フォーカス

川野狼

フォーカス

 僕の眼鏡には、拭っても拭いきれない「汚れ」が付いている。

 まるで魂に刻まれた傷のように、それは在り続ける。

 形や大きさを変えることはあっても、決して消えることのないそれ。

 僕は自分が認められることに繋がると思うから、誰に対してもフォーカスしたい、しなればならないと思っている。自分の幸せに繋がると思うから。

 フォーカスにとって、「汚れ」は邪魔だ。

 だけど普段はそれの存在に気付けないから、とても悔しい。


 眼鏡を水にさらしたが、手元にセリートがない。

 仕方がないので自分の服でレンズを拭う。

 そりゃ、「汚れ」が消えるわけがねぇわな。


 ホームの奥から電車がやってきた。

 僕は「汚れ」が付いたままの眼鏡をかけ、電車に乗り込む。


 適当なところの手摺を掴むと、目の前に、申し訳なさそうに眉をひそめる一人の父親が座っていた。その腕は顔とは異なりとても優しく、柔らかく自分の子どもを包み抱えている。

 腕の中、綺麗に髪が整えられた五歳くらいの女の子は、穏やかな寝息をたてながら父親の方を向いて眠っていた。女の子の脚は大きくハの字に開いていて、足先が外側に向けられている。

 父親は少しでも娘を席に収めようと自らの脚を強く細める。

 電車が揺れて、女の子の靴が隣の会社員のズボンに触れそうになった。

 会社員の男性は少し嫌そうな顔をした。

 女の子はのんきに目を閉じままだが、父親と僕は額に汗を滲ませた。


 僕は会社員に、少しくらい許してやってよ。気が短いなぁ、と思った。

 父親はあれだけ頑張っているじゃないか、ちょっとくらい理解してやれないもんかなぁ。

 心は完全に父子おやこの味方だった。

 だが、それは自分にとって大きな間違いだった。


 電車が駅に着き、会社員が僕の脇を通り過ぎる時、ふとスマホにその人の娘らしき二人の女の子の写真が見えた。

 その時、僕は気が付いた、自分が目の前に座る親子にしかフォーカス出来ていなかったことに。

 この会社員にも子どもがいる。だから僕の目の前の親子の気持ちはよくわかっていたに違いない。ただそれでも、服を汚されたいわけではないから、「少し」嫌そうな顔をしたのかもしれない。

 憶測だ。でも、その可能性は大きい。

 いずれにせよ、僕はこの会社員にフォーカス出来ていなかった。

「汚れ」の裏に、それの裏に隠されていたんだ。

 それの存在に気付けなかったことがとても悔しかった。


 電車を降りていく会社員の背中を呆然と眺める。

 僕は、今出来るフォーカスを大事にしようと思った。

 しかし、前を見て額の汗が頬まで伝うのを感じた。

 あたりを見回したが、僕は目の前に座っていたはずのあの親子を見つけることが出来なかった。

 また、それによって見えなくなってしまっていたんだ。


 僕は深く息を吸い、内省した。

 僕は努力したい、しなればならないと心から思っている。


 僕には、拭っても拭いきれないそれが付いている。

 まるで魂に刻まれた傷のように、それはそこに在り続ける。

 形や大きさを変えることはあっても、決して消えることのないそれ。

 僕はそれを抱えたまま、全てにフォーカスを試みる。

 それに気付けない心苦しさと向き合いながら。

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フォーカス 川野狼 @Kawano_Okami

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