2週間で何冊読める?

 その問いに正直に答えることができず、「上若さんのおすすめなら何冊でも」と答えてしまったので、上限いっぱいの10冊まで借りることになってしまった。

 芥川賞の選考対象になるような短編中心だから読めないことはないのだが、俺の読書スピードは決して速いほうではない。よって夏休みの課題を放り出し、ソシャゲのログインボーナスも忘れ、自由時間のほぼすべてを読書に費やすことになった。

 もともと読書家でもないのが嘘のような日々だった。

 ライトノベルを読んでいたのは、ただの暇つぶしだった。休み時間に誰とも話すこともできなくて、昼休みに遊ぶような友達もいなくて、でも寝たフリをして喧騒をやり過ごすようなメンタルもなくて、手軽に楽しめる小説を読んでいるだけだった。ひとりでいる理由を、『俺が暗くて話もできないやつだから』じゃなくて『エロ系とロリ系のライトノベルを読んでいるから』にして、言い訳したかったところもある。

 誰かに言い訳するためじゃない。自分に言い訳しなきゃ惨めで、毎日教室に行く気を保てなかった。俺が悪いわけじゃなくて、読んでいる本が悪い。孤立するのはオタクだからしょうがない、と思い込むために、俺は本を利用していた。

 オタク同士で仲良くしている人間にも、ライトノベルにブックカバーをかけている人間からも、誰も俺の本の話なんかしない現実からも目を背けて、自分に言い訳ばかりを重ねていた。

 それだけだった俺なのに、毎日何時間も純文学を読む生活にも耐えられた。耐える、は表現が違うか。俺はあの日々を楽しんでいた。

 読書そのものが面白かったのもそうだが、上若と休み時間に話しているような気にもなれたから。

 俺好みの表現を見つけると、上若はどう思ったのか気になる。あとから聞いてみようと、上若との会話用に買ったメモ帳に書きつける。この本の何ページ目のこの表現、どう思いますか。

 上若のことがもっと知りたくて、俺は必死におすすめされた本を読み漁った。どんな表現を気に入ってこの本をおすすめに選んだのか。テーマが刺さったのか。文体が好きなのか。登場人物に自分を重ねたのだろうか。

 どうにかして上若の片鱗を感じ取ろうと、文章を深く読み込む。すると物語そのものの面白さも引き出されて、俺はすっかり読書や純文学そのものが好きになっていた。

 返却期限を3日残して、俺はすべての本を読み終えた。寝る前に少しだけと読み始めた本が刺さって、いつの間にか夜が明けていたのだ。

 読後、いい物語を読んだとき特有の高揚感を持て余しながら、朝食を食べて登校準備を済ませる。何か本を持っていこうとしたとき、本棚には既読の本とライトノベルしかないことに気がついた。何も入れずに、鞄のチャックを閉める。

 その日の朝、いつもより30分も早く家を出た。

 運動部で朝練があった人以外は教室にいないような時間。今さら夏休みの課題をしながら、彼女を待つ。

 上若は5分と経たないうちに登校してきた。体育祭の練習が多く入っているからか、おさげをポニーテールにしている。

 まるでランウェイを闊歩するかのような足取りで、自分の席まで向かう──という予想に反し、上若は俺の席にやってきた。

「おはよう」

 こんなことは夏休み明け初日以外になくて、動揺のあまり持っていたシャーペンを落とし、変な動きをした腕のせいで消しゴムまで落ちる。慌てて拾おうとしたが、先に上若が拾った。艶やかさすら感じる、流れるような動作だった。

「あっ、ありがとうございます……」

「これくらいお礼なんかいいよ。そんなことより、もう読み終わったの? 昨日までは本読んでたのに、今日は課題やってるから……」

「あっ、はい」

「へぇ、早いね」

 上若は次々と俺に声をかけてくれるのに、俺はそれにひとことしか返せていない。不甲斐なくて、そんな自分を変えたくて、上若の唇が動く前に「どっ」と声を出す。

 一重の、切れ長な瞳が俺を捉えた。

「どれも面白くて、もっと読みたいと思う本ばかりで、気がついたらこんなに早く読み終わっていた……という、次第です」

 しどろもどろで、切らなくていいところで切れるような声。こんなので伝わるのか不安だったが、上若はパッと見てわかるほど明確に表情を緩めた。嬉しさと安堵が混じった顔のように見えた。

「よかった。いつもラノベ読んでるからどうなのかなって不安だったけど、意外と読書の趣味合うんだね」

「あっ、ああ……あれ……」

 ちゃんと話そう。

 そう決意した途端だったのに、いつも以上に言葉が出なくなった。

 俺が教室でひとり本を読んでいる上若を認識していたなら、向こうだって当然俺のことを認識しているはずだった。特に俺たちは、同じ委員会という共通点がある。出席番号だって、そう離れているわけではない。同じ班になったこともあった。

 特に俺が読んでいた本は目立つ。見ようとしなくたって見えることもあっただろう。そのとき、上若は俺のことをどんなふうに思ったのだろうか。

 自分で作った言い訳に苦しめられる日が来ようとは、夢にも思わなかった。教室で話せる人ができるなんて、ましてやそれが女子だなんて、まったく予想していなかった。こんなことなら、適当な一般文芸でも読んでおくべきだった。近付きがたさを演出するなら、相対性理論について解説するような難しい本でも読んでおくんだった。

 今さら頭を抱えて苦しんだとて、上若の記憶を消せるわけではない。すっかり黙り込んでしまった俺に、上若は「弟も同じ本読んでたから、もしかしたら奇跡起きるかも」と軽やかに言い放った。

「あ、あぁっ、い、いいと思いますよ。弟さんも、もしかしたら気に入るんじゃないでしょうか……」

 予想だにしない言葉だったが、有耶無耶にするには乗っかるしかあるまい。俺は上若が好きだったから読んでいた側面も大きいわけで、弟も同じように行くとはあまり思えなかったが。

「あっ、あの、もしよかったら感想会とか……。おすすめの本を教えてくれませんか?」

 話題を変えたい、という一心だけで声を出す。拒否されたらどうしようという思考が働かなかったからか、数分前の俺と同一人物とは信じられないくらい大胆なことも言えた。相変わらずどもってはいたが。

「うん、いいね。早速昼休み、図書室行く?」

「は、はいっ」

「あと、スマホ持ってる? ライン交換して、そこで感想言い合いたいんだけど」

「は、はいっ。だだ、大丈夫です、持ってます……」

 怒涛の勢いで放たれる、一生縁遠いと思っていた言葉の数々に目眩すらしてくる。

「じゃあ昼休みにID書いた紙渡すから、凛くんのほうで検索してもらっていいかな?」

「はっ、はい、もちろんです」

「よかった。それじゃ私、本読みに戻るから」

 何の未練もなく去ってゆく背中に、一方通行の想いを悟る。

 俺が上若くらい話せる人間なら、きっと無理矢理にでも話を繋げようとした。読書よりも、上若と話していたいと思うから。

 でも、上若は違う。本が中心で、本が第一なのだ。

 好きな本の表紙を興味深そうに見ている同級生がいたから、声をかけた。感想を聞いて見込みがあると思ったから、図書館に誘った。好きな小説を10冊もおすすめしたから、反応が気になった。せっかくできた純文学仲間を逃したくないから、昼休みに図書室へ行こうと誘った。ラインも教えようとした。

 たったそれだけで、別に俺じゃなくてもよかった。むしろきっと、俺以外のほうがよかっただろう。こんな根暗で、見た目もいいほうではなくて、きちんと喋ることもできない男じゃないやつ。何なら女のほうが都合いいだろう。俺みたいに、一方的に好意を寄せることなく、下心で読書に勤しむようなこともなく、純粋に純文学を楽しんで話せるような女友達だったらよかった。

 そう考えると申し訳なくなってきて、今すぐ上若のところへ行って『違うんだ』と伝えたくなる。俺は上若が思っているような、読書好きな人間じゃないって。ちゃんとした純文学好きじゃないんだって。上若の期待を裏切ってるんだって、洗いざらい話したくなった。

 けれど俺は席から立とうともせず、いまだに終わらない夏休みの課題と格闘しているフリをする。問題文なんか、何も頭に入ってこなかった。

 騙すことになっても、失望されたくなかった。上若の読書仲間で、友達で、特別な存在になりたかった。

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