた。


 両手でしっかりとハンドルを握りながら、視線を一瞬だけ助手席に向ける。

 自動車の免許を持っている以上、成人年齢なのは間違いないはずだが、その容姿は随分と幼いように見えた。

 この春に高校を卒業したばかりだとすれば、僕よりも七つか八つは年下なのだろう。

 よく手入れのされた黒髪は、まるで上質な素麺――もとい絹糸のような繊細さで、長さは腰の少し上くらいまでもありそうだった。

 手元のスマホに落とす真剣な眼差しはよく磨かれた黒曜石のように輝き、そのすぐ下には少女漫画のヒロインを思わせる形の良い鼻と薄い唇がついている。

 つまるところ麗人びじんそのものであり、それが彼女の容姿に対する率直な感想で、それ故にいらぬ老婆心が励起される。

 彼女はもう少し警戒心を持ったほうがいい。

 ここがいくら田舎の町とはいえ、悪いヤツというのはどこにでもいるのだから。

「次の信号機を右折でお願いします!」

「え? あ、はい」

 交差点まで三〇メートルというところで出された指示に急ハンドルで従う。

 そこは本来であれば左折すべき場所であり、当然の帰結として我らがマンションからはどんどん遠ざかって行く。


 前席の少しだけ開けた窓から迷い込んでくる風は緑色で、それだけでも今日がドライブ日和だということは間違いない。

 もっとも、これがただのドライブであったならの話だが。

「あの、相馬さんに質問です。この車って今、どこに向かってるんでしょうか?」

 酔っぱらい客を乗せてしまったタクシー運転手さながらの物言いだったが、どう足掻いたところで目的地は彼女しか知り得ないのだ。

「海です」

「その海って、世間一般で言うところの海のことで合ってます?」

「はい、その海です。私が住んでいたところって海なし県なんです。だから大学は絶対に海の近くを受験しようって。地元の高校に受かった頃からずっと決めていたんです」

「それはまた随分と前から」

「はい。夢でしたから」

「夢、ですか」

 会話のキャッチボールとしてはかろうじて成立してこそいたが、やはり彼女は少しだけ特殊なのかもしれない。


 しばらく車を走らせていると、唐突に自分が空腹であることに気付く。

 そういえば最後にまともな食事をとったのは、今から遡ること十五時間も前のことだったはずだ。

 この期に及んで、『やっぱり帰りません?』と言えるような状況にも思えず、僕はようやく腹をくくる覚悟を決めた。

「相馬さん」

「あ、ルカです。流れる風と書いて、流風です」

 涼し気な外見とふわふわとした内面を持つ彼女には、流風というその名前はとても似合っているような気がした。

「流風さん。海に行く前にどこかでお昼ごはんにしませんか? お腹を膨らませてからのほうがゆっくりできそうだし」

 時間的な観点からすれば、昼飯というよりは晩飯のほうが適切な気もしたが、僕の世界は僕を中心に回っているのだから、なんなら朝飯といってもよかったくらいだった。

「あ、じゃあさっきのお礼にごちそうさせてほしいです」

 桜の季節を迎えたばかりの今にして、彼女はまるで真夏の向日葵のような笑顔を咲かせるとそう言った。

 そのあまりの眩しさに、思わず視線が助手席に釘付けになってしまいそうになる。

 慌てて首を左右に振ると、冷静を装いつつ進行方向に意識を戻した。

「じゃあ、お言葉に甘えて」


 この道をこのまま真っ直ぐ進めばすぐにでも海が見えてくるはずだが、僕はその少し手前に経由地を設定した。

 そこはハンバーグがとても美味しい小さな洋食店で、学生だった時分によく利用したお気に入りの場所だった。

 少し大きな俵型のそれを、彼女も気に入ってくれると良いのだが。

「あの、流風さん」

「はい?」

「僕の下の名前はげんっていいます。ギターとかバイオリンとかの、あの弦です」

「弦さんですか? すごくいいお名前ですね!」

 助手席にふたたび向日葵の花が咲いた。

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