第2話

「マスター、マティーニをくれ」


 いつものバー。といっても職場からさほど離れてはいない、メインストリートから隠れたような裏路地にあるレトロなバーだった。


「飲み過ぎだよ。一致さん」


「いいんだ、金なら持ってる」


「はぁ」


 ため息をはく初老の男は、服の上からでもわかるほど盛り上がった大胸筋の持ち主で、立派な白いひげを右手で触ったあとジンとベルモットをマドラーにいれ慣れた手つきでシェイクする。


「なにか仕事で失敗したのですか?」


「俺が仕事で? ありえないね」


「左様で」


「……なぁマスターは結婚してるのか?」


「してませんよ」


「そうかい、じゃあ成婚させてやろうか。あんたなら十個くらい年下な女でも自信をもって紹介できるぜ」


「結構でございます。私には愛した人がおりましたゆえ」


「フラれたのか?」


「そうですね。その質問の答えを言うとするなら一致さんと同じです」


「そうかい」


 俺の挑発にものらずマスターはグラスに出来上がったマティーニをそそぐとオリーブをひとつ落とした。


 落とされたオリーブは小さなグラスの海に沈み、俺の目の前に現れる。


「つまらないなマスター」


「そうですか、私は一致さんとの話を毎週楽しみにしてますよ」


 マスターは微笑んだ。その笑みにはまったく嫌味や値踏みなど感じられない。


 俺はそんなマスターを無性に腹立たしく思う。


「西麻布のバカみたいに土地代が高いところに店をかまえておきながらこんな隠れたような裏路地で商売をしている。おまけに客はいつも俺一人。あなたはよほどの物好きかただのバカか……不動産屋はどこを使った?」


「さぁずいぶん前のことなので」


 はぐらかされる。俺はどうにかしてこの男の感情を引き出したかった。


「今日はお仕事の話をしてくれないのですか?」


 俺がどうしたものかと思考を巡らせているうちに向こうから話題を振ってきた。俺はつい数時間前のことを思い出しながら、回していたグラスを口につける。


「今日も一組成婚させたよ」


「おめでとうございます」


「そうかな、俺にはまた一組の男女を不幸に陥れたと思ってるよ。自分のキャリアのために利用されるやつらが哀れでしかない」


「またまた思ってもないことを」


 俺はグラスを傾け一気に胃の中にマティーニを流し込んだ。


「テレビで見ましたよ。多くの方々は一致さんは恋愛弱者の救世主だと称賛しておりました」


「……マスター、この国に恋愛弱者なんていないよ」


「そう言いますと」


「よくメディアでは弱者男性とか弱者女性とかそんな語呂合わせの良い言葉を使いたがるけど、そんな人間はいないんだ。彼らはただ単に情報弱者なだけで、社会や地域、家族からも隔離され視野が狭くなって暴れだす。どんなにくそ野郎でも人間必ずいいところや他人よりも優れているところはあるのさ」


「それじゃあ一致さんはそう言う方たちにいいところを教えてあげてらっしゃると」


「違うね」


 俺は飲み干したグラスを乱雑にマスターに突っ返す。


「俺はただ情報を与えているだけだ。自分の市場価値をわからせ需要と供給の交差する相手を見繕う。まぁそこにいたるまでが少々強引だがね」


 目の前の男はゆっくり首を傾げて言った。


「さっぱりわかりませんな」


「なにが?」


「そこまで相手のことを考えていて実際に結果を出している一致さんがそんなにやさぐれてしまったのか」


「フンっ……とどのつまり彼らは情報弱者でどうしようもない怠け者だ。結婚と言う人生を決定づけるイベントを赤の他人のサポートにゆだね、気に入らなければ文句をいい人のせい、さらにプライドだけは高くて周りの人間よりも上でいたがる。だけどそのくせ最後の決断を自分ひとりで下せないからこっちがおだててはやし立ててようやく成婚。そこに自分の意志はない。こっちがそう見せてるだけ。マスターの周りにもいないか? 友達がやってるから、国が勧めてるからとよく調べもしないくせに投資を始める人間を。あれと彼らは似ている。そういう人間を俺たちの業界ではなんてよぶかわかるかい?」


「さぁ、なんて言うんです?」


「カモって言うんだよ」


「……こちら新作です」


 そう言って新しいカクテルをグラスに注いだ。


「これは?」


「異世界への扉でございます」


「いただこう」


 俺は無色透明なその液体が入ったグラスに手を伸ばす。


「一致さん!」


 その瞬間、ドアベルの音とともに見知った声が背中をつきさした。


「田中か、今は終業後だぞ」


「やっぱり私一致さんの発言には納得できません」


「そんなことを言うためにわざわざこんなところまできたのか? 呆れるな」


 俺の言葉に田中は身体を震わせていた。


「まぁお嬢さんこちらにどうやって来たのかは知りませんが、これも何かの縁です。一杯どうですか。サービスいたしますよ」


 マスターは屈託のない笑顔を見せ彼女を安心させる。田中はそんなマスターの甘い言葉に誘われて俺の横に腰をおろした。


「私、こういうお店に来たことないからお酒の味とか分からないんですが」


「大丈夫、きっとおいしいと思いますよ」


 最初は俺も黙っていたがこの二人の会話が盛り上がるのが癪に障った。


「興覚めだ。これを飲んだら帰る」


 俺はきょろきょろと周囲を眺めながら座っている田中の仕草に苛立ちを覚えて新作のカクテルを飲み干した。


「それじゃあマスターお釣りはいらないから」


「ちょっとまってください。まだ話は終わって」


 田中は初めてのカクテルをゆっくり味わうことなく飲み干して俺の後を追うように音を立てて走ってくる。


 俺は構わないで扉を開けた。


「なっ……なんだここは」


 そこには何もなかった。人も街灯も道さえも消え去って、夜ではない。ただ真っ暗な闇が世界を支配していた。


「一致さん、お代はけっこうですよ」


 マスターの声が耳元で聞こえる。


 刹那、俺の視界は突然の白い光に襲われて、もうなにも映さなくなった。






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